2.
その日、有珠は部室に一人。
有珠は古びた目覚まし時計を通学途中ゴミ置き場から見つけ(拾い上げて)、分解掃除しており、かれこれほぼ半日、拾った時計にかかりっきりだ。
その時計と目が合った瞬間、有珠は動けなくなった。
(ヲイデ、ヲイデ)
そんな妖しい言葉が脳内を駆け巡り、ふらふらと時計に近づいていった。
・・・気がつけば部室で時計を手入れしている、という訳である。
今日は授業が二つきり。
おまけに一つは休講だったから、もう一つも有珠は自主休講してしまったが、彼女はサボることは滅多にしないし、この学園は魅力的なカリキュラムが多すぎて、規定数よりたっぷりと授業を取っているので落第の心配は全くない。
有珠はしげしげと時計を見つめた。
古めかしい文字盤に手巻きゼンマイ式の、珍しいものだ。
米粒より小さく刻印されている文字は何語なのだろう、ルーペで拡大しても定かではない。
「まあ、古今東西、時計メーカーは腐る程あるんだし。
可哀想ね、貴方。壊れちゃったから、捨てられちゃったのね?
でもだいじょーぶ。
Dr.有珠が修理してあげるからねっ!」
なんてことを時計に向かって呟きながら、手は休めない。
この部室には、工具は工房並みに揃っていて、道具に不自由はない。
時計の一つ一つパーツを丁寧に外し、サビを落としていく。
欠伸を連発しそうなこの作業を、有珠は嬉々としてこなしていた。
・・・それから、どれくらい時間が経ったろうか。
「ふう」
ようやく、全てのパーツを分解しおえ、掃除しおえ、また組立直した。
と。
カチ。
カッチ、カッチ。
ボーン、ボーン、ボーーーーーーーン。
永遠の眠りにつく事から妨げられたのを怒っているような音だった。
すると、目の前をしゅ、と白い影が掠めた。
大きさからいって小動物サイズ。
(ん?私も、とうとう視るようになったか?)
というのが、有珠の最初の感想だった。
なんせ不思議大好き研究部。
部員の中には人でないものが視えてしまう人もいる。
そして、彼女達を取り巻く世界は、あまりにも不思議な事に満ちていすぎた。
(とりあえず、追いかけてみるのが人情というものでしょう♪)
有珠は組立あがったばかりの時計や鞄、私物などを置いたまま、部室を出た。
さささ、と。
戸口から窓へ。
開いている空間を選んでいる処を見ると、幽体ではなく、実体を伴っているらしい。
ようやく有珠の視力が、実体を捉えることが出来た、数m先を急ぐそれは、白ウサギ。
・・・ただし、それが後脚2本で走り、洒落たチョッキと膨らんだ裾をバンドで止めたハーフパンツを履き、懐中時計を睨みながら、
「えらいこっちゃ、時間に遅れる!」
と言ってなければ。
(もしかして、『不思議の国のアリス』のウサギをモデルにしてるの?)
・・・その時には、”わあ!なんて精巧なロボットだろう”、としか考えていなかったのだ。
追いかけていれば遠隔操作している持ち主に出逢うであろうと。
兎がささ、と草陰に隠れたので、追いかけて草陰に飛び込んだら、まさか空いてる穴に落ちると思わなかったのだ。
(!)
落ちている、と気づいた時には遅かった。
「きゃああああっ」
有珠は自分の口から悲鳴が迸るのを聞いた。
「・・・」
ふわあ、なんて欠伸して、ついでに伸びをしてみる。
(随分落ちてると思うんだけど)
落下し、底面に叩き付けられる衝撃も未だ、ない。
気絶するのかと思ったら、別に気絶もしなかった。
たまに上を向いたり、下に向き直ってみたり、ついでに脚を下にしてみたり、勇気を出して頭を下にしてみたり。
風圧を感じる中、向きを変えることは多少は努力が必要であった。
あまりに落下中の人間と思えないリラックスした態度であることは自分でも思ってはみたものの、
(別に『落下時のマナー』とかないし、
『(どのように落ちたら美しいと評価され、高得点となるかの)落下コンテスト』をしてる訳じゃないし)
などとも考えていた。
息を止めてみたり、『停まれ!』と意識を集中してみたり。
手足を大の字に伸ばして空気抵抗を作ってみたり。
古典的に、何か掴める物がないか、と辺りを見回してみたり、手を伸ばしてみたり。
・・・一応落下を止めるべく努力したのだ、これでも。
ただ落ち続けるのにも飽きてきたので、状況分析をしてみる。
1.マンホールの蓋が外れていた。
2.地盤沈下に巻き込まれた。
(違うな)
流石にこれが通常の落下事故とはもう思えない。
(まさか、こんな風に時空震に巻き込まれるなんて)
聞いてなかった、と思った。
(今、何時何分?)
時間と速度で落下している深さを測ろうにも、腕時計型のコンピュータは狂ったようにぐるぐると動いているばかり。
は、と気が付いて動画ボタンを押してみたがどうなのだろう。
(これじゃ、座標軸もわからないだろうし。
そもそも動画も取れてないかもしれないなー)
機械を惑わすだけの電磁波が発生しているのなら、人体に影響はないのだろうか。
訊ねたくとも自分の他には誰もいないし、呼吸不全も起こしていないし、人体損傷も(今のところ)していないのなら、この段階で心配しても仕方ない。
・・・本来はパニックになるべきなのかもしれないが、有珠は落下系のアトラクションが大好きなタチであった。
なまじ、眼が慣れてくると、周りが刻々と変化していく様に心を奪われる。
ある時は動物達が疾走してきてその振動迄近づいてきた。
避けることは叶わず、衝突を覚悟して思わず両手で顔を庇うと、それらは有珠を通り過ぎて言った。
また、暴風雨の中に投げ込まれた。
息もつかせぬ風圧、恐ろしい雨風、そして電気を帯びている空気。
雷に撃たれた、と覚悟した瞬間、有珠はまた違う景色の中を落ちていた。
慌てて触ってみれば、服も髪も濡れていない。
あるいは。
(これは・・・人の思考の中?)
ぼそぼそぼそ。
ぴりぴりと肌を刺す思念。
高揚して、有珠も歌いだしたくなる思念。
やがて、
怒り。
悲しみ。
邪念。
歓び。
嫉妬。
それらが轟々と渦巻き、呑み込まれそうになり、咄嗟に有珠は。
(もう、止めて!)
と叫んだ。
(・・・。)
目を恐る恐る開け、耳を塞いでいた手を放してみると。
また、静寂な世界に戻っていた。
その後は、サイレント映画のように、多種多様な生物に、様々な建物に見たことのない風景。
そんなものが、有珠を通過していった。
・・・もしかして有珠の方がそれらを透過しているのかもしれない。
蝋燭の灯りのような薄明るい垂直のトンネルを、有珠はどんどん落下していく。
・・・どれくらい、そうして落下していたであろうか。
(ん?なんか落下先の方が明るくなってきた?)
と思う間もなく。
バチャーン!
派手な水音とともに、盛大な水飛沫があがり、どうやら自分が着水したらしいことを知った。
お読みくださいまして、ありがとうございます。