おかえり
目を開けると、目の前には綺麗な青空が広がっていた。……いや待て。暗くなってきていたはずなのに、何故こうも明るいのだ。俺は何時間も意識を失っていたのだろうか。
腹の上で寝ていた卯月を抱えて、立ち上がり、周りを見渡す。ここは、あのガレージの中ではなかった。いや、俺の住んでいる町ではなかった。家や店などが一切ない。遠くに見えるはずの、高層ビルも一本も見当たらない。ただただ自然が広がっているだけだ。
隣に立ち、遠くを眺める男に問う。
「俺は、どれくらい意識を失っていたんだ。俺をどこに連れてきたんだ、ここはどこだ」
「そうだな、一時間弱くらいだろうか。だが、それは然程気にすることはない。――ここは五百年前の日本だ。正確には安芸……お前の時代で言う、広島県だ」
「五百年前の……日本……!? 広島だと!? それは、あれか? タイムスリップしたってわけか? それも広島へワープしたと?」
その問いに、男は短く「あぁ」とだけ答え、歩き始めた。
「兎の神は東に祀られているが、ここ、西北西に位置する安芸には戌の神が祀られている。お前は、そいつらに会え」
そう言って、また腕時計を覗き込む男に、俺は訊ねた。
「待て! お前は何者だ? どうして、十二支の神の存在を知っていて、卯月を助けたんだ」
すると男は顔を上げて、出会った頃から一切変えない無表情で答えた。
「俺は、お前より未来の時代の人間だ。そして、未来を救うためにやって来た、使者だ」
それだけ答えると、男は腕時計を覗き込み、右手でじじっと操作したかと思うと、その場から一瞬にして消え去った。
おおかた、あの腕時計が俗に言うタイムマシンなのだろう。この時代に来る際も、あいつは腕時計を弄っていた。
……待てよ。ということは、あれを持っているあの男なくして、俺は元の時代に帰れないということに……。
「……はぁ。でも、戌の神に会えば、卯月を助けてくれるんだよな」
元の時代に戻れようと、するべきことは変わらない。今は、卯月を助けなければ。そのためにも、俺は戌の神に会う!
あれからどれくらい歩いただろうか。なんの根拠もなしに歩き続けてきたために、戌の神らしきものに一度も会っていない。第一、戌の神の居場所すら明確に分かっていないのだ。会えるはずがない。
遠くに、歴史の教科書で見たような、土を固められて作られた壁に、板を重ねた上に重石を乗せた屋根でできた家がズラーッと並んでいるのが見える。人影は見えないが、おそらく、あれは村だろう。
一休みしようと、何もない草原の上に座り込む。今更ながらチョーカーを取って、自分のズボンのポケットに突っ込み、ウサギ姿の卯月を撫でてやる。やはりまだ冷たい。いや、どんどん冷たくなってきている気がする。
キーッキーッとキジのような鳥の鳴き声が聞こえる。ふと声の聞こえる方を見ると、そこには山があった。
山か。神を祀る祠とかありそうだな、と考えていると、山の麓にある一つの影が俺の目に飛び込んできた。確認するよう、何度も瞬きをして、それを見る。俺が見ているのに気づいたのか、それは前足と後ろ足で地面を蹴って、尻尾を揺らしながら、山の奥に消えていった。
「やっぱり犬だ!」
俺は叫んで、勢いよく立ち上がり、山に向かった。
まだ完全に休めていなかったのか、すぐに息が切れ始めてしまう。足も震えてきた。しかし、強引に足を前へ進ませる。
山の麓近くまで来たところで、先ほど見たのより一回り小さな犬が、山に少し入ったところで、俺を待っているかのように立っていた。たしかあの犬種は柴犬だ。
俺は唾を呑み込み、ゆっくりとその犬に近づいていく。俺の体が完全に山に入った、その時――目の前の犬は俺に向かって飛びかかってきた。
「何をするんだ!」
卯月を腕の中に隠して、飛びかかってくる犬から守ろうとする。しかし、犬は俺の言葉を聞いてピタッと止まった。そして――体を光らせて、人間の姿に変身した。そう、まるで卯月のように。
「何をするんだって、こっちのセリフだ!」
前まで一匹の犬が位置していた場所に立つ、薄い茶髪を持ち、犬のような耳を頭部から生やした一人の少女は、俺に向かってそう吠えた。見た感じ、歳は卯月と変わらないくらいだ。
「お前、卯月をどうする気なんだ! 離せ!」
「君、卯月を知っているのか!?」
「知っているもなにも、おれと卯月は親友だ!」
自分のことを『おれ』と呼ぶ、少し男勝りな性格のこの少女。しかし、戌の神に違いないはず。
そういえば、卯月には戌の神様の友達がいると言っていた。もしかすると、この少女がそれなのかもしれない。という事は、この少女は本当に俺たちの味方ということだ。
「とにかく言えっ! 言えってんだ! 卯月をどうする気だ!? お前はどうしてここに来たんだ!」
「俺は……卯月を助けるために、ここへやって来た。そして、君に会うためにだ」
「お、おれに!? は、はぁ? わけわかんねぇ。……でも、卯月を助けるってのは本当なんだろうな? 今、卯月が苦しんでいるのはお前のせいじゃないのか?」
「原因は、詳しくは俺には分からない……だけど、助ける方法は知っている。君、戌の神様だろ? 戌の神様を尋ねれば、卯月は助かると聞いたんだ」
それを聞いて、少女は「あっ」と何かに気づいたように声を漏らし、踵を返して、山の奥に走り始めた。途中まで行って、振り向いて俺に言う。
「おれの名前は花柴だ! 卯月のためだ、ついてこい!」
そう言って、また山奥に向かって走り出した少女――花柴の背中に向かって俺は叫んだ。
「俺の名前は良辻だ! 頼むぞ、花柴!」
花柴は返事の代わりに右手を上げて、振り向かずに軽い足さばきで険しい山奥に入っていく。その後を俺は、花柴の影を見失わないように、四苦八苦と整地されていない山道を踏みしめて、ついて行った。




