冬 比良山
楽星の文化祭も終わり、冬が近付いてくる。お互いの気兼ねもあったのか、文化祭で会う事はなかった。でも葵さんは劇の舞台は見に来てくれたらしい。それは後日会った時に聞いた。つかこうへいの「熱海殺人事件」、主役級の刑事役を靖男は演じた。男子校なので、婦人警官役も男。その絡みが葵のツボにはまったらしく、御所で、いや、御所に向かう道すがらから大きな声で笑っていた。
だが、今日の問題はそこではない。笑っていたのはそれが本筋では無かったと靖男には道すがら思えていたのだ。「城☆陽人」として、今月号の『HONT MILK』で、投稿し続けていた原作がついに漫画化されたのだ。それも、葵さんがお気に入りのとなみむか先生に。
恐らく、葵さんはそれはもう知っているに違いない。となれば、今日の話題はそれに違いない。
靖男としてみればかなりの自信作ではあったが、裏話まで根掘り葉掘りされたくはなかった。正直恥ずかしい。
でも、それを証拠に、恐る恐るS台の食堂に顔を覗かせた時、目が合った葵さんがにやっと笑い、「祝!」と書いたノートをこちらに見せた。やられた・・・何も言葉がなかった。
御所に向かう道すがら、靖男は何も言わなかったし、葵さんを見る事もなかった。兎に角、ずんずん歩いて行った。葵さんは、その歩幅の違いがあるものの、軽くスキップみたいな感じで嬉しそうに結わえた髪を躍らせながら追いかけてきているのだろう。まるで内緒にしている事をいつ言おうかとうきうきしている様子が手に取ってわかる様に。
内心、靖男はびくびくしていた。どう言われるのか不安だった。
靖男は渋々いつものベンチに座る。隣にちょこんと葵さんも座る。腰は触れないが、学生服のズボンとスカートは触れている、そんな距離だった。
「じゃあ~ん!」葵は鞄から、今月号の『HONT MILK』を取り出した。
靖男はうなだれた。やっぱり、この話だ。
「おめでと!おめでと!」
「ってか・・・読んだんですね・・・」確認するまでもないが、それでも聞いてしまう。
「読んだ!読んだぞ!」
「・・・ここで、常道なら、感想を聞くんでしょうが・・・正直・・・」
「正直、面白かったぞ!Hぃ漫画と言うよりコメディだ。面白い着眼点だと思うぞ。『敏感過ぎて(なんだ、その・・・)Hぃ事が出来ない女の子が出会ったハプニング』ってのが、着想が面白いと思うぞ」
「・・・」興奮している葵を横目に、靖男は黙っていた。
「・・・どうした?」
「いやぁ・・・いいんっすかねぇ・・・こんな話を書く男と付き合うって・・・」
「どうした?そりゃ・・・Hぃ話だが、商業誌に、漫画の原作を採用される人と友達なのは、嬉しいぞ?」
「そう言って貰えるのは嬉しいんですが・・・」
「どうした?普段の城くんらしくないが?」
「いや・・・言いにくいんですが・・・ぶっちゃけ、エロ漫画です・・・」
「あっ・・・いや、そうだった・・・」気持ちが高ぶっていた葵は我に返った。
「そ、そう!でもだな、話として面白かった・・で、なんだ?」
「・・・あの、こう言ったら変だと思われるかもしれませんが・・・今のエロ漫画は、正直好きな作品が多い訳ではありません。こんな話は嫌いでしょうが・・・やれ、「好き好き好き!」で簡単にSEXするか、何だか強姦されながら結局「それでも気持ちいい!」みたいな。・・・女の子が同人誌なんかで描いている、いわゆる『やおい』みたいな気がして・・・」
「『やおい』?」
「『や』まなし、『お』ちなし、『い』みなし、って意味です」
「・・・」
「そう、絵が上手いだけで、内容は全くない。エロ漫画で言えば、SEXすればいい、SEXがあればいいと言うか・・・」
「・・・そんなものではないのか?」
「・・・昔、『漫画ブリッ子』って雑誌がありました・・・」
「ん?」城くんが、遠くを見ている感じが葵にはした。あの、向かい側に生えている松の向こう側を見ながら語ろうとしている様に感じられた。
