初日の終了
食後、俺と卯月がくつろいでいるリビングに、台所で食器等を洗っている春侑の鼻歌が流れる。
俺もやるといったが、自分に任せて欲しいと押し切られ、春侑は一人で洗っているのだが、やはり落ち着かない。
モヤモヤした気持ちを晴らすために、床に座っている俺の体を背もたれにして座っている卯月の頭を撫でる。すると、卯月は一層体重を俺にかけてきた。だが、あまり重くはない。
「そういえば、風呂入らないとな」
髪を撫でていてふとそのことを思い出し、口に出す。すると、卯月は体をピクっとさせた。台所からはガタンというシルクに何かを落としたような音がした。
「あ、あの、わたし、今の時代のお風呂というものをよく知らなくて……誰か、わたしと一緒に入ってほしい、ですっ」
卯月は体をよじらせながら、チラチラと俺の顔を見つつ言う。
「それだったら、私と一緒に入ろ、つきちゃん!」
台所から飛ぶように出てきた春侑は、早口でそう言った。
「わ、わたし、でも……」
「そうだな。春侑、頼めるか?」
「うん、任せてよ! それじゃ、つきちゃん、私と一緒に入ろう!」
「えっ……はい、ですっ」
春侑は卯月の腕を掴み、すごい勢いでうちの風呂場に向かう。
「俺の部屋の風呂に入るのかよ……」
危機感というものがないのだろうか。自分は信用はされているのだろうか。それとも、そういう意識をされていないのだろうか。少し気になるが、聞くのはよしておく。
そういえば咄嗟に風呂場へ向かったが、食器は全部洗い終わったのだろうか。
台所へ向かうと、泡がついた食器がまだ少し残っていた。つまり、まだ途中だったわけだ。
俺はため息をひとつついて、残りの食器洗いを継いでやった。
食器を洗い終え、リビングへ向かうと、床に落ちている物に気づく。春侑が付けていた首輪だ。それを拾い上げ、床に座り、まじまじと観察する。
「見た目は普通、だよな……」
市販で売っているものとまったく変わらない首輪。しかし、これには卯月曰く姿を動物に変える力があるそうだ。信じがたいが、実際にその様子を見たので信じるしかない。
適当に手探ってみるが、何の変化も起きず、やはり普通の首輪にしか思えない。
「そうだ。付けたら効果が発動するのかも」
卯月がこれを装着した瞬間、体が小さくなり、ウサギの姿になったのを思い出し、自分の首に回してみる。そういえばウサギ姿の卯月に、この首輪はピッタリなサイズになっていた。しかし今は人間の首を余裕で回る大きさになっている。やはり普通じゃないなと思いながら、俺は首裏で首輪をカチッと付ける。
「……何にも、起きないな」
自分の体のどこにも異変を感じない。どういうことだろう。
「おっと、とりあえずこれを外すか……」
「ねえ、いっちゃん。卯月ちゃんの着替えだけど……えっ」
「……あっ」
首輪を外そうと手を首裏に回したその時、上着を脱いで、ところどころ濡れたカッターを一枚に制服のスカートといった姿の春侑が風呂場から出てきて、目が合った。そして、急激に俺の体温がサーッと下がった。
「いや、うん……いっちゃんがペットを溺愛しているのは理解していたつもりだけど、自分自身をペットにするとは思ってなかったよ……ごめん……」
「違うから! 別に自分をペットにしようと思って、首輪をつけたわけじゃないから! それと、そのごめんって何に対して!?」
少しずつ風呂場へ身を隠していく春侑に、俺は手を伸ばして抗議する。
すると卯月が「どうしました?」と言いながら顔だけ出してきた。白くて綺麗な腕が見える。体にはバスタオルでも巻いているのだろうか。卯月は俺を見て、目を見開く。
「い、良辻さんがペットっていうのも……いい、ですっ。わたし、一生愛しますぅ!」
「あーもう、とにかく一旦落ち着いて! えっと……はい。悪いけど、今日は俺のシャツで我慢してくれる? 下着はこれに入ってるから」
タンスから自分のシャツを一枚取り出し、下着が入ったコンビニ袋と一緒に春侑に渡す。
「……ねえ、いつまでそれしてるの?」
春侑が俺の首元を指差して言う。ハッとまだ首輪を付けていたことを思い出し、直様取り外す。
卯月は、少しもったいない事をしたという表情をして、春侑と風呂場に戻っていった。
しばらくして、ドライヤーの音が消えると同時に、風呂場からブカブカの俺のシャツを着て、下にはさっきから履いていたスカートを履いている卯月が飛び出してきた。そしてそのまま、あぐらをかいている俺のもとへ飛び込んできた。俺のあぐらの上に座り、体を俺に任せてニコッと笑顔を向けてくる。既にここは、卯月の特等席になったらしい。
