徳織聡の事件手帖
序
春という季節は、他の季節からどのように思われているのだろう。
お前は人々に望まれて、さぞいい思いをしているだろうな。疎まれることなんて、ないん
だろうな。
失うものなど、何もなさそうだな。
きっとこうして、嫉妬されているに違いない。少なくとも、私はそう思っている。
桜木の並ぶ公園で遊んでいる子供のようすが、二階の窓越しから見える。色違いのよく似た服を着て、追いかけっこをしているあの子たちは、兄弟だろうか。歳はあまり離れていないように見える。しかし、もしかしたら、親友同士かもしれない。私に兄弟はいないから、そういう判別は、おそらく一生、よくわからない。
――こんな日には、思い出すことがある――
ちょうど春先のことだった。
「うまい飯屋があるんだ。今夜ひさびさに飲まない?」
同僚刑事の上坂が、珍しく仕事中の俺に声をかけた。
「なんだ、やぶから棒に。誰でも知ってるチェーン店じゃないだろうな。」
「はは、何だよそれ。俺のことからっきし信用してねえだろ。」
「お前の舌先は、どうも信用ならん。」
「舌先って…別の意味に聞こえるじゃねえかよ。ああ、ええと、アレの時だろ?…えっと、なんだっけな…?」
「去年の夏だよ。魚が売りとか言ってた居酒屋。あんな店、どこで見つけてくるんだか。」
「あっこで出るあんかけは、うまいと思うんだけどなあ。」
「今回こそは、期待していいんだな。ほんとうに。」
「ああ、それは大丈夫。大丈夫。」
私は彼の言葉を右から左へと流しながら、捜査資料を目でさらっていた。
ここいらはあまり大きな事件は起きていないが、私の目は、どこか焦っていた。何かを予感していたかのように。
とにかく、少し鬱陶しかった。
「じゃあ、よろしく。」
私は脊髄反射で応じた。
上坂に連れられたのは、何やら既視感のあるような居酒屋だった。いや、既視感というのは、その雰囲気で会って、前に来た記憶があるとか、そういうものではない。
「今日もお疲れさん。君も気張っているねえ。」
こいつはいつも勝手にビールを頼む。俺は嫌いでないからいいが、他の奴らだったらどうするのだろう。とりあえず生、はもう古いのではあるまいか。
「おいおい、黙ってるのはよくねえよ。木崎。君の同僚が、ね、ぎ、ら、い、の言葉をかけてやってるんだぞ。」
「ああ。まあ、うん。」
私は適当にあしらった。彼はいじけた子供のように、意味なく小皿に目を向けた。
前々から思っていたのだが、こいつはいつも飄々としすぎている。
くっきりとした目鼻立ち、一見爽やかそうな笑顔。こんなに整った顔でこの性格なのだから、何というか、神のいたずらといった類の不思議を感じてしまう。それは流石に言い過ぎか。まあ、人相とその人の人格は、別次元で作用し合っているのだろう。
「お前が俺を誘うのは、久しぶりだな。」
「まあまあ。俺が君を呼んだのは他でもない…。」
「なんだよ。」
「…最近の事件の捜査。手詰まりなことも多いでしょ?それで、色々考えたんだけど…。」
「早く言えよ。」
「…探偵、に相談しようと思って。」
私は驚いてしまった。こいつがまさか、こんなことを考えていたとは、私は夢にも思わなかった。
「ほう、探偵か。いったいどんなやつなんだ。」
「それが、表向きはミュージシャンで、ギターをやってるって。」
私は再び驚いてしまった。そんな奴は、聞いたことがない。
「…そんなやつが探偵業を?」
「そうらしい。噂によると、そいつは、とんでもなく耳がいいらしいんだ。」
「耳がいいっていうのは…物音がよく聞こえるって類か。」
「いや、そんなレベルじゃない。」
「いやそんなレベルじゃないって、それ以上何があるんだよ。」
「そいつは、“時間を超えて”音が聞こえるんだってさ。」
