ただいまといってきます
右手に卯月、左手に春侑といった両手に華の状態で、俺はアパートに帰還した。
春侑は未だにボーッとしていて、薄く光る星々が浮かぶ夜空を眺めている。
俺は春侑と繋いでいる手を離し、正面を向いていった。
「なあ、春侑」
「えっ? な、なに? ……ん? え、今、私の名前……」
言われて俺もはっと気がつく。無意識に呼んでいたようだ。少し気恥かしさを感じたが、これは絶対に伝えたいことなので、今はその恥じらいを押さえ込んだ。
「大神の件、ビックリしたな」
「……うん。まだ信じ難いけど、でもなんか、てっちゃんらしいなって感じはあるんだよね」
そう言って苦笑を浮かべる春侑。やはり、どこか、大神を避けようとしている感じがする。俺は一つ深呼吸をして、言う。
「あいつと、今後も変わらずに付き合って欲しい。あいつ、あんなに女性を毛嫌っているのに、別に未熟な体じゃない春侑とは仲がイイだろ。それって、春侑を認めてる……って言ったら、あいつは何様なんだって感じだな……そうだ、春侑と仲良くしていきたいって思っていると思うんだ。だから、お願いだ。あいつの一人の親友として、頼む」
俺の言葉を受けて、春侑は少し考え込む素振りをする。しばらくして、「もう」と笑顔を浮かべた。
「いっちゃんに愛されてるね、てっちゃん。ちょっと妬けちゃうかも」
「な、なんだよ、それ。別に愛してないっつの」
「ふふっ。……うん、分かった。そうだよね。てっちゃんが直接、私になにか酷いことしたわけじゃないしね」
「今後も無いだろ。その体だし」
「うわぁ、いっちゃん、それ、セクハラだよー」
「え、いや、これはなんていうか……」
狼狽える俺を見て、春侑はひと笑いし、ひとつ深呼吸して、聞いてきた。
「ねえ、いっちゃん。いっちゃんは、ロリコンさん?」
「いや、違うぞ」
「ふふっ。そっかそっかー」
春侑は嬉しそうに舞いながら、自室の前へ駆けていった。
「今日はありがとねっ。ばいばい、ペトコンさん!」
「ちょっ、それも違うっつの!」
俺の声を最後まで聞かずして、春侑はドアを閉めた。俺は、はぁとため息を一つつく。しかし、表情は晴れていた。
さっきまで蚊帳の外にしてしまっていた卯月を見る。卯月は今にも糸が切れそうな感じで、何度もコクリコクリと俺に寄りかかろうとしている。
「帰ろっか」
「……は、はい……」
卯月のか細い返事を聞いて、繋いだ手を握る力を強くして、俺は自室へ向かった。
鍵を開けて、部屋に入った途端に、卯月は俺の隣から正面に回り、抱きついてきた。手放したドアが後ろで勝手に閉まる。
卯月はぎゅっと力強く抱きついてきて、俺の腹あたりに頬ずりしている。すこしこそばゆい。
頭に手を置き、優しく撫でてやる。すると、さらに抱擁の力が強くなってきた。一体どうしたのだろう。
しばらくそのままの状態で過ごし、卯月は名残惜しそうに離れて、言う。
「……今日は、ありがとうございました。このような服も買って貰って……わたし、嬉しい、ですっ」
「いいんだよ。卯月は俺のペットだろ?」
「うぅ……それでも、ですっ」
必死な顔でお礼を言ってくる卯月の頭を撫でてやり、「卯月は偉いなぁ」と褒めてやる。「えへへ」と卯月ははにかむ。
「そんな卯月に、はいこれ。春侑に渡したやつを買いに行った時に、一緒に買ったんだ」
そう言って袋から小包を取り出し、卯月に渡す。卯月はきょとんとした顔で、小包の中を見る。その瞬間、パァーッと表情を輝かせた。
「こ、これっ! あ、ありがとうごいますっ」
「うん」
卯月は目を輝かせて、手にとったチョーカーをまじまじと見る。どうやらこれでも気に入ってくれたようだ。よかった。
「ここにずっといるのもなんだし、上がろうか」
「は、はいっ。……でも、その前に」
卯月は躊躇いながら、チョーカーを俺の前に差し出した。なんだ、本当は気に入らなかったのだろうか。しかし、それは違った。卯月は顔を赤くして、言う。
