ウサギは神様
意識を取り戻し、目を開けると、春侑の服を着た卯月が心配そうな表情で俺の顔を覗いていた。頬に冷たさを感じる。手をやると、絞られたタオルが乗せられていた。
「ご、ごめんね、殴っちゃって」
しゅんとした表情の春侑が謝ってきた。なるほど、このタオルは春侑がやったのか。
「なに、平気だ。いつものことだろ」
「い、いつもは違うの!」
何が、と言いたかったが、涙目の春侑の顔を見ると、それは言えず、代わりにため息をついた。
「え、えっと……話しても、いいですか?」
控えめに聞いてくる卯月に、俺が「いいよ」と返すと、小さく笑みを浮かべ、話し始めた。
「え、えっと、わたしは神様で……いえ、本当は元神様で……わ、わたし、過去から来ました!」
「え、えっと……うん」
俺は察した。この子は自分から説明するのは苦手だ。ならば、俺が質問していくという形なら大丈夫だろうか。
「ねえ、卯月ちゃん。俺が質問するから、それに答えてくれるかな?」
「は、はい! がんばりますぅ」
意気込む卯月の様子に少し笑い、俺は質問していく。
「卯月ちゃんは神様……あ、元神様なんだっけ? それって、どういう感じなの? 祀られてたわけ?」
「えっと、い、良辻さんは……あっ、良辻さんって呼んでいいですか?」
「え、うん。いいよ」
「ありがとうございます……えへへっ。えっと、ですね。良辻さんは、十二支をご存知ですか?」
「うん。ねーうしとらうーたつみー、ってやつでしょ?」
「私、その後言えないや」
たははと笑う春侑に「おいおい」と乾いた笑い声を漏らすと、「だってー」と口を尖らされた。
「それの卯――つまり、兎が、わたしなんです」
「へえ。でも、十二支って神様だっけ?」
「えっと……良辻さんは、十二支のおはなしを知っていますか?」
それを受け、俺は首をかしげる。春侑も同じくして首をかしげていて、互いに顔を見合わせる。
「ごめん、知らないや」
「私も~。というより、十二支にお話なんてあったんだ」
「おはなしというか、由来ですっ。そ、それじゃあ、お話ししますね」
えっと……っと頭の中でその話の整理をしているのか、上を見て手を動かしている。ちゃんと上手く話してくれるだろうか。
「お、お待たせしました。それでは、お話ししますね。――むかし、神様は困っていました。あっ、この神様はわたしたち十二支じゃないですっ。……こほん。そこで、神様は言いました。『来年の元旦に私のもとへ挨拶に来た十二名をリーダーとする』と。その結果の順番が、ねーうしとらうーたつみー、ですっ」
「へぇ。そんな話があったんだ。でも、それだとリーダーでしょ? 神様じゃないよね?」
「はい。神様はわたしたちをリーダーにしました。わたしたちを神様にしたのは、人なんですっ」
「人……つまり、私たちって事?」
春侑の問いに、卯月はうーんと唸る。
「正確には、昔の人たち、ですっ。わたしたちは、十二支を知ったあなたたちの信仰や想像が作り上げた存在なんですっ。……少しかわいそうな言い方をしますと、勘違いの産物なんですっ」
「へ、へぇ……なるほど、ね」
つまり、俺たちの先祖が十二支の動物たちを神様だと勘違いしたばかりに生まれてしまったのが、卯月ということか。
「わたしたちは信仰の力で生きています。でも、わたしはとある失敗をしてしまって、その信仰を失ってしまったんですっ……」
「信仰を失うとどうなるんだ?」
「……死んじゃいますぅ」
その答えに絶句する。ある意味、今までの答えで一番ショッキングな答えだ。
