005
最悪の目覚めだ。
カトレアはぼんやりとした頭のまま、薄っすらと目を覚ます。彼女の目の前に広がるのは、食べ散らかされた料理の数々だ。ジブリの世界に出てくるような骨付き肉が中途半端に食い散らかされ、そのまま木製のテーブルの上に放置されている。無骨なナイフがフランスパンのような細長く固そうなパンに突き刺さり、歪な形の酒瓶が何本も床に転がっていた。
カトレアがぐるりと首を巡らせれば、今いる場所は丸太組の家の中のようであった。二階の廊下が彼女の場所からは良く見える。家屋自体は全体的に煤けた印象を受け、あまり小奇麗には見えない。ところどころ蜘蛛の巣も見受けられる。
ここにきて漸く頭が動き出したカトレアは、夢ではない自分の姿を確認した。
あるべきものが無く、無いはずの物がある。自分の胸を揉みしだいてみれば、手の平の感触が本物のオッパイであることを伝えてくる。
「……開幕奴隷落ちとか、ネタになるなぁ」
可愛らしい声が自分の口から出る事に違和感を覚えながら、カトレアはそっと首に手を当てる。そこには無骨な皮ベルトがしっかりと巻かれていた。それでいて、装着感はあまり感じない。
手直に自分の荷物も無い。服装も元の世界のものではなく、簡易的な布切れと称して良い代物だ。もちろん、自分の荷物が手近にないということは、帰還装置も無いということであり、つまり、要するに、自殺したとしても現実世界への期間が困難という事になる。
「これからどうしよう……」
カトレアはとりあえず目の前にある、パンに突き刺さったナイフを手に取った。無骨なナイフであり、ズシリとした重みを感じる。
切れ味を確かめるべく、そのままパンをゆっくりと切ってみると、想像以上に鋭い切れ味を見せた。そのまま切ったパンを一口齧る。
「うま」
これまた、思った以上にパンが美味しかった。予想ではもっと固くてもそもそしたものかと思っていたからだ。途端にカトレアのお腹が盛大に鳴る。
思い返すと、異世界旅行がスタートして何も口にしていない。
一度気付いてしまうと、目の前の料理から漂う良い香りも相まって、口中に唾液が充満してくる。
ひょい、とお行儀悪く手で掴んで口に放り込んだのは、サラミのような食材。お肉の味がしっかりとしていて、酒のつまみに合いそうだった。
「……開き直って異世界の料理を食べておくか」
カトレアはこのナイフで自殺を図るつもりであった。だが、帰還装置が手元に無ければ、それは本当にただの自殺となってしまう。元の世界に戻ることは出来ない。
であるならば、異常を察した旅行会社からの通報で、救助者がこちらに来るまでの間、なんとかして生き延びなければならない。
「でも、悪い話でもないのか? これは話のネタになるぞ」
カトレアは「この展開、物語的にアリだな」と呟き、まずは腹ごしらえだ、と目の前の料理に手を付ける。カトレアは意外と図太い性格をしていた。
カトレアは目の前の料理を一つずつ食べていく。隣にあった極太の腸詰にがぶりと噛みついた。冷めていたが、それでも肉汁が溢れ、口元から零れ落ちる。
水差しにそのまま口を付けて水を飲み、また机の上の食材を頬張る。
「とりあえず最悪を想定して、逃げ出すことが可能かは確認しておこう」
カトレアはそうぼやきながらも、料理を食べる事は止めない。異世界料理が口に合うのか心配ではあったが、塩気の強い食品の料理の数々は意外にも美味しいと感じた。
「奴隷になって逃げもせず、堂々と飯を食う。こういうスタイルの主人公は読んだ中では無かった気がするな」
カトレアはモグモグと咀嚼しながら、元の世界に帰ったら、自分を主人公にして物語を書こうと意気込んだ。そう考えてみたら、開幕奴隷落ち&帰還不能というのはネタ的に非常に美味しい、などとも考え始めている。