丁度、卯月の頭が俺の顔の近くにきたため、シャンプーのいい匂いが鼻をくすぐる。ついつい手が伸びて、頭を撫でてやる。「んっ」と声を漏らすも、卯月はそれを許可する。
「そういえばさあ、初めて卯月のこの姿を見たとき、頭に耳が生えてなかった? ウサギみたいな感じの」
思い出すように言うと、卯月は顔を赤らめて「それは……」と答え始める。
「わ、わたし、首輪を外されたとき驚いちゃって、隠すのを忘れていたんですっ。えっと、これですよね?」
卯月がそう言うと同時に、卯月の頭から二つの耳が生えてきた。いや、生えていたというより、今まで不可視状態だったのを可視状態に変えたというべきか。しかし、ちゃんと触れて手触りもある。耳を撫でると、「あっ」と切ない声を上げて卯月は体をよじらせた。
「ご、ごめん」
「い、いえ……大丈夫、ですっ」
そういえば、動物は全般的に耳を触れることを嫌がると聞いた。少し悪いことをしたな。
「え、なになに、どういうこと!?」
少し遅れて風呂場から春侑が出てくる。濡れたところでも拭いていたのだろう。目を丸くして、卯月に近づいていく。
「うわぁ~、耳だぁ。本当につきちゃんはウサギなんだね」
「ウサギ姿見ただろ?」
「あれとはまた別の驚きだよ、これは」
うわぁうわぁと言いながら卯月の二つの耳を観察し始める。卯月は顔を真っ赤にして、遂には耳を見えなくしてしまった。
「ありゃ、消えちゃった……」
「デリカシーに欠けてるぞ」
「うぅ、ごめんね、つきちゃん。でも、いっちゃんには言われたくなーい」
その時、卯月がくすっと笑った。空気が和む。俺は首輪を持ち出し、卯月に聞く。
「なあ、卯月。俺がこれを付けても動物姿にならなかったんだが、どういうことなんだ」
「あっ、それで付けてたのか。いやぁ、私は信じてたよ。いっちゃんがそこまで変態じゃないって」
「嘘つけ。っておい、まるで俺が変態みたいじゃないか」
春侑はわざとらしく口笛を吹きながらそっぽを向いた。このリス公め。
「え、えっと、ですね。簡単に言うと、わたしはこの姿にも、ウサギの姿にもなれるんですっ。だから、わたしには効果があって、良辻さんや春侑さんには効果はないんですっ」
「へぇ~、なるほどね。そりゃ俺はなれないはずだ。でもさあ、どうしてそんな物をあの男は持ってたんだ」
「それは、わたしにも分からないですっ……。よく考えてみたら、わたし、あの人のことよく知りません……。あっ、でも、本当に良い人なんですよ。あの人、わたしの気に入る飼い主になる人を見つけるまで、ずっと協力してくれたんですっ」
「それが、いっちゃんだってことよね」
卯月は顔を赤らめて俯き、「そうですっ」と小さい声で返事をする。俺も少し気恥ずかしくなる。
「その人って、今どこにいるか分かる?」
「それも分かりません……。あの時、突然消えたのはわたしもビックリしたので……」
あの時とは、卯月を抱っこした俺を、ペットショップだった倉庫から追い出した時のことだろう。そうか、あれについては卯月も知らなかったわけか。更に謎めいていく人物だ。
「もう一度だけでもコンタクト取りてえよな」
「それだったら、てっちゃんに聞けばいいんじゃない? ほら、てっちゃん女子に人気あるから、色んな情報を知ってるんだよ。女子は情報通で、その情報が集められているのがてっちゃんなわけ」
「へぇ。でも、それだったら春侑でもいいんじゃないか?」
「いやー、私にも苦手な人ってのがいてさ、あんまり情報は集まらない方なんだ。ていうか、ほら、私いっちゃんと一緒にいることが多いからさ」
「だったら女子の方に行けばいいんじゃないか?」
「……バーカ。嫌だよーだ」
頬を膨らませてふんっと顔を背ける春侑。その姿はいじらしく、少し愛おしさを感じたが、自分に非があるようなので「ごめん」とここは謝っておく。
「……う~ん、じゃあ許してあげる代わりに、付き合ってよ。明日の放課後、買い物に!」
そう言ってニカッと笑ってみせる春侑。
許してあげる代わりに、とは上から来たなと思ったが、ここは妥協する点だと俺はわざとらしく両手を挙げて「わかったよ」と言い、ため息をひとつついてかぶりを振る。
「だったら、卯月の服を買いに行こう。いいだろ?」
「え、待って。それだったら、明後日の土曜日に行こうよ! 一日がかりでさ、町に出ようよ」
「ん、そうするか。卯月もそれでいい?」
