第二話 『マイナ』
ダイスの目の前に立つのは、何の変哲もない一軒家だ。白塗りの壁と赤煉瓦で構成された、どこか安心感のある雰囲気の自宅である。
だが、支援魔法“魔法看破”を持つ人間ならば分かる通り、薄い青や赤、白色と色彩付与によって可視化された魔法が、何層にもなってその家全体を包み込んでいた。これは“魔法結界”と呼称される詠唱を必要とする魔法であり、その中でもこれは上位に位置するものである。この存在によって自分が不在な状況でも、こうして未知なる脅威から自宅を守っているという訳だ。
「少し色が薄くなってるな。明日にでも調整しておくか」
“結界魔法”は使用者の魔力を、距離の近遠を問わずに吸収する。だが宿主から体力を吸い取り成長する寄生虫のような存在とは異なり、これらは成長――膨張することはない。一方で使用者の疲労蓄積や魔力不足が原因で供給する“魔力”が一時期でも減少すると、“結界魔法”の状況維持の作用により効果が薄くなってしまうのだ。
更に“結界魔法”というのは本来、高位の魔法使いが“魔力”の消費を抑えるマジックアイテムを併用して、ようやく安定して維持できる。それをダイスは自分だけの力で他に“四箇所”それを設置している。その為ダイスは、魔法使いとして大幅な弱体化をされてしまっているのだが。
そんなダイスは先のことを特に気にした様子もなくぼやきながら、飾り気のない扉を開く。
――そして目の前に飛び込んできたのは、まだ幼さの残る年端もいかない少女だった。
「やっぱりお兄さんだ! お帰りなさい!」
露出の控えめな、青色を基調とした制服と長めの茶髪が清楚さを演じ、切れ長の青銅色の瞳は、普段であれば意志の強さを感じさせるだろう。だが、現在の彼女の顔を占めているのは、年相応の可憐な表情だった。擬音で表すのならば「にこぱっ」といった具合で、彼女の尻では不可視の尻尾が忙しなく動いていることだろう。
「ただいま。マイナ」
「はい、丁度いい時間に帰ってきてくださって嬉しいです! 冷えた夕食を振る舞うのは心苦しいものがありますから……」
「忙しいのに今日も作ってくれたんだな」
「ありがとう」とマイナの頭を撫でると、彼女は小動物のように愛苦しい表情を浮かべる。注意深く見れば、僅かにその細身の体は震えていた。それは間違いなく、身を包む幸福感から来るものなのだろう――。
食卓に移動したダイスの目の前に広がるのは、空腹だった彼が依頼中に何度も幻視した光景だった。主食に硬パン。主菜には若鳥のソテーで、エビとチーズのオーブン焼きを副菜に置いている。柑橘系の果物が入ったサラダや初見のデザートらしきものも添えられていた。
贅沢に使用された香辛料の良い香りが鼻孔を刺激し、体裁を忘れてかぶりつきそうになってしまう。それをどうにか自制したダイスは、マイナを伴ってリビングに移動するとマイナの反対側に座り、手を合わせる。
「じゃあ早速。いただきます」
「どうぞ、召し上がれ!」
まず、手前にある若鳥のソテーを口に運んだ。その瞬間――ダイスの顔が驚愕に支配される。丁度よい塩加減に、しつこさのないバターの香ばしさが絶妙だ。その周囲を囲む野菜類は料理自体の見た目的な意味でも、味を引き出すという意味でも大役を担っていた。
「美味い……本当、成長したな」
「花嫁修業ときたら、気合を入れなくてはなりませんからね!」
意味があり気に此方に視線を送る彼女に、その真意に気づかないダイスは小首を傾げる。そのあと間もなく、マイナは力なく項垂れた。
「そういう人ですもんね……お兄さんは。いや、ただ異性として見られていないだけでは……?」
「どうしたんだ? 早くしないと、せっかくの料理が冷めるぞ」
「ちゃんと食べますよーだっ! ただどこかの誰かさんの鈍感さに苛立っていただけですっ!」
こうして騒がしい夕食の時間が始まった。そしてその後は特に空気が変になることもなく、夕食の時間が過ぎようとしていた、が――。