私には意味がわからなかった。
「…ん?」
「だから、“時間を超えて”…。」
「それはわかったよ。…いやわかんないぞ。もうちょっと説明してくれよ。」
「要するに、何時間前、何日前の“音”が聞こえるってこと。」
私は耳を疑った。
「そんな不思議なことが。」
「俺も初めはよくわからなかったんだ。ううむ、説明するとなると…。ううむ、せつめい、ね…。ちょっと時間をちょうだい。」
しばしの沈黙が流れた。心なしか店員たちは、我々を訝しげにみているようだ。いやに視線が首筋くらいに刺さる。おばちゃんがあんな目をすることあるか…。それは錯覚か。彼は急に神妙な顔つきをして、
「うーん。例えば、浮気の気がある男が、妻の留守中に、他人を家に連れ込んだとする。」
「…おい。おまえ、もうちょっとマシな例えはないのかよ。声もでけえよ。」
彼は歯と歯の間から、周囲の空気を大きく吸い込み、
「いや、ううん、これしか。」
と喉元近くで答えた。
後ろの席の連中ははっと異臭でも嗅ぎつけたように、凍りついている。
「…それで?」
私は出したこともないような微かな声で、彼に問いかけた。
「で、後日帰ってきた妻が探偵に相談すると。そしたら、探偵は自宅に上がって、妻がいない時間の“音”を聞く。」
「あー、つまり足音とか?」
「そうだ。二人分の足音が玄関で聞こえるのは、おかしいでしょってね。」
「そんななら、声もまる聞こえ、か。」
思わずにやりとしながら私がつぶやくと、上坂はそれを微塵の意にも介さず
「いや、それがどうも“人の声”は音とは違うらしい。それ以外は、針が落ちる音まで、全部聞こえるんだ。」
と平坦な声で返した。
私はその探偵とやらが、捜査に協力するという当初の話をすっかり忘れて、話を聞き入ってしまった。それを彼は感じ取ったのか、
「明日仕事休みだろ。僕もついてくから、その探偵に、会ってみないか。」
私は刹那考えて、それから視線を右斜めにうつしたのちに、
「まあ、会ってみる分には。」
と口先で答えた。
二人が向かったのは、江古田にある小さなライブ喫茶だった
黒く、少々こぢんまりした体裁を私はぼうっとみていた。
「ほう。こんなところか。」
「まあ、入ってみようぜ。」
私にはこういう、場所の入り方がまだわからない。残り少ない酒を飲み干す時のように、少し足先が躊躇した。ドアは上坂が開けてくれた。
ギーッ。ガラガラガラ。
等間隔で並べられた丸椅子は、心なしか同じ方向を向いているように見えた。壁に並べられたアルバムたち。私に音楽の心得があればと、思ったことは何度もある。これは三度目だ。あれが、あの「探偵」か。
「やあ。いらっしゃい。珍しい感じのお客さんですね。」
若いが、眼鏡越しの眼差しは鋭い。第一印象はそれだった。
端正な鼻先。健康的な顎。上目に向いた肩は、彼の着ている外套によって、その体の一部としての本領をさらに発揮していた。
そんな間に、彼は次の言葉を私たちに投げかける。
「どうも、初めまして。Milloです。よろしく。」
「さすが、話し慣れている感じですね。そのお名前には、由来とかってあるんですか。」
「ああ。僕ギターやってるんですけど、“聴け”って言うのは、ナンセンスでしょ。だから、あえて、ね。」
「なるほど。」
「なんか流しときましょうか。それとも、僕が弾いてもいいんですけど。」
「いや、長居するつもりは。」
「まあまあ。そう仰らず。」
彼はおもむろにギターを引っ張り出してきた。カウンターテーブルに遮られ、さっきまでは見えなかった彼の足先を見ると、にこやかな光沢を携えている。
ギターを構えているやつを、私は初めて間近でみた。
面白い。こんな構え方をするのだな。私には音楽の心得はないが、弦が指を自然と迎えにおくような、そんな感じがした。