「わたしは信仰を失い、体に力も入らなくなって死にかけていました。でも、あの人が助けてくれたんですっ。わたし、今から約五百年前にいたんですけど、あの人が今の時間に連れてきてくれたんですっ。あの人は神さまですっ!」
頬を上気させて興奮する卯月。たしかに、卯月の言い分ではあの男はかなり良い人ではあるが、あんな浮浪人のような人が神様だとは思えない。しかし、時間跳躍なんて事をしでかすのだから、もしかしたら卯月の言う通りなのかもしれない。
「それで、どうしてつきちゃんはいっちゃんの所に転がり込んだの? その人のところにいれば安全なんじゃないの? そんな不思議な話を私たちにしてまでさ、ここに居る必要あるの?」
そんな春侑の問いに、卯月は体をビクつかせる。非難されているのだと思ったのだろうか。実際は、決してそんなことはない。春侑は卯月の事を心配しているのだ。証拠に、ビクビクする卯月の反応を見て、春侑は焦り始めた。
「卯月ちゃん。春侑は卯月ちゃんを心配してるんだよ。なあ、リス」
「えぇ、当然よ! それと、リスって言わないで!」
「……ほ、本当、ですか?」
「あぁ。本当だよ」
すると卯月の体の震えは止まり、えへへと笑顔を浮かべた。
「ご、ごめんね。私の言い方が悪かったから……」
「い、いえいえ。わたしこそ……。それで、良辻さんのそばにいたい理由ですが……良辻さんは、わたしを愛してくれる、そう直感したんですっ」
「……へ?」
「……はい?」
素っ頓狂な声を出して驚く春侑と俺を置いて、卯月は続ける。
「良辻さん……わたしを、愛してくれますか?」
「え、あ、えっと……え?」
「だ、ダメだよつきちゃん! そんな簡単に男の人に……! いっちゃんも、ちゃんと断ってよ、もうっ!」
春侑の拳が俺の肩に入る。「痛いって! ……何かワケありなんだろ?」そう言うと、卯月はコクコクと首を縦に振る。
「は、はい! えっと、ですね。信仰は、強い愛でも補えるってあの人に聞いたんですっ。だから、あの人に協力してもらって、わたし、自分を愛してくれる人を探していたんですっ。つ、つまり、人に信仰される神様から、それに似た、人に愛されるぺ、ペットにして欲しいんですっ!」
「ぺ、ペット……俺が、またペットを飼う……ぐっ」
「いっちゃん!」
動悸が激しくなり、胸がはちきれるように苦しい。頭の中には、昔飼っていた犬の走る姿が――
「あ、あああああああっ……」
「お、落ち着いて、いっちゃん! 大丈夫、大丈夫だから」
背中をさすってくれている春侑の手の温もりを感じる。暖かい。少しずつ気分が優れてくる。
卯月は俺の反応に戸惑い、頭を何度も下げてくる。
「ご、ごめんなさい! 良辻さんは、ペットに深いトラウマがあるのを知っていながら……でも、わたし……!」
「ぐっ……ま、待って……どうして、卯月ちゃんがその事を……」
たしか卯月には教えてないはず。俺の昔のことを。ペットを飼わないと決めていることを。
卯月は、はっとした顔をして焦り始める。
「え、えっと、ですね。……ごめんなさい! わ、わたし、今の時代に来る前に、今から八年前にも訪れていて……その、見ちゃったんです。良辻さんと、良辻さんのペットのわんちゃんを。……あの事故を」
「……そう、なんだ」
なるほど。だから知っていたのか。……あの事故を見られていたのか。
しかし、どうして卯月は俺に謝ったのだろうか。確かに見て欲しくないものではあるが、見た人の方が気分を害する光景だったろうに。
「わたし、戌の神様の友達がいて……だから、わんちゃんの言葉も、わかっちゃうんですっ」
「分かるって……もしかして!」
やっと落ち着いてきていた動悸が、また激しくなる。息が荒くなり、ハァハァと口で息をし、卯月の両肩を掴む。卯月の体がビクッと震えた。
