Part.37 ああっ! トムディ!
トムディは、バレルの召喚した魔物に殴られた。
殴る。……殴る。その一撃は重く、トムディの王冠は容易く吹っ飛び、壁に当たって地面に落下した。高価な防具は破れ、やがてトムディは投げ飛ばされ、壁に叩き付けられた。その衝撃は、トムディが『赤い甘味』で受けた打撃の比ではなかった。
「ほらほら、反撃してみろよ。聖職者なんだろ? まあ確かに相手が悪魔なら、【ヒール】でもダメージにはなるだろうし、【サンクチュアリ】なら倒せるかもしれねえな。――――やってみろよ。出来るんだろ?」
トムディは既に、杖を取り落している。グレンオードのように、杖が無くとも魔法を発動させるだけの実力と魔力を、トムディは持ち合わせていなかった。あっさりと石像の魔物に首を絞められ、今度は壁に押さえ付けられ、再び身動きを封じられる。
あまりに一方的な攻撃だった。……だが、トムディは濁った瞳でバレルを睨み付けると、歯を食い縛った。
バレルは、動けないトムディの髪を引っ張る。
「…………苛々するんだよ、お前を見てるとなァ。弱い癖に調子に乗ってんじゃねえよ。何の才能もねえ奴は、大人しく相応の人生送ってりゃ良いんだよ」
物音が聞こえないように、民家から少し離れて訓練していたのが災いした。周辺には商業施設が多く、物音を立てても寝静まった民衆まで届くことは無かった。すぐそばには、ルミルとよく話している『赤い甘味』があるが……ルミル・アップルクラインは、そこには居ないだろう。
トムディは、バレルを睨み付けていた。
「さっさと言った方が、楽になれると思うけどなァ。俺に敵わないって、もう分かってんだろ?」
*
一時間程の時が経った。それでも、トムディは殴られ続けていた。
既に身も心もぼろぼろで、瞳は覇気を失っていた。魔物は何時しか二体に増え、一体はトムディの自由を奪い、もう一体はトムディに攻撃を仕掛けていた。
首は垂れ下がり、トムディの足下には血が溜まっていた。既に夢か現か定かでは無い様子で、視線は宙を彷徨った。
「意外としぶといな、コイツは……」
流石のバレルも、表情に僅かな疲労が見て取れる。
トムディは、一言も口を開かなかった。殴られようとも、蹴られようとも、微動だにせず、やがて糸の切れた人形のように、だらりと垂れ下がっていた。時折、浅い呼吸の音が聞こえていた。
バレルはトムディの胸倉を掴み、罵声を飛ばした。
「さっさと言えよ!! アァ!?」
そう言うバレルの方にも、焦りの色は見えた。……このまま進めば、本当に殺してしまうという現実に気付いているからだろう。
それでも、言わない。そうなれば、バレルには何も残らない。魔物がトムディの腕を離すと、トムディはその場に崩れ落ちた。
「ねえ、バレル? ……あんた、まだやってんの? ダラダラやってると、夜が明けちゃうよ?」
露出の高い服装に身を包んだ少女が、空から降りて来た。ピンクに近い紫色の長髪に、血を思わせる真っ赤な瞳。背中には、黒い翼が生えていた。バレルはその少女を一瞥すると、舌打ちをした。
「ナコか。……少し、手間取ってんよ……そっちはどうだ? グレンオードの居場所、分かったのかよ?」
その言葉に、トムディが反応した。……とは云え、大した動きではなかった。指がぴくりと動いた程度のものだった。
しかし、バレルはその瞬間を見ていた。トムディには、既に顔を上げる気力も無いようだったが――――その動きを見て、バレルは何かを閃いたのか、厭らしい笑みを浮かべた。
ナコと呼ばれた魔物の少女は、バレルの背中から腕を伸ばし、胸板を撫で摩りながら言う。
「こっちは大丈夫、ぜーんぜん問題ないよ。……どうする? 少し早いけど、先に襲っちゃう?」
「そうだなァ…………」
バレルは、トムディを一瞥した。
先程まで、まるで死人のように口を開かなかった男が――トムディが、顔を上げていた。苦々しい表情でバレルを睨み、その表情に僅かな焦りの色が見えた。
「やめろっ…………!! グレンは、関係ないだろ…………!?」
「ああ、関係ねえなあ。あいつも気の毒だな、別に好きでもねえお前の為に、酷い目に遭ってよお」
トムディの肩を、思い切りバレルは硬い靴で踏み付けた。トムディは痛みに顔を歪めていた。
先程までの、何としても耐えるという態度は、トムディには見られない。だからだろうか、バレルはトムディの様子にほくそ笑んだ。
「知ってたか? ――――修道士時代から、本当は誰もお前に期待なんかしてねえのよ。お前が王子だったから、誰も、何も言えずにいただけだ。そうやってお前は、聖職者になった。体裁的にはな」
