いつもの朝
設定していた時間になり、起きろと騒音を鳴らす時計を、布団の中から腕を伸ばして止める。体を起こして、大きくあくびをしながら体を伸ばす。
ぼんやりしていた頭が次第に覚醒していく。時計の針を見ると、七時を少し過ぎた時間を指していた。いつもと変わらない起床時刻だ。小学生の頃から変わらない。
部屋のど真ん中に敷いていた布団を、手馴れた手つきで畳んでいく。これも、小学生の頃から変わっていない。唯一違っていることは、ここは実家の自分の部屋ではなく、賃貸アパートの一室であること。
親が干渉しない朝というのものも、慣れたものだ。流れるように着替えを朝食、身支度を済ませ、登校する。
俺、黒柳良辻の両親は仕事の虫で、よく家を空けていた。一人っ子である自分は、小学生の内に初歩的な家事は全てできるようになった。
アパートの部屋を出て、階段を使って下におりる。おりたところで、一階の一室のドアが開いた。中から、自分と同じ学校の制服を着た少女が現れる。
「おっ。おはよーっす」
朝から元気の良い挨拶をしてくる少女の名前は北里春侑。このアパートの大家の一人娘であり、俺のクラスメイトの一人でもある。
春侑の挨拶に、軽く右手を上げて返す。すると、春侑は少しむくれた表情になる。
「もうっ。私がこんなに気持ちのいい挨拶しているんだから、いっくんもちゃんと挨拶してよ! 右手あげるだけじゃなくてさ!」
「なんで朝からそんな元気出るんだよ。普通、登校が憂鬱で元気出ねえだろ。あっ、リス公には悩みとかそういうのないか」
からかうように言うと、少し涙目になった春侑は、俺の肩を遠慮なく殴った。一気に眠気が吹っ飛ぶ。
「痛っ!? 殴るのはやめろって」
「う、うっさい! 私だって悩み事くらいあるやい! それと、リス公言うな!」
友人の家でやったゲームに、格闘系のキャラがいて、リスをモチーフにした人間の姿だった。春侑はからかわれると、よくこのように拳を振るってくるため、そのキャラを見たとき、俺の中で春侑のあだ名が決まった。また、北里春侑という名前の中に『りす』とあるのも決め手だった。
春侑はそのあだ名をあまり好ましく思っていないようだ。「名前で呼んでよ」と言われたことがあるが、今更それは少し気恥ずかしいため、申し訳ないが、本人の前ではあだ名で通している。
「そういえば、いっくん、昨日帰りが遅かったよね? 何かあったの?」
その質問を受け、俺は先ほど殴られた肩をさすりながら昨日の事を思い出す。頭の中に昨日の映像が流れ、頬が緩んでしまう。
「そうそう、昨日さ、例のペットショップに新しく犬が入ってきたんだよ。その子がさ、これまたスゲェ可愛いんだわ! 店員さんに頼んで、抱っこさせてもらったんだけどさ、これまた軽いのなんの! 手のひらに乗っかるほどの小ささでさあ、最初は震えてたんだけど、次第に慣れてきたのか震えもおさまって、俺の手の上で寝たんだぜ! その寝顔がまた可愛いくてさあ!」
「あー、はいはい。分かった。いいよ、ありがとう」
「なんだよ、もう少し話させろよ」
「嫌よ。話が終わるまでに学校に着いちゃうだろうし。……はぁ。なんで動物のことになったら、こんなに饒舌になるのかしら。あいつが考えたあだ名も、あながち間違ってないわね」
「いいや、俺は認めないね」
あいつとは、俺と春侑の共通の友人であり、クラスメイトの一人である。
ある日、あいつは俺に不名誉なあだ名を付けてきた。それは――
「よう、アニコン」
「そうそう、アニコン……は?」
「おっ。はよーっす、てっちゃん」
気づけば、俺の後ろにはイケメンが立っていた。こいつこそ、俺と春侑の共通の友人であり、俺に「アニコン」とかいう不名誉なあだ名を付けてきた張本人、大神哲だ。
「何の用だよ、大神」
「うっわ、ごめんごめん。謝るから、そんな冷たい目で見ないでくれ! オレは繊細なハートを持ったか弱きウサギなの!」
「お前がウサギ? はっ、たわけを。お前は狼だろ」
「うんうん。たしかに、てっちゃんはウサギじゃないね。狼の方がしっくりくるよ」
「うん、まあ、自分でも自分がウサギだと思ってねえんだけどな。狼、上等じゃねえか。オレは一匹狼だーい」
そう言って、大神は通学路を駆けていく。そんな大神を、すれ違う女子はポーっとした瞳で見つめる。
「あいつも朝から元気だな」
「うっ。てっちゃんと同じかぁ……」
「何だよ、嬉しくないのか? 女子って、憧れの人と自分に共通するところを見つけて喜ぶんじゃねえの?」
「そんな事はないんじゃないかな? それと、私、別にてっちゃんのこと憧れてないよ」
「そうなの? ふーん」
「ふーんって何よっ」
大神はあの容姿から、女子からかなりモテる。毎日、あいつの隣には色んな女子が立っている。そんな大神を見て、学校の男子は言った。「あいつは女を食い散らかす狼だ」と。しかし、大神はその群がる女子の誰一人にも手を出していない。俺の記憶だと、小学校の時にはそんなことはなかったはずだが。これは、うちの学校の七不思議の一つになっている。