「あの、良辻さん……わたしの首に、これを着けてくれませんか……?」
どうやらそういうことらしい。俺は迷うことなく「いいよ」と答え、チョーカーを受け取り、正面に立っている卯月の首の後ろに手を回して、留め具を留めて、チョーカーを着けてやった。
「あ、ありがとうございますっ」
「うん。喜んでくれてなによりだよ。それじゃ、上がろうか」
「はい……本当に……あり……」
フラフラとよろめいたかと思うと、卯月は俺にもたれかかるように倒れた。
「う、卯月!?」
倒れてきた卯月を抱え込み、顔を覗いて、俺はぎょっとした。卯月の顔が真っ青だった。額に手を当てると、雪のように冷たかった。
「大丈夫か、卯月!」
「うぅっ……良辻、さん……わたし……」
卯月の震えた手が、俺に助けを請うように伸ばされる。それを掴もうとした瞬間、卯月の腕が、体全体が光りだし――ウサギの姿になった。
「ど、どうして……っ」
服の中でうずくまり、さきほどかけたチョーカーに潜った状態で、ブルブル震えているウサギ姿の卯月をチョーカーごと抱き上げ、ドアを打ち破るように開けて外に出る。カンカンと大きい音を鳴らしながら階段を下りて、俺は夜の道に向かって走った。
しばらく走り続けて、息が切れ始める。体温も高くなってきた。すると、一層卯月の冷たさが肌に感じる。俺の頭は冷静でいられなかった。
卯月の場合、人間の病院に行けばいいのだろうか。しかし、今の姿はウサギだ。ならば、動物病院だろうか。
行く先を走りながら考える。そのため、今自分がどこを走っているのか分からない。
それからまた、しばらく走り続けて、遂に体力が尽きてしまった。震える脚で、電灯に照らされた夜道の真ん中に立ち止まる。
周りを見渡し、自分の現在位置を確認した。無意識のうちに、ロアの近くまで来ていた。体に染み付いた癖のせいだろうか。
鹿子さんに診てもらおうか。いや、ダメだ。鹿子さんはブリーダーであって獣医ではない。診せたところで、どっちみち病院へ行くのだ。
しかし、今俺が取るべき手段が分からない。そうなってくると、そういう身近な人を頼りにしたくなるのが人間の性だ。
この近くに、病院はなかったはずだ。もう、鹿子さんを頼るしか……この近くに、何かがあった気がする。それも、卯月にかなり関係した何かが――
バッとロアがある近くの路地裏を見る。路地裏に入る辺りに、薄らと光が見える。奥から漏れている光だ。
「まさか……」
唾を呑み込み、ゆっくりと路地裏へ近づく。確かに光は奥から漏れているものだった。
俺は確信し、路地裏の奥へ向かって走り出した。だんだん光が強くなっていく。――その光は、錆びたガレージの中から出ていた。
「は、ははっ……」
無意識に笑い声が漏れた。ガレージの中に入ると、卯月が『あの人』と呼ぶ、俺に卯月を授けた、例の男が椅子に座り、俺を待っていたかのようにこちらを見ていた。
「来たか」
男はそう呟き、椅子から立ち上がって、俺に近づいてきた。男から謎の威圧感を感じ、圧され気味になった体を起こして、言う。
「あんたには聞きたいことがたくさんあるが、今は一つだけでいい。卯月を助けるにはどうすればいいんだ!?」
男は俺の目の前に立ち、ウサギ姿の卯月を見て「精神が不安定だ。姿の自由が利かないのか」と呟き、自身の右腕に着けてある腕時計を覗き込んだ。
「答えてくれよ! 卯月を助けたいんだよ!」
「分かっている。俺も、そいつには死なれたら困るからな」
死なれたら……!? 卯月は今、そんなに危険な状態だというのか。血の気がサーッと引く。吐き気もしてきた。体全体がダルい。なんだ、これは……。
どっと重くなり、動かなくなった俺の体に、男は触れて、腕時計を見ながら言う。
「飛ぶぞ」
――飛ぶってなんだ。そう言葉にしようする前に、変化が訪れた。目に映る周りのものがぐにゃぐにゃと揺れ始めた。頭の中もぐるぐると回っている感覚に襲われる。声もうまく出せない。
俺は薄れゆく意識の中で、必死に卯月を抱きしめた――。