「『HONT MILK』の前身の雑誌です」靖男は、何か言葉を詰まらせながら、言い澱みながら話を続ける。
「月刊ジャンプで描いているみやすのんき、ひろもりしのぶというPNでしたが、が過激なエロ漫画を描いていたりしていましたが、白倉由美やのつぎめいるなんかが真っ当な少女漫画を描いたり、寄生虫や外園昌也が本格的なSF漫画を描いてました」絞り出す様に言葉を続ける。
「俺は、そんな雑誌、玉石混交の雑誌が好きで、魅了されました・・・ですが、突然、編集長が辞めたんです・・・きっと、期待していた、かがみあきらが死んだのがきっかけだったんでしょう・・・」
葵には知らない話だ。ただ、聞き入るしかない。
「そして、徳間書店から雑誌を創刊し、残った『ブリッ子』は多くの作家がそちらに流れ、数ヶ月後に休刊、と言う廃刊になりました・・・そして、新たに出版されたのが『HONT MILK』です」
「・・・そうか・・・」葵には分からない話だが、城くんにとっては、中学生の頃にも、それだけ漫画に拘る出来事があったんだ、って事だけは分かった。
「その『HONT MILK』で、『ブリッ子』の編集長が抜けた後を必死に繋げようとした女編集長が、イラストや漫画投稿だけでなく、漫画の原作を募集しました・・・正直、立ち上がった雑誌は青臭く、稚拙でした。だからこそ、「エロ漫画ってそれだけじゃないだろ?エロだから描ける感動作があるだろ!」と思い、そんな事を考えながら、必死で、なんと言うか、下手っぴでしょうが、エロと感動を融合出来る作品を模索して、投稿していました・・・」
葵には言葉がなかった。漫画は好きだったが、それは趣味であり、そこまで考えて読んでいた事はなかった。城、いや城くんは、そんな事まで考えて、真剣に向き合っていたんだ。
ベンチの少し前を、老人の夫婦がゆっくりと、砂利を踏みしめながら手を繋いで歩いていった。エキストラの様に歩いていった。
「・・・今回の話は、「好き好き好き」でSEXしたり、唐突に強姦されたり、そんな話でいいの?ってなアンチテーゼとして着想した話です。「好き」だけど、好きな相手と簡単にSEXさせたくない。強姦でお涙頂戴にもしたくない。・・・「強姦で喜ぶ」?そんなシチュエーションって何だろう?好きな人とSEXが出来ない。その原因は何?・・・そんな事を考えながら、『敏感過ぎて、特に好きな人に触れられるだけで感じてしまう女の子が、それでも恋人とSEXしたいと思い悩んでいると、突然、強姦される。その時には受け入れられる。嬉しくなった女の子は恋人とSEXをお願いするが、結果、それでもSEX出来なかった』・・・まぁ、そんな話を思い浮かべました・・・」
「そ、そうだな・・・その着想は面白かった」
「・・・ですが・・・思うんです。俺は、結局はキャラの女の子を弄んでいるだけじゃないか、って・・・結局、エロ漫画のネタにして遊んでいるだけなんじゃないか、って・・・」
冬も近い御所は、少し肌寒くなっていた。でも、葵は、城くんの言葉の方が身に染みて、突き抜ける寒さでもあり、それが逆に温かさとも感じられた。
多分、描く人の多くは、こう言った苦悩に陥っているのだろう。
自分で作り上げたキャラを、自分の思い通りに犯して満足する人もいるのだろうが、こうして悩みながら、出来る限り幸せになって貰いたいと願っている作者もいる。いや、「幸せ」と言う言葉は語弊があるだろう。意味のあるキャラになって貰いたいと願っている。
そんな描き手の想いを、こうして聞くとは思えなかった。もっと、こっちの「エロ漫画」の世界では、絵の綺麗さだけで、そんなに深く考えていると思っていなかった。城くんも、何だかさり気なく、採用されたいが為に書いているだけだと思っていた。
そう考えてみると、城くんの描いた作品はかなり真剣に、今の「エロ漫画」に挑戦している話だと思えた。