だから、例のように、春侑も大神のことが好きなのではないかと思っていたが、そうではなかった。少し驚いたが、あまり気には留めなかった。
隣でぷんすか言っている春侑を無視しながら、教室までたどり着く。
大神は自分の席に座った状態から、首だけをこちらに向けて、ニカッと笑い「おせーぞ」と言ってくる。
一度素通りして、自分の席に荷物を置いて、席に座る。そして体を後ろに反らし、ニヤニヤとした表情を浮かべている大神を見る。
「どうだった? オレの粋な計らい!」
「なんだそれ」
「なんだって、えぇ? 春侑ちゃんとの楽しい楽しい二人っきりの登校を邪魔してはいけないと、邪魔者であったオレは即座に退散したわけだが」
「あぁ、おかげで、なんかスゲェぷんすか言われた。女子に質問しておいて、その反応はなんだーとかなんとか」
「いやー、なにしてんの?」
尻眉を下げる大神に「ほっとけ」と言い、本題に入る。
「そうだ。アニコンはやめろ」
「何でだよー。いいじゃん、アニコン! アニマル・コンプレックス! ほら、ヤギにピッタリだ!」
「ピッタリじゃねぇよ。このあだ名のせいで、この前、アニメ研究部の奴に声をかけられたんだぞ。『お主もアニメを嗜んでおられるのですかぁ!』とか鼻息荒くしてさ」
「うーん、なんだ。それはスマン」
右手を前に出して謝ってくる大神。謝っている姿もさまになっているため、少し苛立ちを覚える。
そうしている間に、春侑も自分の席に荷物を置いて、こちらにやって来た。
「ちょっと聞いてよ、てっちゃん。いっくんがさあ、私はてっちゃんに恋してると思ってたんだってさ。ありえないよね」
「あっ、なるほど。それでか。よーし、春侑ちゃん。オレと一緒にヤギを殴ろう! オレもさっきの春侑ちゃんの言葉で傷を負った」
「じゃあなんで俺を殴るんだよ!?」
「春侑ちゃん殴れるわけねえだろ。後がこええよ」
「どうして女の子だからじゃないのよ!」
大神に怒声を浴びせる春侑。しかし殴りはしない。どうも、春侑は自分だけしか殴らないようで、自分としてはその事を七不思議の一つに入れて欲しいと思っている。
「とにかく、アニコンはやめろよな」
「じゃあ、アニキチでいくか? アニマル・キチガイ」
「ますます酷くなってるじゃねえか!」
「冗談だって」
ケタケタと笑う大神の顔を見て、はぁとため息をつく。
「言っとくけどな、俺は別に動物が好きなわけじゃねえぞ。ペットが好きなんだ」
「どこか違うの?」
「違わねえだろ」
「ちげぇーよ! 町中で鳩を見かけても興奮しねえし、中学の修学旅行で奈良に行って鹿をみたときとか、俺は至って普通だったろ!?」
「そうなの?」
「あー、そういえばそうだったな。うん、そう考えると違うように思えてきた」
春侑は違うが、大神とは小学校の頃から同じだ。いわば腐れ縁だ。まあおかげで、誤解は解けそうだ。
「じゃあ、ペット・コンプレックス、ペトコンだな」
「おーっ」
「だから、それをやめろって言ってんだよ! 春侑も、おーっじゃねえって」
そうこうしている間に、HRの開始を知らせるチャイムが鳴る。それに続いて、担任の教師が教室に入ってくる。今にも閉じてしまいそうな思い瞼をこすりながら、あくびをしている。
「うーっす。それじゃあ、HR始めんぞ。えーっと、今日は……特にないな。よし、HR終わり」
いつものことながら、この適当さに俺たちは苦笑を浮かべる。
彼女の名前は風早虎子。授業は体育を受け持っており、いつもジャージ姿だ。常に眠そうな目をしており、よく目をこするため、その仕草を見た女子は「猫みたい」と言っていた。否、彼女は虎だ。なぜなら――
「お、そうだ。ヤギー、今日の昼飯はなんだー?」
「……昨晩の残り物ですが、肉とか野菜を炒めたものです」
「おっ、肉かー。よっしゃあ。……玉ねぎは入ってないよな?」
「もちろんです」
「うむ、よろしい」
そう言って、ルンルンと軽やかな足取りで教室を出ていく。
彼女はある日をきっかけに、俺の弁当をいただくようになった。なぜなら、彼女の昼食を見てしまったからだ。コンビニで買った豚の生姜焼きなどの肉類の数々。それだけが、彼女の毎日の昼食メニューだった。
そんなわけで、俺は彼女に弁当を与えている。この理不尽な採取を、虎の狩りとするか、それとも、野生本能を失くしたか弱い猫とするか。それはその人次第だろう。
「いつも大変だね、いっちゃん」
「あれから約半年。もう慣れたけどね。しかし、二年生になってもあの人が担任だとは思わなかった」
「もしかして、先生がそうなるように操作したとかな」
「そんなの……ありえなくはないわね。とらちゃんのことだし」
「あぁ」
大神は得意げな顔をして「だろー?」と言う。
「いやでも、オレは嬉しいぜ、あの人が担任で」
「あっ、それは言えてる~」
時計を見ると、一時間目の授業がもうすぐ始まる時間だったため、春侑は少し離れた自分の席に戻った。
俺はもう少し大神と談笑しながら、授業の準備をして時間を潰した。