4 .奏士の変化
「ま、こんなもんかな。各パートかなり違うメロディーになってるから、完成させるの結構大変だろうな」
しっかりと演奏をおさめたICレコーダーを、大切そうにカバンにしまう瑠美に奏士は声をかけた。
「うん、そうだね。本当ならもっと沢山放課後残って練習したいところなんだけど……みんな部活とか予備校で忙しいと思うし、流石に毎日とかは厳しいよね……」
どうしたものかと頭を抱える瑠美。
「残れる人だけ集めて少しずつでもやった方がいいとは思うけど……」
奏士も一緒になって考え込んでしまう。
「ねぇ、波来くんって部活やってないんだよね?」
突然キラキラ目を輝かせて瑠美が振り向いた。
「…ん? あぁ」
怪訝そうな表情に瑠美は気付かない振りをして、
「もう一個お願いがあるんだけど……、放課後毎日ちょこっとでいいから、残れる人たち個人指導してくれないかな……?」
潤んだ瞳で迫ってくる瑠美に完全に押されながら後ずさりをする奏士。
「……まぁ……、暇だし、別にいいけど……」
頬を赤くしながらボソボソと答える。
「じゃあ、決まり!! 出来るだけ音楽室とか、体育館のピアノ押さえられるように先生に交渉してみるからさ!!」
嬉しそうに飛び跳ねる瑠美。
じっと動かない奏士の視線を感じて彼の顔を見返すとまた耳たぶがまた真っ赤になっている。
「……ねぇ、さっきっから耳たぶ赤くなってるけど……大丈夫??」
咄嗟に出てしまった瑠美の言葉に、なにやら取り乱した様に耳たぶをおさえる奏士。
「な、なんでもないよ!」
語気を強める彼に、やっぱり聞くべきではなかったかな……と後悔する。
「ご、ごめん」
俯く瑠美。
「別に……なんでもないから……」
「……うん」
「じゃ、今日はありがとう!」
別れ際、気まずい空気が流れたものの、瑠美は奏士の色々な姿や表情を見ることが出来て、大満足の一日だった。
玄関の扉を開けると瑠美の後ろに、夕日が美しく水面に反射する。
ハッとする様な彼女の美しさに今日一日起こった事が奏士の中で映像の様に流れていく。
ついつい彼女に目が行き、その視線に気づかれてしまった。
「ん? どうしたの?」
「いや、夕日、綺麗だなって」
「そうだね」
彼女の言葉に、またいちいち動揺している自分が嫌いになりそうになる。
沈みかけた夕日を背に、奏士に見送られ瑠美は自転車に跨がった。
「また明日、学校でね!」
笑顔で手を振る瑠美を、奏士は姿が見えなくなるまで見送るのだった。
「はぁ……」
そうため息をつきながら家に入ってくる奏士を、待ってましたとみゅうは追いかける。
「ミャーミャー」
(もう、今日の私たちのピアノの時間がなくなっちゃったじゃない……)
どこをを切っても完璧な人間の彼女に、見惚れている奏士の姿を目の当たりにして、みゅうは崖っ淵に立たされていた。
どれだけ構って欲しくても、心ここに在らずの奏士の瞳にみゅうは映り込むことができない。
トボトボと奏士に背を向けるみゅう。
ずっと仲良く一緒だったのに……こんなにも簡単に私から離れてしまうのね……
夕食を出されても口に出来ない程に、みゅうはショックを受けていた。
「奏士、みゅうがご飯食べないのよ……。何か心当たりある?」
母が何度声をかけても振り向かない。
「奏士? 奏士ったら!」
慌てて振り返る奏士。
「なに、どうした??」
キョトンとした表情に、
「全く……何にも聞いてないんだから! みゅうがご飯食べないのよ……」
心配そうな母の表情を見て、初めてみゅうを探し始める。
「みゅう? どこだ? みゅう?」
すると奏士のベットの下から
『ミャー』と顔を出す。
「母さん、あとで様子見て俺がご飯あげるから」
奏士は心配そうにみゅうを撫でた。
「そう? 具合悪いなら、病院に連れて行かないとね。みゅうももう年だし……」
母は奏士に任せて部屋を出て行く。
「みゅう? 大丈夫か?」
奏士は自分の膝にみゅうを乗せて体を大切そうに撫でる。
「………」
彼女は黙って奏士の掌の温もりを感じながら不安を取り払おうと懸命になっていた。
「……みゅう、俺なんか変なんだ……。今まで女の子を意識した事なんて一度もないのに……」
みゅうは背中を撫でられながら、一番聞きたくなかった言葉に襲われる。
「伴奏だってさ、あの一件以来全くやる気なんてなかったのに……」
奏士のトラウマが出来たのは六年生の時。
その事件のきっかけは、伴奏をしていた彼を見た女子に極端に気に入られすぎてしまった事にあった。
自分の容姿を褒められて悪い気がしないのはどこの誰でも普通のことだろうが、あの日以来奏士は全く逆になってしまった。
伊達眼鏡をかけ自分の顔を隠す様になり、ピアノは学校では一切弾かないようになった。
それでも、いつもでもみゅうが側で聴いてくれていたから奏士は満足だった。
彼はみゅうを自分の一部であるかのように、大切にしてたくさんの愛情を注いできた。
自分の理解者はみゅうだけで十分だ、そう思っていたはずだった。
ところが突然縮まった瑠美と距離に、自分の中の何かが大きく変わろうとしている事に、もう気づかないフリが出来なくなっていたのである。
そんな奏士の変化にみゅうが気付くのに時間はいらなかった。
奏士の幸せを願えば、応援しなければいけない……そう思い込もうとしても、自分の身体の衰えに加えて、彼がどんどん遠くへ行ってしまうような心細さに、とても奏士の気持ちに寄り添わせることが出来ないでいた。