イヌの神様
息を切らし、脚もガタガタと震え始めて、遂に体力の限界といったところで、やっと花柴は足を止めた。ゼェゼェと荒く呼吸をする俺に比べ、花柴は準備運動をしたかのように自然としている。さすが犬だ。そう口の中で呟く。
花柴の目の前には、俺が腰を下ろして休んだところからも見えた、一本の大樹と、その前に設置された祠がある。花柴が祠に手をかざす。その瞬間、祠の前の空間が歪み始めた。その歪みに突っ込まれた花柴の腕は消えている。
「特別だからな。はやく入れよ」
そう促されるままに、俺は一歩手前で立ち止まり、摩訶不思議な現象を見つめて固唾を飲み込み、えいっと体をその中に放り込んだ。
――一瞬、目眩がした。目を閉じる。しかし、頭が次第にスッキリしてくる。体も心なしか軽い気がする。
「ここが、おれの家だ」
花柴の言葉を聞いて、目を開けると、目の前には屋敷が建っていた。いわゆる武家屋敷だ。庭には柊や八手、紅葉が咲いている。
周りの景観を一通り見た直後、急に肌寒くなってきた。冬の本番ほどの寒さではないが、そうだ、十月あたりの秋から冬にかけての寒さに似ている。
身を縮こませて震えていると、そんな俺を見た花柴が「あ、そうか」と呟いて、ポンと軽く俺の背中を叩いた。するとどうだろう。さっきまでの寒さが嘘のように消え、むしろ暖かくなってきた。
「悪いな。ここは、外とは勝手が違うんだ」
そう言って、裸姿の花柴は玄関に向かう。いや、お前は寒くないのか。そう聞こうとしたが、直前にそれは愚問だと察した。おそらく、ここは永遠に十一月の気候なんだろう。そんなところに住んでいる花柴、ましてや神様だ。それに、俺にかけた、あの不思議な力もある。寒いわけが――
「へっくしゅんっ!」
「……寒いのかよ……」
「う、うっせぇ! まじないするのを忘れてただけだ!」
鼻から垂れた鼻水をズズッと吸い、少し顔を赤らめた花柴は、自身の胸をポンと叩いた。すると体の震えが止まり、歩を再開した。
花柴の後を追い、玄関に入ると、装束を纏った一人の青年が立っていた。花柴と同じ色の髪を持っており、耳も生えている。
入ってきた花柴を見た瞬間、顔を強ばらせて言った。
「おい花柴! お前、女のくせにそんな格好でいるんじゃねえよ!」
「いいじゃんか。見られて減るもんじゃねえだろ?」
「そういう問題じゃねえんだよ! 第一に、僕の目のやりどころに困る。第二に、お前の裸体を他の男に見せたくないという兄貴としての独占欲が……!」
「気持ち悪い。……はぁ。じゃあ、おれはちょっと着替えてくる」
そう言って、目の前の広間を通って、奥の部屋へ向かう花柴の背中に「わかった」と返す。
花柴の兄であろう青年と二人っきりになってしまった。花柴の兄は、俺を見るとにっこりと笑顔を浮かべた。
「やあ、先程ぶりだね」
「えっ……あっ、もしかして、最初に山の麓で見た犬って」
「そう、あれは僕だ。君が抱えているそいつ……卯の神の卯月だな? いや、元か。まあ、そいつを見てな、急いで花柴に伝えに行ったら、あいつ家を飛び出していったんだぜ。情けねえが、僕は少しばかりそいつに嫉妬してしまったぜ」
「は、はぁ」
なんだろう。十二支の神様というのは、卯月といい虎子といい、そして花柴兄妹といい、個人による差はあっても大概がフレンドリーというか、人間に対して同等の立ち位置を示している。それはあれだろうか、人間が神様(自分たち)を作ったという事が、関係しているのだろうか。
「まあ、ここではなんだ。入れよ」
「は、はい。お邪魔します」
靴を脱いで、上がり、促されるままに少し奥にある部屋へ入った。「俺はここまでだ」と、花柴の兄とは入る前に別れた。そこはいわゆる座敷で、また花柴と同じ色の髪を持ち、耳を生やし、巫女服を来た女性が座っていた。俺を見ると、優しく微笑んだ。
「よお来たのう。まあ、そこらに座りんしゃい」
「は、はい。失礼します」
目の前の女性から目を逸らさずに、ゆっくりとその場に座る。畳が少し沈むのを感じる。
「どうも、現在、この地の戌の神であり、花柴と秋太の母である、長月じゃ。珍しい格好をしとるけど、おぬし、この時代のもんじゃないな?」
「は、はい。未来から、来ました」
そういえば、俺のこの格好は、この時代にとっては珍しいものなんだと思い知らされる。この時代の人に会うことがなくて良かった。
「ほう、やっぱりのぉ。しかしよ、何故におぬし、元・卯の神であるその子を抱いとるんじゃ?」
「俺は、卯月の飼い主で……神様が生きていく糧となる人間の信仰の代わりに、愛を注いで、卯月を生き延びさせているんです」
「……ほう。そげなことがあるんか? うちも長い間生きてきたが、そげなのは初耳じゃ。誰から聞いたん?」