「む、むしろ、それはわたしのセリフ、ですっ。いいんですか? わたしに服を買ってくださるなんて……」
「いいんだよ。……うん、気にするな」
普段からあまり使っていないため、仕送り金の内の小遣い分は溜まりに溜まっている。その額を思い出しながら答えると、卯月はパーッと表情を輝かせ、体の向きを変えて正面から抱きついてきた。体をこすりつけるように密着してくる。
隣から春侑の鋭い視線が突き刺さっていたが、俺は構わず愛らしい卯月の頭を撫でてやった。
さすがにその姿じゃ寝にくいだろうと、春侑は自室に一旦戻って自分の寝巻きを持ってきた。しかし、卯月は俺のシャツを脱ごうとはしなかった。固い意志で春侑の厚意を断り、結局、下だけ履き替えた。
それからしばらく談笑していると、卯月は寝息を立てて寝始めた。そのため、春侑は自室へと戻っていった。その際に「絶対に何もしちゃダメだよ」と釘を刺された。まだ俺の事をアニコンだとかペトコンだとか思っているのだろうか。ロリコンでは断じてない。
布団を敷き、そこに卯月を寝かせて、俺は風呂に入った。誰かが入ったあとの風呂に入るという、自分にとっては稀な体験をした。
そういえば、春侑はあの時卯月を洗っただけで、春侑自身は入っていなかったらしい。やけに上がるのが早かったはずだ。そのおかげで、あれを見られてしまったのだが。
風呂を上がり、体を拭いて寝巻きに着替え、歯磨きなどをして玄関の鍵が閉まっているかを確認する。今日はもう疲れたので、俺も眠ることにした。
しかし、ここで問題が発生した。いつも使っている布団を卯月が使っているため、俺の布団がないのだ。もちろん、来客用などない。
ため息をひとつつき、床に薄い座布団を並べる。これでも、直に寝転ぶよりかは幾分かマシだろう。
「……んっ。良辻、さん?」
座布団を並べていると、卯月が目を覚ましたのか、瞼を擦りながら布団の中から俺の名前を呼んでくる。
「ごめん、起こしちゃったかな」
「いえ……あれ? 良辻さん、何をしているんですか?」
「お手製座布団布団ってね。布団を並べてその上で寝ようと思ってさ」
「えっ、どうして……あっ!」
自分が布団を使用していることに気づいたのか、卯月は慌てた顔で布団と俺の顔を交互に見る。
「ご、ごめんなさい。わたしが使ってたせいで……」
「ううん。いいから、使っちゃってよ」
「そ、それはダメ、ですっ! ペットであるわたしが、ご主人様である良辻さんより良い待遇なんて……」
「なら、一緒に寝る? なんて――」
「はい! よろしくお願いします、ですっ!」
目を輝かせ、即答した卯月に俺は苦笑を浮かべて「あ、うん」と返す。冗談だったのだが。
卯月は布団の端により、空いたスペースのところを一度手で叩いて「どうぞ」と控えめに言う。俺は「失礼します」と何故かかしこまって入る。
布団に入るとすぐに温もりを感じた。卯月がさっきまで寝ていたせいだろう。この温もりをどこか懐かしく感じる。
卯月も布団に潜ったことを確認し、「電気消すね」と言って手元のリモコンを操作して部屋の電気を消す。それと同時に、卯月が俺の体に抱きついてきた。場所を思い出しながら、頭を撫でてやる。
卯月はよく甘えてくる。人間である俺に。そこにおれは疑問を抱いていた。
「なあ、卯月。卯月は、人間を憎んでないのか?」
気づけば、その疑問を口にしていた。卯月は「え?」と声を漏らしてきょとんとしている。
「勝手に生み出してさ、また勝手な都合で死に追いやられてさ。憎んでもおかしくないよなあ、って」
「……憎んだりなんかしませんよ。絶対に」
小さい声だったが、確かな強い意志を感じた。
「たしかに、わたしは人間の勝手な創造物かもしれません。でも、生みの親が人間であることも変わりません。親を憎むなんて、できませんよね」
最後、冗談めかしく笑ってみせる卯月。そんな卯月を抱きしめてやると、「はう」と卯月は声を漏らす。
「ごめんな、こんなこと聞いて」
「いいえ。良辻さんには、もっとわたしのことを知ってほしいですから……」
「……うん、そうか。ありがとう」
卯月が俺の胸に頬をすり寄せてくる。それを愛おしく感じていると、しばらくしたら卯月の動きが止まった。その代わりに寝息が聞こえ始めた。
頭を撫でてやりながら、昔はあいつと一緒にこうやってひとつの布団に潜って寝ていたなと思い出す。卯月が言っていた、あいつの想いも思い出せられ、目頭が熱くなってきたが、目を固く閉じて、熱をこぼさないようにした。
しばらくして、俺も眠りに落ちていた。