「心配するな。私は、お前の作品を自慢に思う。こういう、ありきたりでない話を思い浮かべる人が知り合いなのを、自慢にしてもいい。心配ない。お前のその気持ちが分かってくれる人はきっといるぞ」
相応しい言葉ではなかったかもしれない。でも、こんな言葉しか思い浮かばなかった。
「ありがとうございます・・・甘えているのかもしれませんが、そういう言葉が欲しかったんだと思います」
「うむ、城くんには、城くんにしか描けない話があるのだろうし、それが『エロ漫画とは何か?』と言う問いであったり『エロ漫画でしか描けない何か』への挑戦なのだろう。そういう気持ちはおかしくはない。私は、その・・・Hぃのは躊躇するところがあるが、そういうHぃ話は読んでみたいと思う」
「女の子も、そう思ってもらえるエロ漫画を・・・描きたいですね」
「うむ、頑張れ」
街灯が灯り始めているのが、かすかに分かる時間になっていた。
あまり曝け出したくない話でもあったのだろう。城くんは、少し話疲れたように座っている。葵は、その肩をぽんと叩き、
「よい話を聞いた。もう遅い。帰ろう」
帰りのバス停でバスを待っている間、葵はふと口にした。
「しかし、城くんは偉いな・・・高1なのに、そんな事考えて積極的に出版社に向かって活動しているなんて」
「へ?」
「い、いや・・・確かに漫画も好きだけど、ただただ読んでいただけで、何かしようなんて思った事もなかった。高校時代は弓道していただけだった・・・別に弓道が悪い訳じゃないけれど、高校生なりの活動だったし、社会に対して何かしようなんて思ってもみなかった・・・」
「・・・別に大した事じゃないですよ・・・同じ位の年の人達が同人誌を作ってコミケなんかの即売会に出品したり、それを認められて『HONT MILK』や他の雑誌でプロとして描いている人もいます」
「そうなのか?お金だって大変だろう」
「親に借金したり、バイトして資金を貯めたりしてまで同人誌を作っている知り合いもいます。と言っても『HONT MILK』上の知り合いですけどね。後は、そのツテで聞いた話です・・・自分にはまだそこまでの根性はありません。もっと必死になっている人達が、即売会なんかで切磋琢磨している、そしてプロの道に進んだりしているんです・・・」
バスが通り過ぎて行った。葵の帰りのバス停に向かうバスだったが、乗らなかった。城くんの話がもっと聞きたかった。
「・・・皆さん、楽しんでいるのかもしれません。でも必死に楽しんでいるだと思うんです。葵さんの好きな、となみむか先生も『Somck Dress』と言う同人誌で短編ですが名作を描いており、感銘を受けました。自分は同人誌を作ったり、参加する度胸はありません。そっちの方がもっと真剣勝負だと思います。バイトして同人誌作るどころか、コミケに行く事も出来ない根性無しです・・・校則でバイトは禁止ですけど、こっそりやってる奴もいますし・・・やってやれない訳じゃないんです。ただ、自分にそれだけの意志がないだけで、それで投稿で満足する振りをして・・・ははっ、ダメダメですよね・・・あんまり持ち上げないで下さい・・・」
別のルートで帰路のバス停に向かうバスが来たが、葵はそれも見送った。
「・・・どうした、城くん?」
「・・・いえ、なんか一つ出来たら、もっと先が見えて来て・・・それは長く遠い道なんだと分かると怖くなって・・・葵さん、ありがとうございます・・・今まで、こんな話をする事なんて出来ませんでした。そんな知り合いは『HONT MILK』の投稿者くらいしかいなかったし、こんな話は『HONT MILK』の投稿者同志ではなかなか出来るもんじゃありませんし・・・」
「・・・確かに、そうなんだろうな・・・」
葵は、御所での話から驚いていた。城くんは、もっと純粋に喜んでいるとばかり思っていた。でも、おたくとして必死に、一人前の「おたく」になる為に努力して、苦悩しているんだ。
