青が呼ぶ
※この作品は
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に投稿されたオリジナル楽曲とリンクしています。
ぜひ、音楽と小説を重ね合わせてお楽しみください。
【フィンセント・ファン・ゴッホ】
一八九〇年の夏、フィンセント・ファン・ゴッホが死んだ。
ゴッホ。今日その名を聞いて知らない者はいないだろう。しかし彼は生涯を通して画家として認められることはなく、経済的に困窮し、弟であるテオの支援を受けながら創作活動に取り組んでいたという。
耳切り、半狂乱、精神不安。狂人として世間から罵倒され虐げられながらも愚直に芸術を追求し続けた孤独な天才は、或る夏の日の暮れ、パリ郊外オーヴェール、黄金色に輝く麦畑の中で自らを撃ち、この世を去った。
「何故、ゴッホは生前に認められなかったのか」
「何故、彼は死後になって画家として大成したのか」
そんなことを訊かれたところで、誰も答えられやしない。
何故なら、それが彼の運命だったのだから。
――だから、これも運命なのだ。
これから僕が遺す作品が、どのような道を辿り、どこに行き着くのか。
残念ながら、僕はその顛末を自分の眼で見届けることができない。
だから僕は、その全てを運命に託すことにした。
【序章】
昔から耳が良かった。
音楽一家に生まれた僕は、幼少から、歌を歌うことも楽器を演奏することも得意だった。
浅い記憶がある。
昔、母が家にピアノの講師を招き、僕はレッスンを受けていた。
「君は耳が良いね」
彼はよく、僕にそう言ったものだ。
確かに、ピアノを始めたばかりの頃から、何かの音楽を聞けばメロディの音程や和音の構成音をすぐに判別することはできたし、人よりも音楽を聴く力には長けていたように思う。子どもながらにして遊びの延長で作曲をしたその音の運びを、大人たちに「天才だ」とよく褒められたのを覚えている。著名なコンクールを総なめにして、家庭だけでなく学校でも何かと持て囃された。
今思い返せば、この記憶全てが馬鹿馬鹿しくて仕方がないが。
***
中学生になるとピアノだけでなく、ギターとベースも弾きこなせるようになった。高校生の頃からは自作の曲をインターネットの動画サイトに投稿し始めた。専ら厭世的で難解な曲しか作らなかったが、画面の向こう側にいる一部の聴き手たちからは「天才高校生」などと高い評価を得た。暫くするとそれが音楽関係者の眼に留まり、僕は高校卒業後、プロのミュージシャンとして音楽の道に進んだ。
当然、成功する。
当時の僕にはその自負があったし、周りの人間も僕に大きな期待を抱いていたと思う。
――でも、もう何年待っているんだろう。
あれから、僕の人生に何か大きな変化が起きることのないまま、ただ時間だけが流れていった。
***
そんな僕を他所に、世間には「愛」とやらを歌った安い歌ばかりが溢れ返っている。
どこかで耳にしたことのある使い回されたメロディに、誰にでも書けるような薄い歌詞が乗っかっているだけの、まるで誰かに媚びるように作られた音楽を、大衆は盲目的に称賛し、拡散している。
その一部始終、馬鹿らしくて反吐が出る。
大衆は感性が鍛えられているわけではない。何よりも「分かりやすいこと」が第一であり、作品の表層しか、いや表層すら理解できない者も多い。さらには、今や、苦心して生み出された『作品』そのものではなく、その作品を『誰が作ったか』という、作者の権威性が評価される時代である。そんな盲目が溢れ返る中で、作品の本質を見抜ける人間など極僅かだ。
僕はそんな馬鹿な奴らに迎合したくはなかった。僕の音楽を殺したくなかった。
人は何のために曲を書くのか。僕は自分の音楽の中に、その答えをずっと探していた。
だからもう何年も、その時が来るのを、ただ待っていた。
***
それから何回目の夏だろうか。
或る日、昼間のバイトを終えた僕はいつものように街に出た。
家を出て少し歩く。公園を抜けると見えてくるヨーロッパ風の石畳を挟んだその向こうに、黄色い屋根のカフェテラスがある。
夕方になると、僕は一人そのカフェの通り沿いで、アコースティックギターを弾きながら歌を歌っていた。
もう僕に期待する人間など誰も残ってはいなかったから、こうしてギターを弾きながら歌を歌うことが習慣となっていた。
通行く人の中には足を止める者はいたが、皆、難しそうな顔をしてはすぐに去っていった。
(あんたに何が分かるものか)
そう自分に言い聞かせた。いや最早、そう言い聞かせるしかなかった。
僕の音楽は他人には理解されない。そんなこと、自分の経験が疾うに物語っているのに。
ピックの動きが止まる。幼少の思い出がフラッシュバックする。周りの人間に持て囃され、期待され、愛された記憶。出来損ないの孤独な大人になってしまった僕にとって、それは今すぐにでも消し去りたい、真っ黒な思い出だった。