トムディの頭上から、バレルは言葉を叩き付けた。うつ伏せに這いつくばっているトムディは、地面を掻き毟るように、両手を動かした。
その瞳には、涙が浮かんでいた。
「いつまで続けるんだ? 周りにどれだけ迷惑を掛ければ、お前は気付くんだ? …………だから、お前が嫌いだって言ってんだよ。ルミルだって、内側ではお前の事を嫌ってるんだぜ?」
バレルの罵倒に、トムディは顔を上げた。
「ちっ……違う!! ルミルは、ルミルは僕の事、分かって――――」
「それを、お前に判断できんのか?」
トムディの瞳が揺れる。
「あー、あいつ馬鹿だなーって思ってんだよ。俺、修道士時代はあいつと仲良かったから、よく知ってる。いつも笑ってるのは、お前をどうして良いか分からないからじゃんよ。扱いに困るよなァ……『無能』なのに、『王子』じゃなァ。あんまり表立って、バカバカ言えねえもんなァ…………なァ?」
その場に、バレル・ド・バランタインの言葉を否定する者は、誰も居なかった。
「…………そんな…………」
「グレンもそう。王様もそう。ルミルだってそうさ。お前が無駄に頑張ると、どんどん皆が迷惑して、傷付いて行くじゃんよ」
二人の動きは止まった。
「別に『ゴールデンクリスタル』の場所を言った所でよお、そいつが痛い目に遭ったりはしないんだぜ? お前がやってる事は、無駄なんだって。誰もお前に期待してねえのに、まだ頑張るの? 頑張った上、犠牲者が増えるだけで、何も報われないのに?」
バレルは唯、トムディの言葉を待っているようだった。トムディを踏み付けたまま、姿勢を低くし、耳を澄ます。
静寂が訪れた。しんと静まり返った夜の街に吹く風は、先程までよりも少し乾いていて、少し冷たくなっていた。
間もなく夜明け前の、最も冷たく、最も暗い時は訪れるのだろう――――…………
ふくろうの音は、なおも淡々と夜の森に聞こえ続けている。
「………………ミル……」
そうして、幾許かの時が経ち。
トムディは、口を開いた。
バレルは、トムディの肩をより強く踏み付けた。
「ルミル?」
今一度、確認する。
トムディは、震えていた。
「――――ルミルだな? ……やっぱりルミルが持ってるんだな!?」
黒い魔力が渦を巻いた。バレルはトムディから離れ、両手を空に掲げた――……上空に現れた巨大な魔法陣は、禍々しい光を放つ。まるでその魔法陣に群がるかのように、悪魔の魔物が無数に現れ、空を飛び回っていた。
バレルは嗤った。血走った眼が剥かれ、幾つもの魔物を操る。狂気さえ見せる程の気迫が、そこにはあった。
トムディは顔を上げ、地獄のような光景をただ、見詰めていた。
「ナコ!! グレンオードの部屋に押し掛けろ!! 殺しても構わねえから、絶対に邪魔をさせるな!!」
「はーい。まったく、人使い荒いんだから……ルミル・アップルクラインの方はどうするの?」
「構わねえ殺せ!! 場所さえ大体分かれば、夜のうちには見付かるだろ。見付かりゃ、もうこの街に用はねえ」
バレルはトムディの視線に気付き、嘲笑した。身動きの取れないトムディは、唇を噛んでいた。
「んー? なんか、話が違うって言いてえ顔してんなァ」
身を屈め、バレルはトムディと視線を合わせる。顔を近付けると、バレルはトムディの表情を愉しんでいるようだった。
「ルミルは、お前の事を認めてたじゃんよ。一度も文句を言ったりしなかった――――いつも言ってたなァ。トムディは努力家だから、きっといつか立派になる、ってな」
トムディは、その双眸から大粒の涙を零した。血が出る程に唇を噛み締め、そのまま噛み切ってしまいそうな程に、震えていた。
バレルは、地に落ちたトムディの杖を握った。一振りすると、その杖から魔法は放たれ、トムディは爆発した。
「お前には無理だよ、根性無し」
地面を転がり、トムディは道の端に転がった。……もう、トムディが起き上がる事は無いと分かったのだろう。バレルは狂気に満ちた笑顔でトムディを嗤い、トムディの杖を持ち主の下に向かって投げる。それきり、トムディに背を向けた。
トムディは――――…………動かなかった。
*
異質な魔力の存在を感じて、俺は目を覚ました。
何だ…………!? 咄嗟に顔を避けると、俺の頬に唇が当たった。近過ぎて、顔がよく見えない。
「あーんもう、残念。起きちゃったの?」
紫色の長い髪。不自然に揺らめくそれは、どうやら人間のモノでは無いように思えた。そんな俺の第一印象を肯定するかのような、悪魔系の魔物によく見られる、こめかみ上辺りから生える二本の角と、黒い翼。
ボンテージみたいな服を着ているこいつは…………サキュバス!?
