Part.92 永い眠りから目覚めて……!
リーシュ・クライヌは、見知らぬ場所で目を覚ました。
何か、遠い夢を見ていたような気がする。上体を起こして辺りを見回すと、普段とは違う光景が、視界に飛び込んで来た。
「…………グレン様?」
自分は、何をしていたのだろうか。随分と長い間、眠らされていたような気がする――……奇妙にも、そのような感覚がリーシュにはあった。最後に話したヴィティアとの記憶が、遥か遠い昔のように感じられた。そこから先は悠久の時を微睡んだ世界の中で通り過ぎて来たかのようで、最後の記憶さえ何処かぼやけてしまっていて、明瞭には思い出すことが出来なかった。
――――ここは、どこだろう。
リーシュは辺りを見回した。少し埃が積もっている以外は、別段何も変わらない、普通の屋敷だ。城か、館か――……民家のようではない。部屋の中にはベッドと美しい装飾の施された丸テーブルがある位で、何も無い。
丁重に扱われていたのか、リーシュの身体には傷一つ無かった。まるで赤子のように、産まれたままの姿に綺麗なローブを一枚羽織っただけの、不思議な状態。
夜なのだろうか。カーテンの向こう側は暗く、陽の光は当たっていない。ベッドから身を乗り出して外の様子を確認すると、紫色の雲が遥か遠くに薄っすらと見えるだけだ。
それでも、光の当たり方がどこか、セントラル・シティとは決定的に違うような気がする。
リーシュはカーテンをそっと元に戻し、ベッドから出た。立ち上がると、自分が身に着けているモノの頼りなさに、僅かな羞恥心が起こる。しかし、この場には誰も居ない。リーシュは意を決して、扉を開いた。
扉の向こうには、明かりも灯っていない、どこまでも暗い闇に包まれた廊下だけが続いている。
声を出そうとして、しかしリーシュは踏み止まった。少なくとも視界に映る限りでは、そこに人はいない――……だが、その先に誰かが居るような気がする。
呼んでも来るとは思えない。……やはり、ここは自分から行くしかないのだろう。
リーシュは壁伝いに手を添えながら、暗い廊下を歩いた。裸足で廊下を歩くと、石造りの廊下にぺたぺたと小さな足音が響く。
剣は無く、アーマーも無い。あまりにも頼りない恰好だ。背中から刺されれば、間違いなく死んでしまうだろう。普段当たり前のように装備している武器防具が無いことが、これ程にも不安を募らせるものかと、リーシュは回らない頭で考えていた。
思ったよりも、身体が動かない。本当に、永い眠りから覚めた時のようだ。
「グレン様…………」
惚けた頭で、リーシュはグレンオードの名を呼んだ。サウス・ノーブルヴィレッジを出てから、常に苦楽を共にしていた男の名だ。村を助けて貰ったあの日から、グレンオードの存在はリーシュの中で、大きな心の支えになっていた。
永遠にも思えた暗い廊下の向こう側に、小さな明かりが見える。どれだけの時間、この廊下を歩いていたのだろうか。測ってみれば、それは僅かな時間だったのだろう。しかし今のリーシュには、途方もなく長い時間のように思えた。
やがて、リーシュは小さな明かりに照らされる所まで、歩く――――…………。
「おや。…………ようやく、目が覚めたんだね」
石造りの廊下から、肌触りの良い絨毯へと足を運んだ。急に広くなった視界。リーシュは思わず、辺りを見回してしまった。
一昔前の豪邸だろうか。天井には豪華なシャンデリアがあり、長机には幾つもの椅子が空席のまま、鎮座していた。リーシュの発見した明かりは、暖炉の炎だったようだ。そういえばベッドを出てから、少し身体が冷えたような気がする。リーシュは知らずのうちに自分の身体を抱き締めていたが、暖炉の熱が少し、リーシュの身体を暖めたようだった。
声を掛けたのは、暖炉のそばにある椅子に腰を下ろした男だった。
ローブのフードを深く被っている為か、顔が見えない。台詞とは裏腹に、ローブの男は長机の上で指を組んで、リーシュを正面から迎えている。まるでリーシュを待っていたのではないかとも思えた。唐突に現れた男の存在に、リーシュはローブの胸元を少し左手で上げて、前を閉じた。
男の他に人は居ない。……当然だが、グレンオード・バーンズキッドの姿もそこには無かった。
「…………あの、すいません。…………ここは、何処でしょうか?」
リーシュは、男に声を掛けた。