「自己紹介がわりの軽い一曲を。」
イントロが始まった途端に、上坂は口角を緩め、
「あ。これ知ってますよ。懐かしいな。ちょっと昔に流行ったやつ。」
「よく知ってますね。」
皆が知るポピュラー・ナンバーなのだろうか。私は少し困惑した。蚊帳というのは、忌々しいほどすぐに出来上がる。それを察したのか、Milloは視線をこちらに向きがちになった。
演奏を終え、彼は急に我々に背を向け、紙切れを一枚、テーブルの上に置いた。
「お客さん。警察の方でしょう。僕には、なんとなくわかるんです。“探偵の方”に興味がおありなら、こちらに連絡を。ちょっと準備がいるんでね。それでは。」
「おい。待て。」
「あんたがたは“ミュージシャンの方”に興味がおありじゃ、ないんでしょ?」
彼は、地下階段を降りて行った。
「いやあ。びびったな。興が冷めたってやつ…?」
上坂が間抜けな声を出した。我々は立ち尽くすしかなかった。
その日から、あの事件がおこるまで、あまり時間はかからなかった。
一
被害男性は大崎巌。ちょうど不惑の年である。中学体育教師をやっていたようだ。一人暮らしのアパートの片隅で、凄惨な状態で発見された。頭を何か鈍器のようなもので強く殴られている。ひどく変色した滴りは、小さな河のように皮膚を走り、最後、静かに接地した。
死亡推定時刻は二三時とみられている。豪胆な性格で、それが人間関係に悪影響も与えていたようだ。データでわかるのはそれだけ。私たちは現場に向かった。もちろん、“彼”も伴って。
なんと呼べばいいのだろう。電話で呼び出した“millo”は、明らかに雰囲気が違っていたのだ。
「捜査の協力、どうもありがとう。」
「あ、はい。」
「普段から、この服装なのかい。前行った時とは、全然違うなりをしているね。」
「気にしないでください。はやく、現場に行きますよ。」
こちらが気に圧されてしまうほどである。こういうことにも、慣れているのか。
「あ。ちなみにこの時の僕は“millo”じゃありません。徳織昭です。徳織とでも呼んでください。おねがいします。」
「それが…もしかして本名?」
「いえ、違います。」
「それにも由来とかって…あるんです?」
「あなた方にとっては、どうでもいいことでしょう。適当に推察しといてください。」
なるほど無愛想だ。人が変わったようだ。
現場というものは、常にデータを悠々と飛び越えて、我々の前に現れる。この仕事に携わって長いが、全く慣れることはない。仏に手を合わせて、その時瞑った目を開けて見える世界は、どこ吹く風で、今日も淡々と時を進める。この狭い空間に、私を置いてけぼりにして。現場近くの駐車場に車を止め、捜査に私は向かった。
ひどく散らかった部屋、という印象を受けた。淀んだ空気が空間を食い散らかし、杜撰に散らばった業務書類は、我々にそっぽを向いている。無機質なインクがより一層黒く見えた。
「凶器ははっきりしたのか?」
「まだ鈍器がどんなものだったかは、明らかになっていません。一応死亡推定時刻は23時から25時の間というのはわかっています。…おや。こちらは…探偵さんですか。」
徳織は黙って頷いた。
「しかし、凶器がわからないというのは、少々謎だな。しかし、なんでわからないんだ。」
「血痕のついたものが全く見当たらないのです。犯人が所持したままなのかもしれません。所持しているとすると、計画的な犯行であった可能性も大いにあります。」
「そうですね。少し引っかかるのは、被害者には交際女性がいたとのことです。その女性とは、最近あまりうまくいっていなかったのだとか。」
「なるほど。他に人間関係といったら?」
「そうですね。中学教師とのことですので、そこの職場…でしょうか。あまり大きな声では言えませんが、仕事ぶりはあまり…。」