一体、どこで何を間違えたんだろう。
そんなことを考えながら深い呼吸をする。ピックがまた、弦をかき鳴らし始める。
誰かに認められたかった。誰でも良い、ただ誰かに認めて欲しくて歌を歌っていた。
日も暮れ始め、そろそろ帰り支度を始めようかというとき、一人の少女が足を止めた。
少し長めの髪に、真っ白なワンピース。ふっと消えてしまいそうな、どこか幽霊のような雰囲気。孤独な眼。
それが、今でも鮮明に覚えている、君との出会いだった。
***
それからというもの、僕が路上で歌を歌う度、決まって君は姿を現した。演奏が終わると君はにっこり笑って、その小さな両手で精一杯の拍手を送ってくれた。嬉しいような気恥ずかしいような、不思議な感覚が僕を擽った。
そんな日が何日か続いた。或る日の演奏終わり、二人で近くのベンチに腰掛け、少し話をした。
「どうして毎日、此処に来てくれるの」
「心が満たされるような音楽を、ずっと探していたんです」
君はそう言って笑った。そんな言葉を掛けられたことは今の今まで一度もなかった。僕の音楽を心から認めてくれる、初めての存在だと思った。
僕はこれまでの自分の人生や、音楽に対する矜持を語った。随分長い話になったが、君は終始真っ直ぐ僕の眼を見て、頷いてくれた。
僕を取り巻く孤独の靄が、ぱっと晴れた気がした。
***
それから程なくして始まった君との共同生活は、ミュージシャンである僕にとって実に理想的な環境だった。
僕はバイトを辞め、一日中部屋に籠もって作品づくりに打ち込んだ。僕が制作に集中できるように、君は朝から夜遅くまで働き、できる限りの援助をしてくれた。僕は、自分が人間的に深く堕ちていくのを自覚していないわけではなかったが、それでも音楽で売れたいという思いと、これまで僕に向けられた罵倒や薄笑いを全てひっくり返すような圧倒的な作品を自分の手で生み出したいという野心から、君がくれたこの環境に浸っていった。そんな生活が四年も続いた。
テオに支援されながら創作を続けたゴッホも、こんな気持ちだったのだろうか。
いつからか僕は、自分のこの境遇を、あのフィンセント・ファン・ゴッホと重ねるようになっていった。
【烏と麦畑】
君にはよく音楽の話をした。
僕が好きな音楽、それから嫌いな音楽の話もした。クラシックの名曲やこれから先の音楽、そして――売れる音楽についても沢山話した。
売れる音楽を語るとき、決まって僕は話の途中で気が沈み、鬱屈した気持ちになるから、その度に君はよくこんな言葉を掛けてくれたものだ。
「大丈夫だよ」
大丈夫、いつか世間が認めてくれる。きっと君はそう言いたかったのだろう。その言葉は君の純粋無垢な心の内から発せられたもので、其処には確かに何の外連味もなかった。僕も頭の中では、それは分かっていたつもりだ。
しかし、その柔らかい言葉の響きは僕に少しの安寧を与えるのと同時に、どこか棘のように僕の心の奥に突き刺さり、実体のない淡い痛みのような感覚だけが僕の中に堆積していった。
***
或る日の夕暮れ。僕は一人、金色に輝く麦畑の中にいた。頬に心地よい夏のそよ風を受けながら頭上を飛んでいく烏の群れを眺めていると、ふと君の言葉が頭を過ぎった。
「大丈夫だよ」
目線の先に広がる茜色に、優しく僕に手を伸ばす君の姿が浮かんだ。
突然、心に痛みが走った。
***
――欺瞞だ。
ずっと考えていた。「大丈夫」という言葉の脆さ、無力さを。
君の言葉、君の優しさ――その全てが今、この孤独の中で悲嘆に染まっていく。
残酷だ。他人を思い遣るはずの言葉が、刃物に変わり僕を切り裂いていく。
何が大丈夫なものか。今までだって、何かを期待したって何一つも叶うことはなかった。幼少の栄光、画面の中の聴衆、大人の戯言、周りの人間も全部幻想、露と消えていったじゃないか。今更そんな言葉、なんの保証にもならない。
「大丈夫だよ」
そんな言葉、ただ虚しいだけだ。
そんな言葉、ただ疲れるだけだ。
だから、そんな言葉、もう聞きたくないんだ。
…今思えば、それが当時の僕にとって精一杯の叫びだったのだと思う。
耐えきれない孤独の中で、僕は次第に人の優しさを疎ましいと思うようになっていった。そして僕の音楽を唯一認めてくれる君の温もりさえも、終には拒むようになってしまった。
他人に情をかけられる度、自分が哀れな存在であることを思い知らされ、消えてしまいたくなる。それが怖かったから、いつからか僕は自分を取り巻く全てを嫌い、疑い、心を閉ざすようになったのだ。
「大丈夫だよ」
なんて虚しい言葉だろう。なんて疲れ切った言葉だろう。
そんなくだらない言葉で僕の孤独は埋まらない。その言葉を耳にする度に胸が苦しくなる。
だからもう、辞めてくれよ!