「本当、こんな形で話が出来る人と知り合えたのは嬉しかったです。・・・ちょっと、今日は、最初、何を言われるかビクビクしていましたが、逆に言いたかった事が言えて、嬉しかったと思っています」何か解放されたように小さく微笑み、俯いていた顔を葵に向けて、靖男はぽつりと、
「後・・・」
「・・・後?なんだ?」
「バス2本見送ってくれましたよね?ありがとうございます」
葵はすっと横を向いて、
「・・・バカ・・・そんな事は口に出すもんじゃない」とだけ言った。
楽星の後期の中間試験(楽星は、カトリック系の学校だからか、珍しい「2学期制」を取っていた。普通の3学期制の1学期の期末試験が中間試験で、2学期の中間試験が前期の期末試験となり、3日程の「秋休み」がある。そして、一般的な学校の2学期の期末試験が後期の中間試験となり、後期の期末試験が、普通の学校の3学期の期末試験となる)が終わり、クリスマスタブローの季節を迎える。
クリスマスタブローは楽星の、カトリックの学校としてのメインイベントとも言える。
「沈黙劇」とでも訳せばいいのだろうか。舞台のキャストは絵画の如く屹立し、朗読者が唱える聖書の言葉に合わせて、絵画の如く静かにその情景を表していく。
クリスマスタブローでは、主役はキャストではない。スタッフ、特に照明がメインキャストと言っていい。黙って、静かに聖書の朗読や聖歌に合わせて動くキャストの心情を一番に表すのが照明だからだ。音楽も重要だが、それは聖書の朗読や、中学1年生(言い忘れていたが、楽星は、中高一貫の学校だ)の合唱や、選ばれた独唱者の声の響きを重視する為、控えめになっている。
だから、照明パートが、クリスマスタブローの花形だった。
クリスマスタブローに参加する有志の殆どが照明を希望していたが、人数は限られている。それと、スポット1つでも大きな役割だ。自ずと照明パートを行える人材は限られている。
主に、演劇部員と、文化祭で演劇をしたクラスで、演出や舞台監督をした人、それも舞台を熟知している人材のみが選ばれるパートだ。
ある意味、舞台監督や演出よりも采配権は強く、照明パートの人間が舞台監督に指示するのもおかしくない、そんな舞台だった。
勿論、靖男も照明パートだ。
去年は3博士のキャストを務めながら、照明の補助も行っていた。今年は、パートリーダーから、歴代初めて「フリーパート」という役割を任じられた。
普通、メインならメイン、各部署のスポットならそれを行うのが役割だ。だが「フリーパート」には、与えられた部署はない。兎に角、「全体を見て、何か改善出来る場所を探して提言したり、全体のフォローをする」、言ってみれば、パートリーダーが統括する中、その機動部隊みたいな役割だ。
何も扱う機材は与えられていない。ただ動き回って、よりよくする方策を練り、実行する事が仕事だ。他のメンバーは少なくとも最低限の目標があり、それをクリアして+αを目指せばいい。だが、「フリーパート」には何もない。0からの出発であり、何かしなければ成果にならず、その何かも効果がなければマイナスになる。まぁ、無難という言葉は似つかわしくない、勝ちを目指す為に賭ける、博打みたいな立場だと言える。
「ごめん、試験の間も会えなかったけど、もう暫くタブローに専念させて下さい」
靖男は、試験期間明けに久し振りで会った葵に頭を下げた。
「まぁ・・・仕方ないな」葵の通う平女もカトリック系の学校だから、クリスマスタブローが楽星の生徒にとって、そしてその演劇部員である城くんにとって重要なイベントである事は承知している。
「イブはそうであろうが、クリスマスはどうなのだ?」
「その流れで・・・多分・・・」
「まぁ、そうなんであろうな。なんとなくそう思った」
「すみません」
「別に・・・付き合っている訳ではないし、それに、そういう男同士の付き合い、嫌いではない」
「お友達」になって3ヶ月近くが過ぎ、葵は少しはクリスマスというイベントに期待しなかった訳ではない。だが、楽星のクリスマスタブローは知っている。参加している人達が真剣なのも知っている。