そこには、目の前に空になった皿と並ぶ、ぷるぷるとした紫色の物体があった。
「これは……何だ?」
「えっと、今都市間で大流行している菓子です」
その外見は酸性害獣に酷似しており、紫という毒久しい色がどうにも食欲をそそらない。有害そうなこの菓子が王国の都市で人気を博しているというのだから、国の先行きを僅かに心配してしまう。
「……本当に大丈夫だろうな」
「安全性については、店側が保証してくれましたし……」
整った眉毛を歪めたままダイスは、それを手に取り匂いを嗅ぐ。すると確かに葡萄の匂いが漂い、安心の二文字が頭上に浮上した。だが、怪訝な表情が完全に晴れることはなく、身をもって確かめるしかないという判断に行き着く。
「はむ……ん!」
覚悟を決めその一欠片を口に含んだ瞬間、ダイスの表情はまたも驚愕に支配された。口に広がる葡萄の風味。それはスライム独特の生臭さを消し、そればかりか癖になる後味に仕上げている。
「どうです? お味の方は?」
正面にいるマイナは頬杖を付き、にやにやといやらしい表情をその端正な顔に浮かべていた。対してダイスは、実に悔しそうな表情を浮かべる。あれだけ味も安全性も疑っていた食べ物が、予想に反して大変美味だったのだ。当然といえば当然である。
「それはそうとマイナ。今日は何か変わったこととか、あったか?」
「あ、誤魔化しましたね?」
「おほんっ」と咳払いしてそう話題の転換を敢行したダイスに、マイナは無粋なまでの意地悪をする。だが、ダイスから直々に報告と相談の重要性を説かれている彼女は、即座に真剣な表情を張り付けた。
「実は……都市の南方――ルウスブ大森林で、屍人の大群が発見されたそうです」
「まさかあそこで、か……? 今の規模はどのくらいだ?」
「現在確認されているのは100体から150体程度と小規模です。しかし調査した冒険者チームからの情報では、魔法的な補正効果が付与されているそうです。“統率個体”が存在するのはまず確実でしょう」
端的に紡ぎ出された言葉に含まれる“統率個体”。これらはそうあれと生み出された存在ではなく、魔物や屍人などが、より上位の元に集結する性質から自然と誕生する軍団の最上位者を指す言葉だ。そして数は少なくとも、大規模な支援魔法を可能とする屍人系の存在となる。
「エルダーリッチか、アンデッドプリースト辺りか……?」
「そうでしょう。戦闘はかなり熾烈になると思います」
「ですが」とマイナは冷静に推論を立てて見せた。
「その任務にはSランクの冒険者たちも参加するそうですから、多分解決するでしょう。お兄さんの出る幕ではないと思います」
「そうか。だったら心配は不要だな」
マイナの自信満々な表情に顔を弛緩させたダイスは、そのまま席を立った。
「……さて、そろそろ寝るとしようかな」
「え、もうですか……? その、流石に早くはありませんか?」
「明日は少し早出になるんだ」
「そうですか……」と先程までと一変して表情を陰らせたマイナは、何故か自分の胸元に寂しげな視線を送るダイスに疑問を抱きながらも、微笑んだ。
「お勤めご苦労様です。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ。それとだが……早く寝ないと、いろいろ育たないぞ」
「余計なお世話ですよっ! 淑女に対してその発言は万死に値しますよ!?」
「……悪い」
「もう、さっさと寝室へどうぞ! 私は勉強が忙しいので!」
「ああ、そうさせてもらう」
ぷりぷりと立腹するマイナは背後にその言葉を聞いていたが、彼の次の言葉で硬直する。
「それとだが、もし屍人との戦闘が始まったとしても、覗きに行くようなことはするなよ?」
「っ。わ、わかってます、よ……?」
肝の据わっている自分を身震いさせるほど強い視線を寄越す彼への返答は、実に信用できない言葉だった。自分なりに精一杯釘を刺したダイスは、嘆息しながらも今度こそ寝室へと続く廊下を進むのだった。