3. 初めての恋
瑠美はプリントを渡してからの帰り道、奏士のピアノを弾いている時の表情が頭を離れなかった。
(いつもは存在すら忘れてしまいそうな影の薄い彼に、何をこんなにドキドキさせられているのだろう……?)
翌日、登校してくる所を待ち構えてしまう留美がいた。
「波来くん、おはよう!」
彼の姿が見えたら、『明るくさりげなく』を心がけて声をかける。
「………? お、おはよう」
突然声をかけられて驚いたのか、奏士の不思議そうに瑠美を見つめる眼差しが、昨日の眼鏡をかけていない奏士の顔を思い起こさせ、彼女の心をまたもや振り回す。
「……何か用?」
奏士は不振そうに留美を見遣り、席に着こうとする。
「まっ、待って!! ちょっと、話があるんだけど……、放課後、ちょっと時間もらってもいいかな?」
いつも凛としている彼女が何やら慌てている姿を奏士は意外に思い、ほんの少し笑みを浮かべて『あぁ、いいよ』そう答えた。
授業中真剣な眼差しでノートを取る奏士を、瑠美は二つ右に離れた席からチラチラと覗き込む。
(なんでこんな素敵な男子がいた事に今まで気づかなかったんだろう……!)
そう思いながらドキドキと弾む胸の鼓動を感じ、初めて恋をする感覚を認めざるを得なかった。
瑠美は学年一の美少女と噂される位の美貌の持ち主。
言い寄ってくる男子生徒は数知れずいたが、本気の恋と出会うことのないまま高校生になり、生まれて初めて心奪われた男性が奏士だったのだ。
放課後みんなが下校して教室に誰もいなくなるのを待ち、ずっとイヤホンで音楽を聴きながら机に突っ伏し眠っていた奏士の肩を恐る恐る叩く。
ムクリと眠そうな顔で起き上がり、
「あ、ごめん……寝てた」
そう優しい声で自然に微笑む彼を見て、また顔が熱くなった。
「ごめん……、起こしちゃって。実は、合唱コンクールの伴奏者今探してて……。昨日、波来くんすごいピアノ上手だったからさ、どうかなぁ……なんて思って」
奏士の顔色を伺いながら恐る恐る聞いてみた。
「……伴奏……?」
一瞬表情が曇ったが、何かを吹っ切ったかの様に、
「別にいいよ」
そう優しい笑顔を見せる。
「ホント?! 嬉しい! 波来くんのピアノ、すごい素敵だったからさ。よかったー!」
安心した瑠美の表情を見つめる奏士。
その視線に気づき、
「ん? なに?」
瑠美は戸惑いながら訊ねる。
「いや……なんでもないよ」
スッと目を逸らし、そう話す奏士の耳がほんのり赤くなっているのに気がついた。
「そう……?」
『どうかした?』そう聞こうと思ったが喉に詰まったように言葉が出てこない。
核心に触れるようで怖かったのだ。
留美はゴクリと言葉を呑み込んだ。
「……あ、それで早速なんだけど、みんな集まって練習する時間がなかなか取れないと思うから、全員に事前に伴奏と、パート別の音源を配ろうかなって考えているんだけど……録音してもらうことってできるかな?」
こんな面倒な事、断られるかと覚悟はしていたが、返って来た答えは予想に反して意外にも協力的なものだった。
「いいけど……どんな風に? そういうのやった事ないからな……」
頭をくしゃくしゃしながら悩んでいる様だった。
「波来くんちのピアノ借りても良ければ……今日、ICレコーダー私持ってきてるから、録音してもらってもいいかな? 使い方は心配しないで。私が波来くんちに行くからさ」
いいアイデアだと拳を叩く。
「え? うちに? 今日?」
戸惑っている様に見えたが、
「すぐ終わるから! みんなに配るのも早い方が絶対いいし!」
ちょっと強引すぎるかなとは思ったが、強気で押し通せばいけそうな雰囲気の奏士に留美は畳み掛けて行く。
「しょうがないか……。わかったよ」
そう荷物をカバンに詰め始める奏士。
「ありがとう!!」
あからさまに浮き足立っているのがわかる様な瑠美だったが、恋愛に鈍感な奏士はそれに気づく事はなかった。