「そうだ、大晦日に2年参りでもしよう。八坂神社でをけら参りでもどうだ?それならお前の親も許してくれるだろう」
すまなさそうにしている靖男に、葵は優しく声をかけた。
1987年もはや2ヶ月が過ぎた。
「お前は馬鹿か!」葵は思わず怒鳴ってしまった。
「いやぁ・・・思っていたより、雪はそれほどじゃなかったんですが、風が強くて・・・でも、食料は余分に持っていましたし、水は周りに雪があるんでそれほど心配はしていませんでしたが・・・」靖男の歯切れは悪い。
年が明けた2月の中旬、靖男は山岳部のメンバー(と言っても、同級生3人とだが)で、比良山系の武奈ヶ岳に登った。湖西は真冬でもそれほど雪が多い地域ではないが、それでも山頂まで登ると日本海からの風がもろに吹き付け、吹雪になる事がある。
天気予報と睨めっこした結果登ったのだが、低気圧の居心地がよかったのだろうか、思っていたよりも居座ってしまい、本来なら月曜日の祝日も含んだ3連休で、余裕をみて2泊3日の予定だったのが、4泊5日となってしまったのだ。
「まぁ、降りろって言われれば降りれたんですが・・どうせ普段から歩きなれている道中ですし、比良山って転がり落ちれば琵琶湖なんで、どっか適当な街に降りれたんです」靖男は、なんとか言い訳をひねり出そうとしていた。
「だからと言ってだ、学校には無許可だわ、親にもどこの山に登るか言ってないわ・・・そんな馬鹿な行動があるか!」
「・・・一応、比良山に登るとは伝えたんですが・・・」
「比良山といっても西から東まで随分あるではないか!もう1日下山しなければ、山岳救助隊が出るところだったらしいんだぞ!」
「それは聞きました。学校でもこっぴどく怒られました・・・でも、楽しかったですよ。新雪を転がり回ったり、雪合戦したり、テントの中でトランプしたりして」大した事がなかったように、笑い話みたいに言ってみる。
「城!」
呼び捨てにされたのは久し振りだった。
「はい!」
「お前は・・・私が火曜日、ずっと予備校でお前を待っていた事が分かってないのか?金曜日に『今度、山行ってくるわ』なんて気楽に言った、お前の言葉がその間、ずっと頭の中を巡っていた事が分からぬのか?・・・心配にならぬと思うのか!」
「・・・すみません」その言葉しか出て来ない。
「そして・・・今日、こうして会うまで、そんな気持ちを、お前に伝えられない私の気持ちが分からぬか?バカかお前は!」
頭を下げて、葵さんの怒りが収まるのを待っていた靖男には、声色が変わったのが分かった。震えて、振り絞るような声になっていた。
靖男は顔を上げて、葵さんを見た。手を固く握って、真っ赤になった眼でじっとこちらを見詰めていた。
「・・・ごめん・・・」それしか言葉はなかった。
お互いの家庭の事情もあり、電話番号の交換もしていなかった。
お互い、こういう時の為、連絡先を知りたいとも思った。
でも、こういう連絡こそ、まだ不安に思っているお互いの繋がり露呈してしまう切っ掛けになる事もお互い承知していた。
だから、お互い、それ以上の繋がりの方法を求めていた筈なのに、予備校での、週2回の逢瀬で我慢して、それ以上の繋がり方を、お互い口に出さなかった。出せなかった。
それは、より大きな繋がりを求めて糸電話の紐を太くしたら、逆にお互いの声が低くくぐもってしまい聞き取れなくなる、そんな関係だったのかもしれない。
「・・・ほら」ようやく気持ちが収まった葵は、鞄から小さな包みを取り出した。
「火曜日に渡しても1日遅れだったが、4日遅れだ。・・・本当なら捨てる気持ちでもいたが、お前が謝ったからな・・・」語尾は聞き取りにくい。
「・・・勿体ないから、くれてやる・・・」
差し出された小さな袋は、こう言っては悪いが、葵さんにしては可愛らしいラッピングがされていた。
この前の月曜日は、ヴァレンタインデーだった。