不気味な場所だ。恐らく歓迎されているだろうにも関わらず、リーシュはそう思った。全く、心が休まらない。それどころか、不安ばかりが押し寄せて来る。
「まあ、そこに座りなよ」
言われるままに、リーシュは男から一番離れた――……長机の一番端にある椅子に、腰を下ろした。
「散々探したよ。……小さな子供だった君が、まさか逃げ出すなんて思っていなかったから」
何を言われているのか、分からない。
リーシュは僅かに首を傾げた。男の前で大きな反応をする事は躊躇われた。何か、その先に言葉が続くのかと思ったが、男は黙りこくって、黒いフードの向こう側からリーシュの全身をくまなく観察するばかりだ。
胸元を掴んだ左手に、力が入る。
「…………すいません、私…………セントラル・シティに、戻らないと、いけなくて。もし良かったら、帰り道を教えて頂きたいのですが」
思い切って、リーシュはそのように問い掛けてみる事にした。
…………だが、男は答えない。遂にリーシュは男から目を逸らし、身を捩じらせた。男の視線がこれ程に気持ち悪く感じたのは、初めての経験かもしれないと、リーシュは思った。
男は心の底まで深く冷え切ったような声で、リーシュにたった一言、言った。
「綺麗になったね――――私の、思った通りだ」
恐怖に震え上がるような、男の声。リーシュは思わず、椅子から立ち上がった。
ようやく、思い出したのだ。――――それは、セントラル・シティでヴィティアの頭を掴んだ男の声と、完全に一致するのだと。
「あ、あなた、誰なんですかっ!? もしかして、私を攫ったのは…………!!」
「攫ったなんて、人聞きの悪い。…………おかえり、リーシュ。君は君の居場所に、帰って来たに過ぎないんだよ」
男は手を伸ばして、そう言う。
その両手には、悍ましい程の魔力が渦巻いている。
堪らず、リーシュは後退った。
「ち、違います。私には、帰る場所があります…………セントラル・シティに、帰してください」
「駄目だよ。…………人間の住む町に居たことが、そもそも異常なんだ」
その言葉にリーシュは気付いて、自分が今歩いて来た廊下を見詰めた。
心臓の鼓動が、通常の倍ほどまで跳ね上がる。湧き上がる恐怖を押し殺すのに、必死になる程だった。
「ど、どういう事ですか…………まさか、ここは…………」
フードの向こう側から、静かに声は響く。
「ここは、魔界だよ。――――おかえり、リーシュ。ここが今日から、君の住処だ」
噂にしか聞いた事はない、魔物の本拠地。人間が行く事は生涯無いだろう、『敵』ばかりが蠢く闇の世界。
先程までリーシュが座っていた席に、カップが置かれた。紅茶と思わしき琥珀色の液体が、中に入っている――――だがそれを持って来たのは、メイド服を着た使用人でも何でもない。翼の生えた、女の悪魔だった。
男の側にも、茶が出されていた。男はそれを一口飲むと、リーシュに言った。
「きっと、気に入ると思うよ。人間と魔物の血が両方混ざった君なら、ね」
リーシュは、喉を鳴らした。
*
やはり、日中の打ち合わせは『赤い甘味』に限る。
「呪い?」
すっ呆けた声で、ヴィティアが首を傾げた。再び帰って来た、セントラル・シティ。昼間の喫茶店はいつものように満員で、そこかしこで冒険者や商人、家族などが思い思いに談笑をしている。
俺は密かにヴィティアを呼び出して、二人で会っていた。その理由は勿論、リーシュを助けるに当たり、より多くの情報を得るためだ。
「そう、呪いについて少し聞きたいと思っていたんだ。どんなモンなのかと思ってさ」
「どんなモン、ねえ…………そんな、唐突に言われても…………」
ヴィティアは紅茶を飲みながら、眉をひそめてそう言う。使いもしないティースプーンを手に、俺は何度かヴィティアの方にスプーンを向けて揺らしながら、言った。
「ほら、前にお前、リーシュに向けて呪いを掛けた事があったじゃないか」
「へ? …………私が? …………リーシュに?」
何も知らないような反応だ。俺の方も思わず、変な顔になってしまった。
「いや、掛けたって。掛けただろ? …………その、あれだ…………胸部の件で」
ヴィティアは間抜けにも口を開いて、カップをテーブルに置いた。
「…………狂った舞?」
「いやそれは狂舞…………ってどんな間違いだよ!! 胸部って言ったら胸部だよ!! 胸!! おっぱい!!」
はっ…………!? しまった、俺としたことが、沢山の人が居る中で『おっぱい』などと大声で…………!!
