1 涙
道路にできた木陰で足を止め、ひとつ大きく息を吐きだした。
今日から十月だっていうのに、太陽がやけに頑張っている。それより何より、一カ月ぶりに着たリクルートスーツと革靴ってやつが余計に暑苦しい。このビジネス鞄も邪魔でしょうがない。とはいっても、来年の四月からは、これも毎日のことになる。
そして、もうひとつ。足が重いのには訳がある。これから向かう場所が問題なのだ。というか、行くべきか迷っている。
でも、今日という日だから……今日、行かなければ、本当に終わってしまう。
僕は足を踏み出した。
まさに閑静な住宅街といった感じのこの場所に、目指してきた家はあるようだ。午後二時過ぎという中途半端な時間帯だからか、人はあまり出歩いていないし、子供たちの声も聞こえてこない。
耳を澄ませば、街路樹や庭の木々から葉音が聞えてきそうなほどで、ゆったりとした優雅な時が流れている。
僕は表札を気にしながら、歩を進めていた。
「ここか」
この名前、ここで間違いないだろう。そう思った瞬間から鼓動が速まっている。
気持ちを落ちつかせようと、一度目を閉じ、ゆっくりと呼吸をしてから呼び鈴へ指を伸ばした。しかし、止まってしまう。後ろめたい気持ちが躊躇いとなり、指が縮こまってしまう。
僕はここに来るべきではない。それは分かっている。文通相手の家に、何のことわりもなしに来るなんてルール違反だということは百も承知している。それでも来ずにはいられなかった。
一カ月くらい前から返事がこなくなった。思えば、待ち続けていた内定通知が届くほんの少し前からだ。
二十一世紀という新しい世紀が始まったというのに、就職戦線の氷河期は変わらなかった。なかなか内定をもらうことができず、今年の夏は本当に暑く苦しく、そして、長かった。
夏前には、ほとんどの者が戦線から離れている。ある者は早々と内定を獲得し笑顔で去っていき、ある者は諦めと妥協の中で違う道を選び去っていった。また、戦線に参加することすらしない者も少なからずいた。そんな中、僕は汗を拭いながらリクルートスーツは着続けた。でも、何度も脱ぎ捨ててしまおうと思った。
きっと彼女の手紙がなかったら、早々と安易な道へと進んでいたことだろう。今日の内定式を迎えることもなかっただろう。
その手紙が来なくなった。僕が手紙をだしてから一カ月が過ぎたというのに何の音沙汰もない。何故こうなったのか理由は分からない。最後となった手紙を何度も読み返したが、特に気になることはなかった。
いや、予兆が……あったではないか。内容自体は変わらずとも、送られてくる文は、だんだん短くなってきていたし、返事が遅くなっていたことも確かだ。そして、何よりも、僕には思い当たることがあるではないか。
彼女が手紙をやめてしまうその理由――きっと、彼女は気付いたのだ。僕が彼女をずっと騙し続けていたことに。
「あのう……うちに何か用ですか?」
背後から突然、声が聞えてきた。驚き振り返ると、そこには中年女性の姿があった。買い物帰りなのだろうか、スーパーか何かの袋を手にさげ、不審者を窺うような目で僕を見ている。
咄嗟に頭を下げた。そして、口からは〝偽り続けた名前〟が漏れていた。
この女性が僕のことを知っているかどうかは分からない。それでも、言い直さなくてはならない。ちゃんと本当の名前を告げなくてならない。
顔を上げ、視線を前へと向けた。
言葉がでてこない。
どうして?
そんな疑問が胸の中を駆け巡っている。僕の視線の先、そこには頬を伝う一筋の涙があった。