「なんて……言ってた……あいつは、なんて言ってたの!?」
それを聞いてどうする気なのか。それは分からない。だが、気がつけばそんな事を聞いていた。
春侑が後ろから俺の両肩を掴み、無言のまま卯月からゆっくりと離してくる。そこでやっと、自分が卯月の両肩を掴んでいたことを自覚する。
卯月は口をパクパクさせ、言おうかどうか悩んでいるように見える。しばらくして、ひとつ頷き、決心した顔で口を開いた。
「あの子は言っていました。『僕が良辻くんを支えないと』『今日はどうやって良辻くんを笑わせようかな』『寂しくなんかないよ、良辻くん。僕がいるよ』……事故直前には、珍しい蝶々を見つけて『わぁ珍しい蝶だ! 良辻くんに見せよう、喜ぶぞ!』と……。最期は、良辻さんにお礼を言っていました……」
「あっ……あ……っ、あ、ありがとう……」
呆然と何もない床を見つめていると、床に水滴がポタッと落ちてきた。いや、これは……俺の涙か。目には大量の涙がたまり、溢れて床に落ちていく。
正直聞くのが怖かった。あいつは俺のことを憎んでいるんじゃないか、嫌っているんじゃないかと思っていた。何もない家に連れてこられ、俺の相手に強制的にさせられ、俺の愛だけを受けてきて。でも、よかった。今はそう思える。
「わたしは、それらの言葉を聞いて、確信しました。この人なら、わたしを愛してくれる。大切にしてくれるって。……お願いします、良辻さん。わたしを、ペットにしてください」
そう言って下げられた卯月の頭を、優しく撫でてやる。
「分かった。いいよ。今日から、君は俺のペットだ」
すると、卯月は顔を上げて、ぱぁと輝かせる。「はい!」と大きく返事をして、抱きついてきた。頭を撫で続けてやると、胸に頬ずりまでしてきた。
「いっちゃん。本当にいいの? 大丈夫?」
心配そうな顔で聞いてくる春侑に「あぁ」と返事する。
俺は決めた。ペットという形でサポートしてくれたあいつのおかげで今を生きている俺が、ペットという形でサポートされる卯月を全力で支えてやろうと。それが、俺なりのあいつへの恩返しだ。
あれからしばらくして、落ち着いた俺たちは、既に日が沈んでいることに気づき、急いで晩ご飯の支度に取り掛かることにした。このまま俺の部屋で作ることになった。そのため、俺と春侑は食料を取りに部屋を出ていた。
「しかし、つきちゃんは元神様で、あなたはつきちゃんをペットとして飼うなんて。未だに信じられないわ」
外の階段を下りながら言う春侑に、「俺もだよ」と笑って返す。
「ホント、つきちゃんを最初に見たときは驚いたんだから。いっちゃん、遂に人間の子を誘拐してペットにしようとしているのかーってね。もしそうだったら、いっちゃんロリコンだね。いや、実際そうか。あのデレデレっぷり」
「俺にどんだけコンプレックス纏わせてえんだよ。それと、別にデレデレしてねえよ」
「しーてーまーすー。顔がニヤけちゃってあーやらしい! ……でもね、私、ちょっと安心してるんだ。このまま、いっちゃんは別れの悲しみを避けようとして、私たちからも避けるようになって、一生独り身になろうとするんじゃないかって。でも、卯月ちゃんが変えてくれる。そんな気がするんだっ。……そのポジションを奪われちゃったのは、少し残念だけどさ」
「面倒だろ、そんなポジション」
「そんなの、自分自身が決めることだよ。……私は別に、面倒じゃないよ」
「へぇ。変わってんな」
「いっちゃんに言われたくない! ……えへへ」
そう言って笑う春侑の顔は、少し赤くなっていた。