…
心の奥で、何かが壊れた音がした。
そのとき、
***
「大丈夫だよ」
風に乗って、君の声が耳元に届いた。その響きに、欺瞞なんてどこにもなかった。
僕を温かく包み込むようなその優しい声に、思わず胸が詰まった。
固く閉ざしていた心が、幽かに揺れているのが分かった。
――そうだ、僕が本当に欲しかったのは。
【花と塵】
状況は変わらず、誰にも認められない日々が続いていた。
君が働きに出ている間、僕は毎日、このゴッホの部屋を模した汚れた空き箱のようなアパートの部屋の片隅で曲を書いていた。そうして作り上げた作品を纏めて音楽事務所やレコード会社に持ち込んでは、担当者を名乗る奴らに目も合わされず足蹴にされる毎日が続いた。
真面な人間たちは疾うに僕と縁を切っていたから、寄る辺もなく、僕らはただ孤独に音楽と向き合うだけの日々だった。それでも君は不満の一言も口に出さなかった。
「毎日、退屈な思いをさせてごめん」
或るとき僕が呟くと、
「楽しいから平気だよ」
君はそう返してくれた。
一瞬、時が止まった。
瞼の裏が焼けるように熱くなったその瞬間を、今でも鮮明に覚えている。
――楽しいはずがない。
この絶望的な状況下、それでも君は僕を傷つけないように、最大限の言葉を選んだのだ。
返す言葉が見つからなかった。最早「ありがとう」とか、そんな言葉では払拭しきれないほどの思いが込み上げてきたからだ。
何としてでも売れて、この生活を抜け出さなければならないと思った。でないと、このままでは君の人生まで道連れにしてしまう。
自覚している。僕は自分のためにしか生きられない自分勝手な人間だ。だから周りの人間に尽く見捨てられてきた。そんな僕の人生なら塵芥であろうと仕方がない。
でも、君は違う。君は人のために生きることができる。君の人生は花であるべきだ。
頭が割れるほど考えた。どうしたら良い。どうしたら他人に認めてもらえるのか。
***
そんな矢先、衝撃的なニュースが世間を賑わせた。
或る俳優の自殺だった。
彼の自殺は連日報道され、その動機や背景には様々な憶測が飛び交った。しかし僕が一番驚いたのは、死後、彼の存在そのものが神格化され始めたことだ。
通例、人は死ねば忘れ去られていくものだ。しかし彼の場合は逆だった。彼が生前関わった作品群は、彼の死後、軒並み高く再評価され始め、今までどこにも姿を表さなかったはずの無数の信者たちが突如インターネット上に湧いた。
僕は、死者が神となる瞬間を目の当たりにした。
***
思えばそうだ。エイミー・ワインハウスやカート・コバーン、尾崎豊だって、仮に今も存命であれば、果たして今日のような絶対的な評価を得ることができたのだろうか。彼らの場合、其処に死が介在したことによって、大衆を扇動することが可能になったのではないか。
そうだ。ゴッホだって、あの日麦畑で死んでいなければ、落ちぶれたまま生き存え、ただの有象無象の画家のうちの一人として、風のように消え去っていたのかもしれない。
――そのとき、僕の頭に過ぎったのは、この上なく愚かな考えだった。
それは半ば無謀な賭けだったが、不思議と怖くはなかった。むしろ、このまま夢に囚われ、誰にも認められないまま年老いていくことの方が僕には耐えられなかった。そして何より、君に幸せになってほしかった。僕の音楽が漸く世間に認められるかもしれない――その瞬間・その景色をどうしても君に見せてあげたかった。
***
そうして僕は最後の曲を書き始めた。未だ嘗て誰も書いたことのない曲、作者の死を持って完成する曲だ。
さよなら。
