Part.128 ピンクイルカの背に乗って
「サンオイルを知らない……? やはり貴様、海を知らないな……?」
ラグナスがにやにやとした笑みを浮かべて、俺を見ていた。俺は思わず立ち上がり、ラグナスと向かい合う。
どうする。俺のちょっとしたミスで、泳げない事がバレてしまいそうだ……!! これは、重大な汚点に成り得る……!!
ラグナスのことだ。俺が泳げないと分かれば、どうせ無理矢理にでも俺を海へと引き摺り込んで、あっぷおっぷしている俺にライジング恥ずかしい名前エルボーを決めた挙句、千切れたワカメのように海に揺らめく俺にケチャップを掛け、『水死体』とか言って微妙なアート感を表現するに違いない…………!!
「……ハハッ。何言ってるんだ、ラグナス。俺は『サンオイルとか』って言ったんだぜ」
「サンオイなんとかと聞こえたが?」
「ちょっと勢い余って、サンオイルんとかって言っちゃったんだよ」
自分で言っておきながら、なんか妙に色っぽい台詞になってしまったんだが。
ラグナスは、余裕の笑みを崩さない。海で遊んでいるリーシュとヴィティア……その二人に向かって行く……!!
「おーい、リーシュさん、ヴィティアさんっ!! あの小さな島まで行って、楽しみませんかっ!?」
くそ……!! 俺の目の届かない所に移動しようとしてやがる!!
……ん? ラグナスの肩に居るのは……ああっ!? スケゾー!?
「今なら豪華特典で、オイラが付いて来ます!!」
お前は俺の味方をしろよ!!
「わあ、皆で無人島ですかっ!? 狂喜乱舞ですねっ!!」
リーシュがビーチボールを持って、笑顔を見せているが。いや幾ら何でも喜び過ぎだろそれは。
「スケゾー……あんた結局、酒飲んでんの……」
ヴィティアの呟きに、俺は……しまった、買収されたのか……!? クソ、ラグナスの癖に頭が良いじゃねえか……!!
スケゾーが居なければ、俺の戦闘力は半減だ。この状態では、ラグナスに勝てない……!! どうする!? このまま海に入られたら、本当に俺は宿で独りぼっちか……!?
いや、独りぼっちなんて所で問題は収束しない……!! ラグナスのことだ。リーシュとヴィティアを無人島に連れて行った結果、俺のにゃんにゃん恥ずかしい名前伝説が今始まるとか言って、水着をひん剥いたリーシュとヴィティアにポーズを決めさせた挙句、『ディアナ』とか言って微妙なアート感を表現するに違いない…………!!
どうにかして、それだけは止めなければ!!
「ラグナス!! 俺と――――勝負しろオォォォォ――――!!」
ラグナスが立ち止まり、俺を見た。リーシュとヴィティアも、俺を見ている。
しまった……勝負って。何の勝負をするんだ。何も思い付かないぞ。
とにかく引き留めようとして言ったは良いが……どうする。……もう、無理か。ここは大人しく、皆に俺が泳げない事を説明するしかないのか。
いや、待てよ……!? 砂浜で走ってレース、という事も考えられる……!! それならまだ、お茶を濁す事くらいは出来るかもしれない……!!
不意に、ラグナスは不敵な笑みを浮かべた。その額には、冷や汗が見える。
「フッ。まさか貴様の方から、『ピンクイルカレース』に誘って来るとは。……どうやら、『海を知らない』というのは俺の勘違いだったようだな」
何だ? こいつ頭でも打ったのか?
何だよ、ピンクイルカレースって。
「ピンクイルカレース……? グレン、もしかしてピンクイルカに乗れたの……?」
ヴィティアは何やら、尊敬の眼差しで俺の事を見ていたが。
「グレン様……!! 私、応援してます!!」
何だよこれ……? なんか会話の流れ、おかしくないか……?
……ドッキリ? じゃ、無いんだよな?
ピンクイルカって……ピンクイルカって何だよ!!
そうして、鮮やかな動きで――ラグナスが自身の海パンを脱ぎ、俺に向かって投げた。
リーシュが、緊張した面持ちで言った。
「決闘の証…………!!」
幾ら他に着ているモノが無いからってそれはあんまりだろ!!
どうしよう。全く展開に付いて行けない。どう見ても俺には、ただラグナスが公共の海で全裸になったようにしか見えない……!!
「『ピンクイルカレース』の正式な決闘の合図だ。貴様もやれ」
嫌ですけど!?
「良いだろう。このラグナス、グレンオード・バーンズキッドとの『ピンクイルカレース』を受け入れる」
全裸の男がキメ顔でなんか言っている!!