「はー……お腹いっぱいだっ!?」
ソファーからよいしょ、と立ち上がった際、テーブルの上に置いてあったナイフに体が触れて落ちてしまった。その落ちる先には自身の素足があった。
ナイフは切先を真下に向けて落下し、カトレアの足に直撃。硬質な音と共に弾かれて床に派手な音を立てて転がった。
「……これが奴隷の自傷不可というやつなのか。故意じゃないのにダメとか、絶対自殺も無理だな」
ぐぬぬぬっ、とカトレアが唸りながら落ちたナイフを拾う。
鈍色に輝く鋭いナイフは確実に自分の素足を傷つける筈であったが、ぷにぷにとした女性っぽい足には傷一つ無い。
カトレアは金髪大男たちが言っていた、自殺、自傷の不可という言葉を身をもって体験した。
「これで一つは確認できた。次は逃げられるかどうか確認しよう」
カトレアはまず自分がいるリビングと思われる部屋からキッチンへ移動した。冷蔵庫のようなものはなく、戸棚の中にソーセージや燻製肉などがぶら下げてある。それなりに調理器具なども揃っており、料理が出来る環境は整っているようだ。
キッチンから再びリビングに戻り、それから扉を開けて廊下に出る。それほど大きな家ではなさそうで、廊下の先には玄関ともう一つ扉があるだけだった。
カトレアが一つの扉を開けると、そこは和式のトレイのような穴が開いた部屋であった。
「……これが異世界トイレ事情か」
もし自分の手元に帰還装置があれば、この時点で萎えて帰っていたかもしれない。それくらいキツイ臭気が漂っていた。なんなら、少し目が痛くなるレベルの臭気だ。
カトレアはすぐさま扉を閉めると、次いで玄関の扉を開けた。手に持ったナイフを見せびらかすのもアレなので、自分の体の後ろに隠す。そのまま裸足で外にゆっくりと出だ。
「おー。ログハウスが点在してる。これはキャンプ場なのか?」
それなりの巨木が点在する中に、今カトレアが出てきたログハウスと同じような家屋がいくつも建っている。下草はしっかりと刈られ、手入れが行き届いているように見えた。
カトレアはそのままテクテクと家の外をぐるりと一周し、それから周囲の散策を始めた。
「この時点で奴隷の呪い的なものが発動しないってことは、逃げようと思えば逃げられるのでは……いや待てよ」
カトレアは逃げ出そうとする足を止め思いとどまる。なぜならば、この奴隷の首輪は首に張り付いて取れる気配がないからだ。かといって、締め付け感があるわけでもなく、非常に不思議な首輪である。
異世界物の定番としてそのような不思議な首輪がタダの代物であるはずがなく、きっと魔法的な要素で何かしらの識別が可能であり、例えば逃亡奴隷として即捕まって所有者に返還されるとか、もしくはそのまま別の主人の元へ売り飛ばされ、今以上の劣悪な環境におかれるなどの展開もありえる。
そう思えば、このような自由行動が許されている今の奴隷状態というのは、他の物語に出てくる奴隷からしても、かなりの好待遇なのではないだろうか。
カトレアはそこまで考えを巡らせて、逃げる事が得策ではないのかもしれないと思い始めた。
「あの金髪大男とハゲ男が良い奴とは到底思えないが、今の時点で私を生かす選択をしていて、拘束も無く自由にさせているのには何か理由があるのかもしれない」
そう思うと、あまり不必要に家から離れない方が良いのではないか。
まず第一に、自分はこの世界について何も知らない。言葉も話せない。今こちらの言葉が話せて意思疎通ができるのは、昨夜の酒場で渡された首からぶら下がる変な金属の塊のおかげだ。