幼少から僕の心の支えであり、苦しみも喜びも分かち合ってきた音楽に、今、別れを告げなければならない。それならば、僕は最後まで音楽と一緒が良い。僕の人生の全てだった音楽と共にこの世から消えることができれば、それがきっと僕にとっては本望だろうから。
震える手で、僕は生涯最後の曲を書き上げた。
『心中公演』
音楽と心中する青年の物語だ。
これで良い。これで漸く君は僕から解放されるのだ。
これが僕にとって唯一の贖罪の手段だ。
そして僕は、このデモテープに添える手紙を書いた。
***
「君にはこの数年間、本当に世話になった。
いつまで続くか分からないこの汚れた空き箱での生活、真っ闇な景色の中、
何があっても僕を見捨てず付いてきてくれたこと、本当に感謝している。
それなのに僕は、君に何一つとして与えてあげることができなかった。
自分が情けなくて、今となっては君に何と謝れば良いかも分からない。
本当に済まなかった。
これからどうするべきか、僕なりに思案していたんだけれど、
将来のことを考えたとき、これ以上君の人生を壊してはいけないと思ったんだ。
だから、僕は少し遠くへ行こうと思う。
最後まで身勝手なことを言うが、
どうか、僕を忘れてくれ。
そして僕のいない世界で幸せになってほしい。
いや、本当を言うと忘れてほしいなんて嘘だ。できるなら君と一緒に幸せになりたかった。
でも、これが僕の導き出した答えだ。どうか、許してほしい。
何者にもなれない、間違いだらけの人生だったけれど、君に出会えて本当に良かった」
書き慣れない手紙の最後は、そう認めた。もう、何一つ思い残すことはなかった。
【心中公演】
最後の朝が来た。
空はまるで、夢破れた僕を嘲るかのように晴れ渡っていた。
今日で僕の人生が終わる。
いや、二十八の誕生日を迎えた瞬間、僕の人生は既に終わっていたのだ。
エイミーにもカートにも尾崎にもなれない平凡な人生だった。僕の音楽は、結局誰にも何も与えることができなかった。
「もう終わりにしよう」
ただ泣いているばかりの君にそう告げて、長年連れ添ったアコースティックギターを背負い部屋を出た。君への手紙はデモテープと一緒に棚の引き出しの中に入れておいたから、きっと後で見つけてくれるだろう。
玄関のドア越しに、僕の名前を呼ぶ涙声が聞こえていた。
***
つまらない人生だったのかもしれない。
それでも、君だけは最後まで僕を笑わないでいてくれた。それだけで、十分だった。
共に過ごした、汚れた空き箱のような部屋。いつか世間に認めてもらえる日が来るようにと、二人でゴッホの部屋を真似して家具や絵を揃えた。そんな二人の想いが詰まった部屋で、僕は毎日曲を書き、曲が出来上がるとこのギターで弾き語り、君に聴かせた。天気が良い日にはあの通り沿いのカフェテラスの前のベンチに二人で腰掛け、客が君一人だけの、小さなコンサートを行った。君はいつも、それを楽しそうな顔で聴いてくれた。
僕が音楽のことで上手く行かず自暴自棄になったときには、
「大丈夫だよ」
君はよくそう言って僕を励ましてくれた。当時はその、どこか他人事にも聞こえる生緩い言葉をナイフのように感じていたけれど、今思えば、僕はどれだけ君のその言葉に救われていただろう。
***
でも、現実は甘くなかった。本当なら疾うに音楽を諦めて次の人生を考えなければならない年齢になっていたが、僕はどうしてもその事実を受け入れることができず、その悶々とした思いを歌詞に変えてノートに書き殴っていた。
傍から見たらなんと惨めで見苦しい光景だろう。
それでも君は何も言わず、先の見えない空き箱の中で、ただ、明日を願っていた。
…ああ、全部僕のせいだ。
思えば僕の音楽、僕の人生、その全てに中身なんて何もなかった!