「公平に、私が審判をやります!!」
リーシュ!? 何で皆、『ピンクイルカレース』を知っているんだよ!! どういう状態なんだよ、これは!!
「それじゃあ早速、ピンクイルカを借りに行くぞ!!」
ラグナスはそう言って海パンを拾って履き、歩いて行く。リーシュとヴィティアも……どこに行くんだよ!! 俺は勝負って言っただけ…………あれ?
マリンブリッジ・ホテルの横に、小さな小屋がある。全く気付かなかったが……名物、『ピンクイルカレース』。ピンクイルカ一頭、一時間あたり二千トラルで貸し出し……と、書いてある。
スケゾーが俺の肩に戻って来て、ジョッキでラムコーラを飲んでいた。
「ご主人、ピンクイルカ乗れたんスか?」
「乗れるわけないだろ……!! 今初めて存在を知ったよ……!! そもそも、俺は『勝負』って言っただけだよ!!」
俺がそう言うと、スケゾーがラムコーラを飲み干して、真顔で俺に言った。
「え? ご主人、今、『ピンクイルカレースで勝負』って言いましたよね?」
……………………なに?
「……スケゾー? ……本当に俺が、そう言ったのか?」
「え? ……ご主人、大丈夫っスか?」
……スケゾーは、冗談を言っているようには見えない。
俺の言葉が、何故か違う言葉に聞こえてしまったのか? どうして。幾ら何でも、『勝負』と『ピンクイルカレース』じゃ、一文字も合っていないし、勘違いのしようがない。
いや、俺は『ピンクイルカレースで勝負しろ』と言った事になっているんだっけか。……謎の言葉を追加して喋った事になっている。
なんだ、この現象。どういう事だよ。
駄目だ、とにかくラグナス達を追い掛けないと。
「…………ふふ…………頑張って」
ふと、少女と擦れ違った。
紫色の長髪を後ろで二本に縛った、眠たげな眼差しの少女だった。
『頑張って』って……俺に、言ったのか?
もう、少女は俺の方を見ていない。いや、初めから見ていたのかどうかも分からないが……青いタンキニ。瞳の色は濃い緑色で、もみあげ付近のウエーブが目立つ。
「ミュー!! 何してんのー?」
少女は俺に背を向けて、女のパーティーと思わしきグループの所に歩いて行った。
本来なら、人と擦れ違った所で何を思う事もない。……だが俺は、その異様な状態に、思わず立ち止まってしまった。
肌と肌が触れ合う程の距離になれば、どれだけ魔力を隠していようとも、俺には分かる。これでも魔導士だ。人の魔力量には、それなりに過敏な方だと思っている。
だが、感じなかった。
その、『ミュー』と呼ばれた少女からは。細身な身体の向こう側に、通常ならばどんなに少なくとも幾らかは感じるはずの、『魔力』の存在を。
*
ピンクイルカって、名前のまんま、桃色のイルカの事らしい。
俺とラグナスは、マリンブリッジ・ホテルのすぐ近くにある飛び込み台に来ていた。飛び込み台から向こう側は、ゴールの地点までロープが張られていて、コース外に出たらアウト、という事らしい。レースってこういうことだ。
ラグナスが不敵な笑みを浮かべて、俺に目を向けた。
「正直、恐怖している……貴様とこのような場で、正式に決闘する事になろうとはな……!!」
「正直、俺には一ミリも恐怖感が伝わらないよ……」
飛び込み台の下、水中に、何やら桃色の物体が見えて来た。これが、『ピンクイルカ』なのか。想像していたよりも結構、サイズが大きいんだな。
遂に、その魔物が姿を現す。滑らかな桃色のボディ、つぶらな瞳。ぱたぱたとヒレを動かして、俺に愛想を振り撒いて来る。
おおっ……全く意識していなかったが、これは思ったよりも可愛
「オホーツクホーツクホオォォォォォ――――――――!!」
くない。
え? ……何これ。鳴き声がおかしいだろ、明らかに。ビジュアルと全く一致してないんだが。何? 虫なのか?