近くに居た数名の客が、気まずそうな顔をして俺を見て、俺から目を逸らした。…………立ち上がってしまった俺は、その場に固まって身動きが取れなくなってしまった。
頭に血が昇る。
「ぎゃはは!! かあちゃん、あいつおっぱいだって!! おっぱい!!」
俺を指さしてそんな事を言うなクソガキが…………!!
「しっ…………!! 恋人にも色々あるのよ!! 胸が無いとか!!」
全く何のフォローにもなっていないぞ母ちゃん!!
ヴィティアが顔を真っ赤にして前屈みになり、自身の胸を押さえていた。…………ごめん。
「…………それで、何の話よ。何かと間違えてるんじゃないの?」
涙ながらにヴィティアは、俺を睨み付けて言う。
「いや、悪かったってほんとに…………サウス・ノーブルヴィレッジに行った時はさ、もしかして最初はお前一人じゃなかったのか?」
「サウス・ノーブルヴィレッジ…………? あんなへんぴな街に、何の用で行くのよ」
……………………えっ?
思わず、言葉は止まってしまった。ヴィティアは俺の表情が意外だったのか、目を丸くして俺を見る――……俺達は互いに、驚き合っていた。
時間が止まってしまったかのように、俺達は互いを見ていたが――――…………ふと、ヴィティアが何かに気が付いたかのような顔をして、姿勢を正した。
「…………あ、あれ? 私、ノーブルヴィレッジでグレンとリーシュと会った…………んだっけ?」
その言葉を聞いた時、俺はヴィティアが以前に言っていた事を思い出した。
『私ね、連中に関わっていた記憶が抜けて行ってるの。……だから、完全に忘れる前に、あんたに会えて良かった』
ヴィティアは、連中と居た時の記憶を――――失くしているんだ。
それを思い出した時、ヴィティアは顔を青くして、自身の身体を擦っていた。…………きっと、恐怖を感じたんだろう。俺はヴィティアの手を握って、その不安を和らげようとした。
「ど、どうしよう。私、このまま忘れていったら…………」
「大丈夫だ、ヴィティア。お前が忘れているのは、連中と居た時の記憶だけだ。何も、俺達の事まで忘れる訳じゃない」
不安そうな眼差しが、俺に向く。
…………まだ、ヴィティアの問題は完全には解決していないみたいだな。これから、どれだけの事を忘れて行くのか…………その前に連中の本体を炙り出して、ヴィティアに掛かっている魔法だか呪いだかを解除出来れば良いんだが。
しかし、これだけ調べてもまだ親玉の顔も、組織の人数も分からない。…………敵ながら、恐ろしい徹底ぶりだと思う。
人の記憶を操作してまで姿を隠そうとする連中だ。良からぬ事を企んでいるのは、まず間違いないだろうが。
…………リーシュは、何もされていないと良いんだが。
「なんか、自信なくなってくる…………」
「心配すんな。連中との手が切れただけでも、良いことだろ」
「…………そうね。ありがと」
ヴィティアはそう言って、力無く笑ったが。俺はふとした思い付きが、胸の内から離れなくなってしまった。
少なくとも、リーシュは無事だ。殺されてはいないだろう…………それが分かった時点で、少し安心してしまっていた節があるが。よく考えてみれば、身体は無事でも心の方は、そうとは行かないかもしれない。
もしかしたら、洗脳されてしまっている可能性だってある。
『そうよ、リーシュ・クライヌの隣に置いてあげるわ。私がお願いすれば、きっとそうなるから』
ヒューマン・カジノ・コロシアムで、ベリーベリー・ブラッドベリーと名乗る女が言っていた。
助けるための、最短の道は歩いている筈だ。ここから先は、どれだけ早くリーシュの居場所を突き止められるか。その為には、連中のアジトへと向かうための道を、どれだけ早く確保できるか。
だから俺達は、連中がゴールデンクリスタルを手に入れる為に向かう筈の、スカイガーデンへと足を運ぼうとしている。ヴィティアが提案したこの道は、そう間違ってはいない筈なんだ。
無事であって欲しいと、それだけを願う。