「これ以上はいい。」
書類もそっぽを向くわけだ。
その時、徳織は突然耳たぶをつまんで、目を閉じた。私は直感した。
なるほど「聴いて」いるのか。
しばしの沈黙ののち、彼は口を開いた。
「22時ごろ、亡くなる少し前ですね。映画か、ドラマ類の音が聴こえます。被害者のこの性格で、“ひとりで”観ることはないのでは。」
彼の声色は驚くほどにはっきりしていた。
「…いつもこういう風に?」
「あなたには関係ないでしょう。早く捜査を進めてください。重要参考人が見つかるかもしれないのですよ。」
この時間帯には、件の交際女性が訪れていたことがわかった。
彼の交際相手は、妹瀬あやか。大崎とは同年代の女性で、かれこれ長い付き合いらしい。私は彼女を重要参考人とした。上坂は本部で待機している。
「確かに、彼の家にはその日いましたけど。私、やってませんから。ほんと、やってませんからね。」
「交際相手がなくなったというのに、ずいぶんと余裕でいらっしゃいますね。」
「最近の彼には愛想つかしてたんですよね。もうとっくに冷めてたっていうか。一応、呼ばれてたから、付き合ってたっていうか…」
「それでも、悲しくはないんですか。」
「そりゃ悲しいですよ。それは否定しません。」
「事件当日、最後に会われた可能性があるんです。なにか、大崎さん本人はおっしゃっていませんでしたか?」
「別に。二人で映画を観てただけです。洋画が好きだったんですよ。彼は。」
初めて少し彼女の震えを感じた。
「何かかわった様子などはありませんでしたか。」
「いや。特には。まあいつもの仕事の愚痴だったりとか。」
「彼に会った後、あなたは何をしていましたか。」
「その後、夜遅かったんですが、女友達と宅飲みしてました。あ、それがアリバイってやつなのかな。」
「ありがとうございます。誰か、確認できる人は。」
「私の友人が。」
「帰り道か何かで、なにか怪しい人など見ませんでしたか。」
「そうですね。彼の家は、ちょっと都内の行きづらいところにあるから…部屋をでて、少し歩いたところで黒いコート着ている人は見かけたかも。」
「その人の特徴は。」
「わたし、実はその時もう酔ってたんですよね…。だからあまり覚えてないんです…。」
その時、私の携帯電話に突然連絡が入った。
「木崎さん!凶器がわかりました!とりあえずご連絡だけさせていただこうと思いまして、取り急ぎ!」
「まあ。落ち着け。今から現場に向かう。」
二
「なるほど。凶器は灰皿だった、と。」
「はい。頭の傷跡と縁の形が一致しまして。しかし、それがどうも妙なんです。」
まさに、そうなのである。時間がかかったのは、灰皿は綺麗すぎるほど綺麗だからだ。本当に、使われたのか疑問に思うほどに。
「しかし、それは捜査において貴重な一歩だ。」
それに補足するように、徳織が口を開いた。
「24時過ぎ、頭を打ち付ける音の少し後、布をこする音やら、水で洗うような音が聴こえます。なんでそんなことをしたのでしょう。」
「犯人は潔癖性か何かだろうか。」
「潔癖性だったら、床とか、自分の手の方が気になりません?」
「確かに、そうかもしれない。どちらにせよ、あの女の線がなくなった今、もう一度考えなくては。」
「次に考えられるのは、勤め先の学校、でしょうか…。わからなくなってきましたね。」
「よし。とりあえず、そちらにすぐ向かおう。」
「僕も行きます。少し興味がありますので。」
私と徳織の二人は、とある中学校へ向かった。その道中である。
「徳織先生は、いつから音楽を?」
「中学です。軽音をやっていましてね。」
「ほう。じゃあ、かなり長い…。」
「そうですね。」
「先生のルーツは、もしかしてそこですか…?」
「そう言ってしまえば…そう…かもしれません。」