本当は分かってたんだ。これは凡才の空回りだ。
自分で作り上げた未完の才能という幻想を、ただ独りよがりに演じていただけだ。その果てに一体何が残せようか。
ならばいっそ全て消えてしまえ。僕が作り上げた虚構の産物、偽物の音楽、その全てが灰になって消えたとき、その先に見えるものがきっと、
きっと、それが僕にとっての本当の幸せなんだろうから。
***
なんて、それほどまでに音楽に囚われた人生だった。街に流れている音楽を耳にする度死にたくなるのも病気だ。称賛を浴びる他人が憎い。どうして自分だけが取り残されてしまったのか、毎日考えて、考えて、考え続けて、頭がおかしくなりそうだった。
そうして光の届かない深い谷の底、死に物狂いで作り上げた作品も、風が吹けば一瞬で消えてしまう。誰の目にも留まらなければ、そんなものは無いのと同じだ。もう誰を憎めば良いのかも分からなかった。ただ、自分の才能の無さを呪った。そしてそれを頑なに認めようとしない自分自身を殺してやりたかった。
***
くだらない生活。くだらない音楽。くだらない人生。
それでも君は僕のために、決して涙を見せなかった。希望を捨てずに毎日を生きていた。
…もう全部僕が狂ってたんだ。
こんな腐りきった心の泥から紡ぎ出された歌詞に、誰が共感などするものか。結局この厭世も、全部僕のエゴの押しつけだったんだ。
だからさあ、もう何も要らないんだ。
音楽も、明日も、僕も、もう全部消えてしまえよ!
***
そんな激しい情動こそが偽物であると、今の僕にはもう分かっていた。
…本当は辞めたくなんてない。
でも、僕にはこうするしかないんだ。
僕が消えて、漸く君の枷は外れる。君は自由になれるんだ。
汚れた空き箱なんて忘れて、この広く青い空と海のように自由に生きろ。それが僕の願いだ。
僕を、僕の音楽を愛してくれてありがとう。
今から僕の最後の作品が完成する。今まで君に聴かせたどの曲よりも素晴らしい作品になるだろう。
そうさ、死ぬことだって作品なんだから。
僕の死は作品だ。僕の死こそが音楽だ。
そして今、君のおかげで漸く気がついたんだ。
今まで僕はずっと、自分のためだけに曲を書いてきた。でも人生の最後に初めて、人のために曲を書こうと思えたんだ。
これだ。この瞬間を、僕はずっと待っていたんだ。
花咲いてくれよ。これが、僕の人生を賭けた、最低の最高傑作なんだから。
***
眼下の岩礁には大波が叩きつけられ、激しい飛沫を上げている。
綺麗な音だ。
その音色に耳を澄ませながら、一つ、深呼吸をした。
このまま行けと、僕の中の僕が命じた。
フィンセント・ファン・ゴッホ。
――僕も貴方のようになれるだろうか。
足元で、ぽつんと咲いた二輪の向日葵が風に揺れていた。それはまるで僕らの人生を映しているようだった。
ゆっくりとアコースティックギターを抱え、崖の淵に立って空を見上げた。
僕に笑いかけているような、見事な快晴だった。
その透き通った青を目掛けて、僕は地面を蹴った。
【星月夜】
その知らせを聞いたのは、彼が姿を消して九日を過ぎた頃だった。
彼に別れを告げられた後、部屋に一人になった私は、中途半端に開いた棚の引き出しの中から一枚のデモテープと、置き手紙を見つけた。私には、そのとき彼が何を考え遂行しようとしていたのか、抽象的な手紙の文面からは詳らかには分からなかったが、何となく、これがただの別れでは終わらないような予感がしていた。彼がどこか遠く、手の届かない所へ行ってしまうような気がして、咄嗟に彼の後を追って部屋を飛び出した。
通りのカフェテラス、公園のベンチ、古本屋、楽器店、駅のホーム。どこを探しても彼の姿は見当たらなかった。
結局、その日から彼がこのアパートに帰ってくることはなかった。
それからのことはあまりよく覚えていない。仕事先からの着信で小刻みに震える鉄の塊を呆然と眺めながら、伽藍堂のアパートで、ただ時が過ぎるのを待っていた。
そんな矢先の一報だった。
***
小さい頃、音楽が大好きだった。
両親がなく祖父に育てられた私は、その複雑な家庭環境から周りの子どもたちと上手く馴染めず、学校が終わると寄り道もせず一人家路に就く、そんな日々を過ごしていた。
そんな私の唯一の自慢が、優しい祖父だった。疎外感に苛まれ学校が嫌いになった私を、祖父はよく
「大丈夫だよ。おじいちゃんがいるから」
そう言って寄り添ってくれたものだ。
***
祖父は学校から帰った私を笑顔で出迎え、その後よく散歩に連れて行ってくれた。私は電車が好きだったから、近くの踏切まで電車を見に連れて行ってくれたことを今でも覚えている。
「踏切の音が不気味に聴こえるのは、隣の音どうしが喧嘩しているからなんだ」
そう教えてくれた祖父は、作曲家だった。
***
個人作曲家であった祖父は、アコースティックギターを使って曲を書く人だった。祖父の書く曲はポピュラー音楽にしてはとても個性的で、他の誰にも真似ることのできないような唯一無二性が其処にはあった。
「ミラレソシミ、ミラレソシミ。ギターの呪文だよ」
ペグを回しながらおどけたように私に教えてくれたその言葉はなんだかとても可笑しくて、私をころころと笑わせた。
皺の寄った大きな手で奏でるギターの音色を聴いていると、親のいない寂しさもどこか薄れていくような気がして、その音に浸っている瞬間だけは現実を忘れられるような感覚だった。この時間がずっと続けば良いのに。そう願っていた。
あの日までは。
その日、いつものように私が居間でテレビを見ていると、どこか耳馴染みのある音楽が其処に流れてきた。そしてすぐに、私の疑問は確信に変わった。
(これは祖父の曲だ…!)