「なっ…………!? ちょ、待…………」
考える暇も無く、娘の魔物は俺の頬を撫でる。…………いや、呆けている場合じゃない。こいつはサキュバス……娘の格好をした悪魔で、男を誑かして魔力を吸い取る事を目的とする魔物…………だ。
この街に来てから、警戒していた。何かあれば直ぐに起きられるような体制を作っていた筈だった……なのに、何故。
サキュバスは、空中に指を這わせる……すると、糸を引くように桃色の光が現れ、消えた。
「あたしのご主人様が、何であたしを真っ先にあんたの所に向かわせたのか、分かった気がするなあ。……魔力の流れに、すっごい敏感なのね……でも、残念。あたし、そういう足跡を消すの、得意なの。人間のオトコを落とすには、それくらい出来ないと困るでしょ?」
一切の魔力を消し、気配を隠し、俺に気付かれないように部屋まで侵入したと言うのか。……確かに、サキュバスは悪魔の中でも高等な魔物だと聞く。そいつを呼び寄せる事が可能なら、こんな芸当だって可能かもしれない。
状況が理解出来てからは、早かった。俺もまた、一切の魔力を消した。人間に触れる事で魔力を吸収するサキュバスは、身体から溢れる魔力を吸えば吸う程強化する。こいつが、高等な悪魔たる所以だ。
最も、そんな奴を召喚して操る事の出来る人間は、相当数、限られて来るだろうが――……
――――サキュバスの唇が、俺に迫る。
「別に、殺そうなんて言わないわ。今晩だけ、静かにしていてくれれば良いの。…………あたしと、イイ事しよ?」
窓が割れ、暴風が巻き起こった。
咄嗟にサキュバスは俺から離れ、宙返りをする時のような動きで、部屋に浮いた。間一髪、俺はエネルギーを吸われる前に反撃する事に成功し、額の汗を拭った。
暴風によって、俺の布団はめくれ上がる。すると、俺の夜間着は不自然に腹部が破けている。腹に描かれた魔法陣から、這い上がって来る存在があった。
「申し訳ねーっスよ、ご主人。……不覚にも、全く気付きませんでした」
スケゾーだ。
「いや、俺も気付かなかった。どうやら、結構出来る奴らしいな……」
「まあ、良いっスよ。間に合って良かったっス」
サキュバスが、スケゾーを見ていた。そんな奴が現れるとは、予想してなかったという顔をしている。スケゾーは迸る魔力にモノを言わせて、真っ向からサキュバスを威嚇した。
「――――で。サキュバス風情が、うちのご主人に汚え手で触ってんじゃねえよ」
「スケルトン・デビルが使い魔……!? 何それ……どうなってんの……!?」
スケゾーには、外の見回りを依頼していた。俺達は、離れていると満足な力を発揮する事ができない。……だから、俺は自身を媒体にして、スケゾーを再召喚した。
こうする事で、スケゾーはいつ何処に居ても、俺の所に帰って来る事が出来る。念には念をと言いつつ、実際に使うのはこれが初めてだったが……外に魔力が漏れないように魔法を発動させるのは、苦労した。
「うちのご主人の代わりで良けりゃ、オイラが相手するっスが――――やってみるか?」
サキュバスは、青い顔をして縮み上がった。
……スケゾーもまた、周囲の魔力を吸い取って自分のモノにする能力を持っている。悪いが、相手にならないだろう。サキュバスは慌てて手を振り、スケゾーに愛嬌のある笑顔を見せた。
「ごっ、ごめんなさい!! パスパス、今のなし!! 悪いけど、あたしじゃ相手にならないし、時間の無駄だわ」
流石だな、スケゾー……戦いもせずに場を収束させるとは……。スケゾーが魔力を制御すると、風は止み、静寂が帰って来た。
全く、チェスは出来ないが、頼りになる悪魔だぜ。
「まあ、次からはうちのご主人に召喚されて、精一杯尽くす事っスね。いやー、ご主人のオクテを治すの、大変で大変で」
俺はスケゾーを殴った。
サキュバスは精一杯に愛想を振り撒いて、俺とスケゾーに手を振った。硝子の割れた窓枠を掴み、そっと窓を開く。
「そっ、それじゃあ、あたしはこれで――……」
「スケゾー」
「あいあいっス」
当然、スケゾーはサキュバスの腕を掴んだ。振り払う事も出来ず、サキュバスは再び、俺の部屋に戻って来る。
サキュバスは、すっかり青褪めていた。
「――――主人の居場所を言え。俺達に喧嘩を売ったこと、後悔させてやる」
「あ…………あはは…………」