彼の言葉は不自然に淀んだ。
「すみません。余計なことを。」
「いや。いいんです。…いいんです。」
真鍮の玉のごとき彼の詰まった深淵を、拾い出すまではいかないが、その色と光沢はどことなく見出せた。その色と、光沢だけは。
蛇口から水滴が、ぽつりぽつりと落ちている。黄色のゼッケンを着た精鋭たちが、白黒まだらの弧を描いている。職員室は、そう言えばこんな所にあったな、という記憶を私に呼び覚ました。
「私が校長の加茂嶋です。職場の仲間が一人、失われたことについては、深く悲しみの念が絶えません。生徒たちには、なんと」
「このたびは、大変なところ、申し訳ございません。その件について、いくつかお聞きしたいのですが…。」
「はい。お手伝いできることでしたら、なんでも。」
「学級等は担当されていたんですか?」
「いえ。彼は生徒指導部におりました。少々強引なところがありましたが…。」
「強引、というのは…?」
「はあ。指導が感情的である、と言いましょうか。些細なことでも、かなり厳しく生徒と接していたようです。まあ我々も、把握はしていたのですがね。」
徳織がここで口を開く。
「…何か問題でも、起こされたのでは?」
「実は…はい。亡くなる直前に。」
「詳しくお聞かせ願えますか。何か事件を知る手がかりかも。」
「実は、中学二年生に、不登校に悩む生徒が一人おりまして。仮に、A君としましょう。」
「なるほど。」
「その生徒は大変おとなしい子で、入学してすぐ、なかなかクラスに馴染めず、家にこもりがちになりました。しかし、この間、頑張って、正門の前まで来たのです。学校に足を踏み入れようとしたのです。それまでは、良かったのです。」
「ほう。」
「A君が校門まで来た時、大崎は、大きな声で、怒鳴りつけました。学校に来ないとは何事だ、と。なぜ来ることができなかったのだと。」
「それは…堪えるものがありますね。」
私はそのA君に“見覚え”があった。学校に通っていれば、そのような悩みを持つ友人は、一人や二人いたはずだ。それは私だけではないだろう。想像に難くないはずだ。
「A君は泣きながら、その場を去ってしまいました。その帰りです。前をちゃんと見ていなかったのか…。」
「まさか。」
「通りかかった車に、はねられてしまったんです。幸いながら、命を落とすことはなかったのですが、重傷をおって…。」
「A君は今…?」
「市内の病院で療養中です。」
「保護者の方は…。」
「激しい抗議を…。」
「そうでしょうね…。」
「担任の先生は…。」
「いますよ。ただ、最近は精神を病み、休みがちですがね。」
「せっかくですから、一度話をさせてはいただけないでしょうか。」
「よろしいですが、彼の心身のことも、是非とも考えてやってください。」
「はい。それはもちろん。」
我々はその岩浅という教師のもとにむかった
三
「先生は担当科目はなんですか。」
「えー。美術…です。」
背の少し曲がったその姿勢は、どこか落語家を思わせた。芸の姿勢かもしれない。
「先生、このような大変な時期に、このような話を申し訳ございません。」
「いやいや。いいんです。」
「大崎先生について、いろいろお聞きしたいのですが。」
その時、岩浅の眼光が鈍く変わった。
「あ…その話ですよね。刑事さん。それは…それは…きっと天罰…なのでしょう。私は正直、彼の死を悲しむことはできない。私の生徒の話、ご存知ですよね。彼はまだ病室で眠ったままだ!彼は教師の風上にも置けない、下郎なんです!」
岩浅の目が静かに潤んだ。
「まあ。落ち着いてください先生。」
彼は深く呼吸をした後、ため息の混じった声で続けた。
「私は…弱かったのです。」
「彼をあの朝、必死で追いかければよかったのです。私は呆然と見ているまま…。必死に追いかけて、引き止めればよかったのです。」