私は祖父を呼びに二階の書斎へと急いだ。大好きな祖父の曲がテレビで流れている。これ以上に嬉しいことはなかった。高鳴る鼓動を隠せないまま、書斎にいた祖父の手を取り、階段を下り居間へ駆け込んだ。
「すごいよ、おじいちゃん」
見上げた祖父の顔が、愕然としているのが分かった。
祖父の音楽が盗作された。
どうやら、かつて仕事で関わっていた作家事務所の人間に盗用されたらしかった。祖父は必死に抗議したものの、盗作を立証するに十分な証拠もなく、組織を前に一個人の主張など端から通る訳もなかった。
祖父の作ったその曲は、全く関係のない第三者の作品となった。
そしてその日を境に、祖父はギターを触らなくなった。
***
それ以来、私は音楽を――音楽を作る人間というものを嫌悪するようになった。
スピーカーから流れてくる音楽がどれも全部贋作のように聴こえた。世間に流れている音楽なんてどうせ誰かの模倣だ。心のどこかで、そう考えるようになった。
そしてその数ヶ月後、失意のうちに祖父は他界した。葬儀の席で親戚の話を聞くまで、祖父が心臓に病気を患っていたことを、私は知らなかった。
大好きだった祖父の音楽、あの傷だらけのアコースティックギターが奏でる音色だけが私の心の支えだった。親戚に引き取られた後も、私の心に空いた穴が埋まることはなかった。
そしてそのまま、時間だけが流れていった。
自分が生きている意味を見出せないまま、俯いた視線の先、私の影だけが日に日に大きくなっていった。この先やりたいことも、何も思いつかなかった。そんな私の人生を変えた日の話だ。
***
あの日、偶然立ち寄ったカフェテラスの向かいの通りから聴こえてきた音に、どこか懐かしい匂いがした。すぐにカフェを出た私は、何かに導かれるように其処に向かった。
息が止まった。
その青年が奏でる音楽には、紛れもなく私が長年探し求めていた響きがあった。あの日以来初めて、心が洗われていく感覚を覚えた。私の目にはまるで死んだ祖父が其処に立って歌っているように見えた。
彼の音楽をもっと知りたい。私を突き動かす情動はそれだけだった。
――これは、その青年が人生最後に遺した歌の物語だ。
***
今、私は街頭のスピーカーから流れる君の音楽を聴いている。
沢山の人で賑わう夜のネオン街。街行く人が君の歌を口遊んでいる。何度も推敲を繰り返し、魂を削って書いた君の歌詞、あの頃は誰にも届くことのなかった言葉たちが今、確かに此処に生きている。
今まで君を貶していた人間たちはどんな顔をしているだろう。君は最後の力を振り絞り、罵倒も薄笑いも全てひっくり返したのだ。
君は今、遠い空の向こうでこの景色を見ているだろうか。あの頃を、どう思っているだろうか。
汚れた空き箱――君がよくそう呼んでいたあのアパートで、私たちは見えない何かを探して必死に踠いていた。確かに恵まれた生活ではなかったけれど、私は君が作る音楽を傍で聴いていられたら、それだけで幸せだった。
今も君がいなくなった日を思い出して泣いてしまうことがある。君はそんな私を叱ってくれるだろうか。それとも、笑い飛ばしてくれるだろうか。そんなことを想いながら、今日もこの世界の片隅で君を描いている。
星が降る夜、君に会いに行こう。
あの汚れたアパートで君が聴かせてくれた歌を、私は生涯忘れることはないだろう。
「また君と会えるそのときまで、僕は天国で君を待っているから」
この綺麗な夜空を見ていたら、君がそう語りかけてくれるような気がした。
目を閉じた先に浮かんだ君は今、世間も、名声も、評価も、数字も、何の柵もない世界で、また昔のようにギターを弾きながら、大好きな音楽を――そして、今度は絶望を嘆く歌ではなく、希望に満ち溢れた歌を――自由に、高らかに、歌っている。
***
都会の喧騒を歩く。
今、街に流れている歌は賛美歌だ。皆が歌を歌い、君の人生を称えている。できることならこの景色を君と一緒に見たかった。君が一番見たかったであろうこの景色を君に見せてあげられなかったことが、私の唯一の後悔だ。そんなことを考えながら、街を歩いている。