分からないだらけの世界で、逃げて生きていく自信がカトレアには無かった。
元は”兼業の売れない物書きモドキ”だ。サバイバル知識はそれとなくあっても、実戦経験は皆無といって良い。
「ここで逃げて生き延びられるのはチート主人公だけ。TSおじさんはあの野郎共からの性的暴行にビクビクしながら、奴隷業に準ずるしかないのかもしれない……」
目下、最も大きい懸念事項は、あの金髪大男とハゲ男からの性的暴行である。
TSおじさんが屈強な筋肉おじさんから犯される様なんて、物語的に大変絵ずらが宜しくない。私の精神的にも大変よろしくない。すぐ舌を噛み切って死んでやりたいほどだ。
「舌を噛み切るなんて怖くて出来ないけどな……」
カトレアはため息を一つ吐いて、元の家に戻ってきた。そしてリビングに戻ると、暫くソファーでゴロゴロとし始める。
煮るなり焼くなり好きにしろ―、と若干自暴自棄になりはじめたカトレアであった。
しかし、一向に何も起きない。物語の展開的には非常につまらない状態だ。
「……片付けようか。奴隷らしく」
カトレアの選択肢の中に、二階の部屋へ行く、という項目もあったが、それは異世界転生物の常道的なものであるので、敢えて逆らってみる事にした。
床に落ちた酒瓶を拾い集め、零れ落ちた料理はゴミ箱的なものに詰め込む。まだ食べられそうなものはキッチンの戸棚から持ってきた皿に乗せ、机はぼろ雑巾で拭く。
「水は出るのか……冷たいなぁ」
キッチンには不思議な形の蛇口があり、手で握ると水が流れ始めた。止める時はもう一度蛇口を握るようだ。タッチ式なのだろうか。何気にハイテクである。
固く絞ったタオルで机回りも拭き、ついでに部屋の中も綺麗にしていく。
しばらく掃除タイムをして、催してきたので息を止めてトイレを済ませ、さてどうしようかとソファーに戻ってきたカトレア。
いよいよ持って、やることが無くなってしまった。
「……これはやっぱり部屋に行くしかないのか?」
そう思い、座っていたソファーから腰を上げようとした時だった。玄関からがやがやと騒がしい男の声が聞こえてくる。そしてドカドカと分厚い靴底が地面を蹴る音がして、奴らがやってきた。
「おう。大人しく留守番してたか?」
「お? もっと泣きわめいてるかと思ったら、意外と平気そうだな」
金髪大男はリビングのソファーに腰を下ろすと、腰からぶら下げていた剣を外し、机に置いた。そして鞘から剣を抜く。その剣には赤黒い液体や憎々しい塊が点々とこびりついていた。
ハゲ男はどこからかボロ布や見慣れない道具を持ってきて金髪大男に渡す。
金髪大男は早速とばかりに剣の手入れにはいった。
「机の上は片付けたのか。良い子ちゃんじゃねーか」
「……一応奴隷だからな」
「良い心がけだ。待ってろ。手入れが終わったら色々説明してやるからよ」
金髪大男が手慣れた様子で剣の手入れをしている間、カトレアはその姿を見続けるしか無かった。
そして金髪大男が満足そうに鞘に剣を戻したころ、ハゲ男もそろってカトレアを見下ろす。その二人には笑みが浮かんでいた。
「さて。まずお前の名前はカトレアだ。今後、あちらの世界での名前を口にすることは許さん」
カトレアはその言葉に口を開きかけたが、それをハゲ男が手で制す。
「質問は最後だ。まずは聞け」
「……分かりました」
金髪大男が咳払いをして、再び口を開く。
「カトレア。お前は異世界からの旅行者だと言ったが、俺たちはお前をどこぞの国が召喚した勇者か聖女の類だと思っている」
いいえ。四捨五入したら四十になるおっさんです。
驚いた顔をしたカトレアに、金髪大男は自分の予想が当たったことを察し上機嫌になる。