「先生、そんなことおっしゃらないでください。毎日お見舞いにも、行かれているそうではありませんか。」
「いえ。そんなこと、どうでもいいのです。どうでも…。気分が悪くなってしまいました。今日はこの辺で失礼しても良いですか。」
「最後に、事件当夜、あなたはどこに。」
「自宅に、一人でおりました…。」
それだけを言い残し、彼は美術室の奥へと入っていった。
これほどの激情、動機としては十分すぎる。岩浅が大崎を亡き者にしたのだろうか。生徒にかける一途な思いが、彼を駆り立てたのかもしれない。しかし、このような気の弱いような人間は、一思いに人を殺めることができるだろうか。
徳織はそんな私の思いを見透かしたかのように、
「今回で、大崎殺害に関わりそう人物が見えて来ました。しかし、まだ確定まではいきません。A君の保護者にも、会ってみるべきでしょう。何か、あるかもしれませんよ。」
向かわないことはできない。
A君の家は大きな家であった。ガレージ周りの花壇も丁寧に手入れされ、紫色の勿忘草が、私たちのような望まぬ来客にさえ、愛想笑いをしてくれる。父と思われる人物が出迎えた。玄関先からは、時間が止まっていた。
「刑事さん。校長先生から、お話は伺っていましたよ。あの件ですね。」
「はい。」
「私は、大崎先生に関して、いまだに怒りを覚えます。あの一件以来、私たち家族はバラバラになったままです。あれだけ闊達であった妻はずっと部屋にこもりっぱなしですし、息子も、命は助かったものの、お医者様からはまだわからないと…。」
俯いた目線ははっきりと私にも見えた。
「刑事さん、あなたは大崎先生のことで来られたとは思うが…。私も殺人の容疑者であると?」
「いえ。そのようなことは。」
「刑事さん、私はね、亡くなった彼になんの感情も抱いていないのですよ…。ただただ、あんな教師を野ざらしにしていた学校に怒りを覚えているのです。あまり大きな声では言えないが、彼の死など、今の家庭の状況と比べれば、些事なのです。」
握りしめた拳の形は、あまりにも厳しく、実際の何倍にも、大きく見えた。
「なるほど。事件当夜は、何をされていましたか。」
「息子の入院している病院に車で寄ってから、自宅へ。」
「それを証明できる人は。」
「病院のスタッフに聞けば、私の病院の出立時刻がわかるでしょう。」
調べたところ、出立時刻は22時40分。大崎が亡くなる少し前だとわかった。
四
「なるほど。両者とも動機は十分、か…。」
「もう一度状況を整理して見ましょう。二人とも、殺人は十分に可能なのですね。」
「そうだな。直接的なアリバイまでは、証明できていない。」
「なにか、犯人の特徴といえば…。」
「黒いコートを着ていた、ことぐらいだな…。これを言っていたのは妹瀬だ。」
「それが引っかかるんです。コートを着ているということは、“歩いていた”ということですよね。車の中でコートを着るでしょうか。一応寒い日がある、とは言っても、春先ですからね。」
「なるほど…。」
「A君のお見舞いの帰りだったら、車に乗らざるを得ませんよね。そうじゃないと、間に合いません。さらに、被害者近くの家にガレージもある。車で行ったら、普通そこに停めますよね。」
「では、犯人は岩浅だと…?」
「僕の見立てでは、です。少し最後の確認に、学校へ行ってきます。それで、全てが確証に変わるかと。」
「おい。待て。確認というのは。」
「僕の聴いた“音”ですよ。」
探偵の目が鋭くなりだしたので、私は急いで車を出した。
「岩浅先生。放課後お時間いただいて申し訳ありません。」
「まあ…皆さんお仕事ですからね…。」
「少し美術室に伺ってもよろしいですか。」
「はい…。何か御用でも?」