君には信じられないかもしれないが、あの頃の生活が今では嘘のようだ。
君は何も間違ってなかった。涙で字が滲み、紙が破れるほどの筆圧で心ごと書き殴ったあのノート。其処に宿った思いが今、この夜空に輝いている。君は塵なんかではなかったのだ。
――だから今、伝えなければ。
――君の歌を歌う人々の声を、
――君の音楽が受け入れられたこの世界を、
――遠い空の向こうの君に、伝えなければ。
心の叫びに導かれ、私は夜空に触れるように、高く手を伸ばした。
***
月が射す夜、君に会いに行こう。
君があの孤独の日々の中から生み出した歌が、今此処に生きている。
そして今、今だけは、私は涙を拭かなければならない。
君を失くしたあの夏の悲しみが輝きに変わる瞬間を、この眼で見届けるために。
君がくれたこの景色を、私の心の中に灯し続けるために。
響け!
今宵、この星月夜が、君の音楽だ。
【君とカフェテラス】
「おはよう」
君の声で目を覚ました。いつも先に起きるのは君だ。
少し気怠い朝。
顔を洗い、歯を磨き、髪を梳かし、着替えを済ませ、靴を履き、玄関の鍵をかける。
***
蝉の声の中を歩く。夏風が頬を擽る。
君が歩く度に、その背中に獅噛みついたギターケースが揺れている。
私は今、君の後ろをただ、歩いている。
黄色い屋根のカフェテラスでパンとコーヒーを注文する。私はコーヒーが苦手だから、代わりにミルクティーを頼んだ。
二人で音楽の話をしながら、朝食が用意されるのを待つ。
運ばれてきたのは、一人分のパンとミルクティーだけだった。
――私は今、遠い昔の景色を見ている。
***
カフェを出て、道を挟んだ公園のベンチに座り、少し滲んだ世界を眺める。其処に差し込んだ日差しが余りにも綺麗すぎて、瞬きさえも惜しかった。
あれからどれくらいの時間が流れたのだろうか。
街に君の音楽が流れることも少なくなった。以前君が言っていた通り、人は忘れていく生き物だ。君が運命を委ねた死の力も、結局は刹那的なものに過ぎなかったのだ。
それでもずっと、ずっと、ずっと、私は君を覚えていたい。
今、私の心には穴が空いている。
君が最後に残したあの景色でさえも、この穴だけは埋められなかったみたいだ。
汚れたアパートに、君がいるだけで良かった。
どうにもならないことも沢山あった。悔しいことも、泣きたくなることも、嫉妬も、厭世も、孤独も、過去も、未来も、音楽も。それでも私は、踠き続けた君の人生の隙間に探した夢の続きを二人で想像するだけで、他に何も要らなかった。
だから、もう一度だけ、君の声が聴きたい。
***
夏風に草木が靡いている。その音に耳を澄まし、君の歌を思い出す。
月日が流れても、このベンチに一人で座ることには未だ慣れない。
今日みたいな夏の朝も、秋の夜も、冬の夕暮れも、春の昼下がりも、いつだって君の歌が此処にあったのだから。
此処に、君がいたのだから。
「幸せになってほしい」
あの手紙に書き残されていた言葉。
葛藤していたのだろう。自分の夢が私を不幸にさせる、と。
その葛藤をもっと分かってあげるべきだった。どんな痛みでも二人で分かち合えば乗り越えていけるはずだった。そうであれば君を失うこともなかったのかもしれない。今日も此処で、君の隣に座って、君の歌を聴いていたかもしれない。
そんな後悔だけが、未だ私の中で疼いている。
もう会えないと分かっていても、見上げた先の空には、今日も君が笑っている。
***
私はまた、一人になった。祖父を亡くしたときと同じ感覚だ。
日常の中に絶えず君を探している。終わらない音楽だけが心の中に流れている。
そうだ。私が生きる限り、君も生きているんだ。
街の風景がゆっくりと変わっていっても、君の影だけは何も変わらないまま、今も此処で、私の横で、ギターを弾き語っている。
***
――蝉の声が鳴り響いた。
私は、一人だ。私は今、独りだ。
胸の痛みは増していくばかりだった。
…君も同じ気持ちだったのだろうか。
心が潰されていく感覚に耐えられない。
この孤独の果てに君が選んだのは――