「俺より未来から来たという人が言っていました。そして、その人に卯月を渡されたんです」
すると長月さんは「でもおかしいのぉ」と、俺の腕の中で眠る卯月を見て言う。
「うちが見た感じ、その子が元気とは言えんのんじゃけど」
「はい……最初は元気だったんですが、突然苦しみ始めたかと思うと人間の姿からこの姿に変わって……」
「ふむ……精神が安定しとらんのんじゃな。体力も低下しとる。ふむ、ちょい待ち」
そう言うと立ち上がって、引き出しから、何か丸薬のようなものを取り出して、俺の前に差し出した。
「これをこの子に食わせてみい。楽になるはずじゃ」
「はい。……でも、今の状態の卯月に飲み込ますには、大きいですよ。それに、この姿だと食べさせ辛い」
「何を言っとるんじゃ。おぬしが細かく噛み砕いて、それをあげるんじゃ。姿は……任せい」
長月さんが、ウサギ姿の卯月の額を撫でた。すると、卯月の体は光り始めて、人間の姿になった。意識していないからか、ウサギの耳が出ている。さっきとは違って、苦しさが顔に出ていてわかりやすく、ひしひしと伝わってくる。思わず目を背けたくなる。
「ほれ、これでいけるじゃろ。けっこう無理させたけぇ、はよしぃよ」
「……分かりました」
丸薬を受け取り、端を噛み切る。一瞬で口の中に苦味が広がった。表情を苦くしながら、小さくしたそれを手で持って、卯月の口の前に持っていく。
「ほら、卯月。これを食べてくれ」
小さくした丸薬を卯月の小さい唇に当てる。すると、卯月は小さく口を開けて、それを入れさせてくれた。
「ほれ、水じゃ」
水が入ったお椀を受け取り、縁を卯月の口に当てて、水を流し込む。水は多少溢れながらも卯月の口の中に入り、卯月は喉を鳴らした。
やったと小さく呟いて、また飲ませようと丸薬を自分の口に持っていく。すると、卯月が「んっ……うぅ……」と魘されるような声を漏らしながら、ゆっくりと目を開けた。
「卯月!」
名前を叫びながら、卯月の顔を覗く。目が合うと、卯月はにっこりと笑って「大丈夫、ですっ」とか細い声で言った。
俺は急いで丸薬を小さくして、卯月の口の前に差し出した。卯月は、俺が噛んで小さくした丸薬を見て、頬を赤らめ、えいっとそれを口にした。水を口の中に含ませて、飲み込ます。
「大丈夫か、卯月」
「は、はいっ……でもなんだか、頭がぽわぽわとしますっ……」
「なに、大丈夫なのかそれは!?」
「大丈夫じゃろ」
「……あっ、長月さん……もしかして、長月さんが……」
「礼はええけん。卯月は、花柴と仲ようしてくれとるけぇのぉ。それに、序列は卯の神であるそちのほうが上じゃろ? 下であるうちが、卯の神に何かをするっちゅうのは当たり前じゃろ」
「そんな……でも、わたし、もう……」
「ええけん。ほんまに、ええけん」
優しく微笑む長月さんに、卯月は微笑みを返した。
「――卯月! 大丈夫か!?」
バンッと勢いよく襖を開けて、入ってきたのは巫女服姿の花柴だった。入るが否や卯月のもとに駆け寄り、卯月の手を取った。
「あれ? いつの間にこの姿になってんだ? てか卯月! なんで裸なんだよ! ダメだろ、こいつの前でそんな姿!」
お前が言うのか、という言葉が出そうだったが飲み込んだ。
「うん……もう、大丈夫……心配してくれてありがとね、花柴ちゃん」
「へ、へっ、当たり前じゃないか。おれたち親友だろ?」
「うんっ」
目の前で、獣の耳を生やした二人の少女の麗しき友情劇が繰り広げられる中、俺の視界には、恐ろしい目をした一人の女性が映っていた。
「――花柴! あんた、なんちゅう立ち振舞いしとるんじゃ! もっと女らしくせえって、いっつも言っとるじゃろ!?」
「な、なんだよ母上。いいじゃん、別に……」
「またあんたはそげなこと言って! ……はぁ。とりあえず今は、卯月に服を着せんにゃあの。花柴、卯月を着替えさせてやりんさい」
「あ、あぁ。分かった。ほら、行こうぜ、卯月」
「う、うん……」
どこか悲しげな目で俺を見ながら、花柴に連れられて退出する卯月。
長月さんは大きく「はぁ」とため息をついて、「まったくあの子は……」と愚痴をこぼす。
「あの、卯月を助けてくださり、ありがとうございました」
頭を下げて礼を言うと、長月さんは「ええんよ」と言い、「それに」と続いた。
「まだ完璧に治ったわけじゃないんよ、あれ。今は一時的に良くなってるだけで、少し経ったらまた苦しゅうなるじゃろ」
「そ、そんな……。どうにか、できないんですか」
「まぁ待ち。こういうのには順序というものがあるんじゃ。……おぬしは、どうして卯月が信仰を受けなくなったのか、知っとんか?」
その問いを受けて、俺はかぶりを振った。すると長月さんは「まずはそこからかの」と言って、座を直し、話し始めた――