「いえ、一度見てみたいんです。」
一行は美術室へと向かった。私の時代とあまり相違のない部屋である。夕日が差し込んだ時の木材の色は、確かにこんな色だったなということを思い出していた。
「先生。単刀直入に申し上げます。大崎先生を殺したのは、あなたですね。」
「…。」
「私はこの美術室を様子を見て、確信しました。私は、なぜ、犯人は鈍器を洗ったり、拭いたりした“音”を出したのか、ずっと不思議だったんです。潔癖性の人は、自分の手だったり、床だったりを気にするんですがね。なぜ灰皿なんかを綺麗にしたのか…。」
「……。あなたはなんでもご存知のようだ。」
岩浅は静かに目を閉じた。
「先生。あなた、美術の中でご専門は、“工芸”ではありませんか。」
「…その通りです。美術と聴くと、みなさん“絵画”を想像しがちです。私は芸術大学で、生活陶芸を専攻していました。日常で使うコップとか、あの類ですね。」
棚に飾られているのは、陶芸作品ばかりだった。岩浅は続ける。
「あの夜、私は彼を厳しく問いつめるつもりで、家に訪れました。殺すつもりなど、全くなかった。でも、彼は開き直るようなことを言い出しました。それが本当に許せなかった。あいつのような教師がいるせいで、生徒の未来はどんどん奪われていくのです。…。
気づけば彼は死んでいました。その次に、自分の手に持っている灰皿に気づきました。それがどす黒い血に汚れているのを見た途端、私は耐えられなくなり、綺麗に洗いました。私にとっては、あれは作品と同じですからね。…そのことは、なぜご存知で?」
「少しばかり耳がいいものでして。」
「…なるほど。普通の人にはよくわからない感覚だと思いますがね…。ところで、耳がいい、とおっしゃいましたが、もしかしてあなたは、音楽などをされている方でしたか。」
「ええ、そうです。先生の美意識、よくわかります。だからこそ、犯行にも気づいたのですが…。」
「…いずれは自首するつもりでした。自分の罪は償うつもりです。その前に…。」
岩浅が口を開いた瞬間、校長が扉を開けた。
「先生。“彼”が意識を取り戻したようだ。君は担任だろう。今すぐにでも行ってやりなさい。刑事さん方、それだけは、それだけはどうかお許しいただきたい。頼む。」」
「…私からもよろしくお願いします。どうか。」
「…わかりました。我々も同伴させていただきます。」
病院には“彼”の父が先に来ていた。
「あ、来ていただいたのですね。岩浅先生。…なんと申し上げればよいか…。」
「と、申しますと。」
「先生はあの日から毎日、見舞いに来ていただいていたのですね…。息子の大智が、そう申しておりました。私はそれを露にも知らず、ただただ学校側の人間を憎んでおりました。我が身を省みるばかりです…。」
「…いや。いいのです。私は教師として、当然のことをしたのみです…。」
「来ていただいて大変申し訳ないのですが、まだ親族のみしか、面会することはできません。何か言伝でも預かりましょうか。」
「では、少し一筆したためますから、それを大智君に届けていただきませんか。」
岩浅はペンと便箋を取り出した。その走るような文字だけ、私は記憶している。
我々は静かに病院を後にした。
終
車の中で、岩浅は独り言のように、こんなことを口にした。
「私は、春が嫌いだ。人間というのは、春に全てを始めようとするし、終わらせようとする。こんなに傲慢で悲しい季節が、他にありますか。」
徳織がそれに応える。
「でも先生、それでも人々は、春よこい、と言い続けて来たのです。」
「ふっ。じつに不思議なことですな。」
バックミラーに映る病院がどんどん小さくなっていく。ある病室のカーテンが開いた。窓越しから見えた景色は、どんなものだったのか、私には見当もつかない。