「グレン、がんばれ――――!!」
砂浜の方から、ヴィティアが応援をしてくれているが。正直俺、こいつに乗るのはちょっと気が引けるんだが。どうだろう。
くそ。一体何なんだよ、この状況は。俺はつい、砂浜の向こう側を見てしまう。先程の、紫色の髪をした少女。……確かに、彼女には魔力を感じなかった。
凄腕の魔導士なのか? ……いや、そうだとしても、魔力を全く感じさせないなんて言うのは、他の魔導士に違和感を覚えさせるだけの筈。そんな事をする意味も感じられない。
あるいは、姿を消すとか。……殺し屋なんかなら、あるかもしれないが……彼女がそうだとは、どうも思えないが。
『ピンクイルカレース』の変な流れは、彼女が作ったモノだったりして。
…………流石に、それは考え過ぎか。
「それでは、位置についてください!!」
俺とラグナスは、構えた。正々堂々と勝負なんて、『滅びの山』の一件以来だ。あの時に正々堂々と勝負していたかと言われれば、そうでは無かったような気もするが。
だが、ラグナスも男だ。当然、純粋に『ピンクイルカレース』とやらの内容で、勝負して来るはず。そうだとすれば、俺に勝ち目は無い。いや、負けた所で何がどうなるかと言われれば、もはやどうでも良いような気はするが。
これは、正式な決闘――……バシャン。
「……バシャン?」
謎の音がした。
思わず、音の出た足元を見る。……何だ、これは。なんか油っぽいモノがピンクイルカの背に掛かっている。
水面に浮かび上がって来たのは、先程までヴィティアが握っていた、サンオイルのボトル。
俺は、ラグナスの方を見た。
ニタア。
そんな効果音が聞こえて来そうな程にいやらしい笑みを浮かべて、ラグナスが俺の方を見ている。
――――――――このクズ野郎!!
「よーい……!! スタートです!!」
リーシュの合図と同時に、俺とラグナスはピンクイルカに向かって飛び出した。このイルカをどうやって操るのか、一度も乗ったことが無い俺にはよく分からなかったが……とにかく、背中のトサカみたいな奴を掴みさえすれば、どうにかなるはずだ……!!
ピンクイルカは意外にも大人しい……よし!! こいつを掴んで、後は泳がせるだけだ……!!
「行くぞピンクイルカ、おらぁ――――…………」
ぬるっ。という効果音と共に、俺の手が勢い良く滑る。
…………あ、これ駄目なやつだ。
「ほあああアァァァァァ――――――――!!」
開始一番、豪快なピンクイルカの尾ひれを突き上げる動きにふっ飛ばされ、猛烈な勢いで空へと上昇していった。
回転しながら、ラグナスがピンクイルカに乗ってゴールへと向かって行くのが見える。ちらりと俺を一瞥して、勝利の余韻に浸っているようだった。
「はっはっはァ――――!! 愚かな男よ!! 決闘というのは頭を使った方が勝つのだよ!!」
重力に従って、俺は頂点付近で落下し、海へと豪快に落下していく。
ほんの一瞬でも、ラグナスがまともな奴だという判断を下してしまった俺は、激しい後悔に襲われていた。……そういえばこいつは、滅びの山でも俺に下剤を飲ませようとしていたな。
一体どの辺が『正式な決闘』なんだよ……!!
「…………ん?」
あれ。全く意識していなかったけど、この落下の角度。てっきり、砂浜に打ち上げられるもんだとばかり思っていたが……仕方ない。あんまり目立ちたくはないけど、魔法を使って空中に浮くしかないか。
「グレン様!!」
えっ。
真下に、リーシュがいた。
「リーシュ!! そこは危険だから、別の場所に行ってくれ!!」
俺は、足元で爆発魔法を使う事で空中に浮く。従って、下に人がいる時は危険なので、基本的には使わないようにしていて。
……なんて、悠長なことを考えている場合じゃない。まずい……!!
「グ、グレン様!!」
「リーシュ!! そこをどけえええぇぇぇっ!!」
あろうことか、リーシュは両手を広げ。
「オーライ!! オーライ!!」
「ちがああああぁあぁぁうっ!!」
俺はどうしようもなく、そのままリーシュに向かって突っ込んだ。
水飛沫が上がった。俺の視界は一瞬にして水に阻まれ、全身をひやりとした感覚に包まれる。呼吸ができない……!!
やばい!! 水!! 水が!!
「ぐがぼっ!! がぼっ!!」
もがきながら、どうにか上を目指す……が……何だよこれ……!! 誰かが水中に居る限り、身体は浮くものだって言ってた気がするけど、全然浮かないじゃないか……!!
何か、捕まるものを探すんだ!!
何かが手に引っ掛かった。俺はどうにかそれを利用して、水上へと顔を出す。
「…………っぶは!!」
何だ、これは。何か、ものすごく柔らかいビーチボールのような感覚が……
目の前に、リーシュの顔があった。
「…………」
…………。
俺、今日、死んだかもしれん。