「俺たちの世界では良くある話だ。最近だと隣の王国で魔王を討伐する為の召喚だと行って勇者を呼び出したら、異世界のガキが100人以上現れたらしい」
それはクラス召喚という例のアレではなかろうか。だとしたらチート持ち俺つぇぇ系が絶対交じってるはずだ。そしてこの世界には魔王がいるのか……気を付けよう。
「それで、お前の服装や言葉が喋れない事から、おそらくお前もその類だと俺たちは予想した」
「ちなみにお前が着ていた服だけど、召喚者の服は高値で売れるからもう無いぞ。荷物もだ。それなりの金になった」
ハゲ男が「これが代わりの服だ」と数着の簡素なワンピースと下着を竹籠のようなものに入れて渡してくる。
カトレアのおしっこ付き旅行着は誰とも知らぬ相手に売り払われてしまったようだ。そして現実世界への帰還装置も手元にはなくなってしまった。
いよいよ本格異世界サバイバルがスタートする予感に、カトレアは肩を落とす。
「さて、この召喚者たちだが、不思議な力を持っている奴が多い。確か、”スキル”だとか”ステータス”だとか言っていた。お前にはそれがあるか?」
金髪大男の言葉に従い、カトレアは「ステータスオープン」と答えてみる。だが何も起こらない。
「どうだ?」
「何も起こりません」
「所詮は噂か」
金髪大男はそこまで期待していなかったのか、鼻息一つで納得した。
「ただ、召喚者が不思議な力を持っているというのは本当だ。俺も何人か見たことあるが、人が努力して到達できる領域に奴らはいなかった。理不尽な強さを持つ魔物と変わらん」
「そんな召喚者が無防備な状態で捕縛され、しょんべん漏らしながら真名を言ったんだ。俺はこんな幸運、この先二度と無いだろうと確信したね」
ハゲ男が嬉しそうに声を上げ、金髪大男が同意するように強く頷く。
「俺たちは最強の戦力。召喚者の奴隷を手に入れた。これで一生左団扇確定だ」
「これが召喚者がよく言う”勝ったな。風呂入ってくる”ってやつだ」
がははは、と金髪大男とハゲ男が揃って笑い声をあげた。
カトレアは、色々と違うと思ったが、とりあえず今は黙っておくことにした。
「安心しろ、カトレア。お前が従順なうちはぶち殺してやろうとは思っていない。お前は俺たちにとっての金の卵だ。生かさず殺さず、役に立ってもらう」
「俺たちも後戻り出来ねぇんだわ。もう一人ぶっ殺してきてるからな。早速逃げるぞ」
「殺してきた?」
カトレアが思わず言葉を口にすると、金髪大男が先ほど剣の手入れに使ったボロ布を指さした。赤黒く染められたそれは、まるで血が染み込んでいるように見えた。
「昨晩、お前を奴隷にした男だ。あいつはお前の真名を知っている。だから用心のために殺した」
「これで俺たちはブラックリスト入りだ。暫くは町には入れねぇ。カトレアが役に立てなきゃ、盗賊にでも身を落すしかなくなる」
「それに、お前の首からぶら下がっている翻訳機も借りパクするからな。追っ手もそれなりに掛かるだろう」
「……えぇ」
こいつら、覚悟決めすぎだろ。
カトレアは男二人が全くの勘違いから、とんでもない人生の選択をしていることにドン引きした。そしてそれに巻き込まれる自分に絶望した。
「って訳だから、詳しい話は歩きながらだ。さっさと身支度して暫く身を潜めるぞ」
金髪大男は剣を腰に下げると、足音を立てて階段を登り、部屋へと入っていった。
「お前は荷物持ちだ。自分の服と保存食をリュックに詰め込め。出来たら玄関で待ってろ。キッチンはあそこだ」
ハゲ男も足早に動き出し、再びカトレアはリビングにぽつりと取り残される。
「俺、まだ質問してないのに」
聞きたいことは山ほどあったが、とりあえず言われた通りに動き出すカトレアであった。