ここのアパートの大家、すなわち春侑の両親は別にある家に住んでいるのだが、春侑は自主的にこのアパートの一室を借り、一人暮らしをしている。高校に入ってかららしい。丁度、俺がこのアパートに住むことが決まったあたりくらいからだ。
ちなみに、アパートの部屋を借りる契約の際、春侑の両親に会ったことがある。父親は坊主が印象的で、当時冬だったためとっくりを着ていて、一つ一つの挙動が遅かったため、亀みたいだなあとその時少し思った。それに対し、母親の方は凄まじかった。大きい体をしており、初対面の時の格好が、米袋を三袋ほど右肩に持ち、左手には鮭が一匹まるごと入ったバッグを持っていた。絶対口にはできないが、あの格好は熊に似ていた。そして、春侑の運動神経の良さや鋭い拳は、この母親譲りなのだろうと確信している。
その際に出された、春侑の母親が作ったというきんぴらごぼうは絶品だった。つまむだけのつもりが、気づけば皿を綺麗に空にしていた。
なので、春侑の料理の腕にも少し期待している。弁当を見た限りじゃ、酷いものは出てこないだろう。
春侑の部屋に入り、冷蔵庫から材料を取り出し、袋に入れて手渡された。中を覗くと、牛肉のミンチが入っていた。
「メニューはハンバーグだよ」
やはりかと思いながら「おぉ」と感嘆な声を漏らす。材料が余るのであれば、先生用のも作ってもらおうか。いや、少しおこがましいかな。
「多めに買ってきたから、つきちゃんの分も足りるだろうし、とらちゃんの分もあるからね。明日も渡すんでしょ?」
「うわ、助かるよ。ありがとう」
「ふふん。どういたしまして」
エスパーかと思うくらいに良いタイミングだったが、そんなわけがない。いやでも、今、実はエスパーだと言われても信じてしまうかもしれない。なにせ、元神様に会ったのだから。
部屋を出て、階段に足をかけたところで、突然、「あっ」と春侑が声を上げる。
「つきちゃんってウサギだよね? 一人にしてて大丈夫かな? ウサギって、寂しさで死んじゃうんだよね?」
「あー、あれは俗説だ。半分合ってるが、半分間違ってる。正しくは、ウサギはギリギリまで疲労を表に出さないため、ずっと傍にいて見てなくちゃいけないって事らしい。長い間離れちゃダメっていうのが、寂しくさせちゃダメって意味に取られて広まったんだろうな」
「おーっ。さすがアニコン、よく知ってるね」
「アニコン言うな。まあ、実際は受け売りなんだけどな。ほら、例のペットショップの店員、あの人に聞いたんだよ」
「……へえ。そういえば、仲良かったもんね、あの人と」
「通い詰めだからさ、自然とな。ははっ」
笑ってみせるが、春侑は少し厳しい顔をしている。「どうした?」と顔を覗くと、「なんでもないよ」と笑顔を向けられた。
「じゃあ、つきちゃんを一人にしていても大丈夫なんだね」
「あぁ。まあ、あんまり一人にするのも可哀想だがな」
自分の部屋の前に着き、ドアノブを握り、回してドアを開ける。瞬間、部屋から冷気が流れてきて、俺の体を襲う。
「寒っ!?」
「な、なにこれ!? 部屋の中に、雪が積もってる……!?」
俺の部屋の中が見事な雪景色になっていた。おかしいぞ。今は五月の中旬で、暖かくなってきて雪が降るわけがないし、まず部屋の中に降るはずがない。
体を震わせ、不可解な光景に呆然としていると、角からひょっこりと卯月が出てきた。目には涙をため、口を歪ませ、今にも泣きそうな表情をしている。トテトテとやや早歩きで俺のもとへ来て、抱きついてくる。
「……寂しかった、ですっ」
そう言って顔を俺の腹部に埋め、ぐすぐすとすすり泣く声だけが聞こえてくる。
春侑と顔を見合わせ、互いに苦笑を浮かべる。
どうやら、ウサギの神様はとても寂しがり屋なようです。それはもう、死んでしまうくらいに。