君が最期に見た景色は――
さよならを決めた君に、何を感じさせたのだろう。
もし、この孤独を浄化する何かが其処にあるのなら、
私は、それが見たい。
【青が呼ぶ】
潮騒が次第に大きくなり、壮大な景色が目の前に広がった。
綺麗な青だった。
吹き付ける潮風が懐かしい匂いを運んでくる。その澄んだ匂いに、遠い夏の君が浮かぶ。
波音と共鳴するように心が揺れ動く。
あれから随分時は流れたが、今も私の中には君の音楽が鳴り止まないでいる。
もう二度と戻れない日常を、君の残像が思い出させる。
***
君は覚えているだろうか。
公園のベンチ。
カフェテラスのパンとコーヒー。
汚れた空き箱。
アコースティックギターの音。
破り捨てたノートの切れ端。
私に遺したデモテープ。
そして、大好きだった君の、音楽を。
君は今でも覚えているだろうか。
***
以前、二人で海に来たことがあった。
君は海辺に座ってギターを鳴らし、私はその音を聴きながら隣で海を眺めていた。
快晴の下澄み切った青が、言葉では言い表せないほど美しかった。
ふと君の方を見ると、その横顔に涙が浮かんでいた。
――あのとき、君は何を思っていたのだろうか。
「人生は作品だ」
君はピックを止め、海を見つめ小さくそう呟いた。
「人生は作品だ」
***
その言葉が今、私の耳に木霊している。
人生が作品であるなら、その終わり方は美しい方が良い。
きっと君ならそう言うだろうから。
だから今私は此処に立ち、潮風を身に纏いながら眼前に広がる青に叫ぶ。
心が張り裂けるまで、君の名を。
そうしているうちに、段々と心が凪いでいくのが分かった。
そうか、海にはきっと、孤独を癒す力があるのだ。
君が海に惹かれたように。
今私が此処にいるように。
孤独が齎した苦しみも、人生の寂寥感も、海は綺麗に浄化する。だから君は今、その身を縛り付ける鎖など存在しない世界で、この澄み切った空を自由に、晴れやかに生きていることだろう。
――私ももうすぐ、そちらの世界に行く。
消えない君との絆を胸に抱きながら、私はずっと、身の処し方を探していた。
そうして今、漸くその答えにたどり着いたのだ。
海が鳴る。青く澄んだ匂いが、遠い夏の記憶を蘇らせる。
あの日見た君の涙の面影が私を亡霊のように彷徨わせ、此処に連れてきたのだろうか。
それならば、此処が旅の終着点だ。
私の体は間もなく潮騒の中を駆け抜け、泡沫の夢の中へと深く消えていくのだから。
「人生は作品だ」
私は今此処で筆を置く。これが私の終わり方だ。
そして、この夏の向こう側にいる君に会いに行く。
私はもう、亡霊ではない。
私はもう、独りではない。
だから今、この潮風を掻き消すような声で、私は叫ぶ。
私の作品の最後のページに、君の名を刻むために。
***
ふと視線を落とすと、一輪の向日葵が心寂しそうに咲いていた。
「君も一緒に行くかい」
黄色い髪飾りは綺麗な青空によく映えた。
そして私は両手を広げ、潮風に身を任せた。
***
雲はスピードを増し、私の視界を駆け抜けていく。
水面が近づく。ただ目を瞑り、遠い夏の君を描く。
走馬灯。
これから始まるのはきっと物語の続きだ。
生まれ変わって、またきっと君に会える。
君がそうしたように、私も運命に身を委ねるのだ。
そうして私は間もなく辿り着く。
どこか遠い場所へ。
君が待つ世界へ。
そう、このまま、青が呼ぶ方へ。
【終章】
無数の小さな泡が私の周りを泳いでいる。
薄れゆく意識の中、水面越しに見えた空の青が何かを映し出している。
君が、其処にいる。
――これは、夢なのだろうか。
傷だらけのギターを抱えながら、優しい眼差しで私を見つめている君の口が開く。
「ミラレソシミ」
私は思わず息を呑んだ。
その言葉、その響きは――。
そして私に語りかけるその声は、ゆっくりとあの懐かしい声に変わっていった。
そうか、君は――。
気泡を抜けて差し込んだ、皺の寄った大きな両手が、私を包み込んだ。
――これが、夢であっても。
そして私は深く、深く、青に溶けていった。
完