-The past fragmentary passage-
少年は眠りに落ちていた。身体を預けるベッドをはじめ、内装の全てが高級感溢れる邸宅の客室だ。
穏やかな寝息をたてていた少年は、なにかがぶつかるような異音に気付き目を覚ます。目覚めたばかりの寝ぼけまなこで、部屋に掛けられていた時計を見ると、時間はまだ3時を少し回ったばかりだった。
一体何なのだろうと不思議に思いながら少年は部屋の扉を開け、廊下を窺うように顔を出す。
そして少年はその目の前の異常な光景に思わず絶句してしまう。
高級感で溢れていた廊下の床から天井に至るまで、ずたずたに引き裂かれた痕や、何かに殴りつけられたような窪みなどで埋め尽くされていた。
その廊下には屋敷の使用人たちが倒れていた。血の海に沈む彼らは顔色からしてほとんどが絶命しているのだろう。
「…っ!!」
あまりにも現実離れした惨状を目の当たりに、思わず胃液が食道を逆流し、口から消化物とともに吐き出される。少年はむせ返りながら、夢に決まっている、そう自分に言い聞かせる。しかし、廊下に立ち込める生々しい血の匂いがそうではないことを、はっきりと少年に伝えている。
少年はあまりの惨状に混濁した頭を抱えて廊下に出る。その廊下の曲がり角を曲がろうとしたところだった。突然少年の目の前で鈍くも大きな音がその耳を打ちつける。
それはその角に何かが激しく激突した音であり、その何かが人であることに気付いたのは一拍おいてからであった。まるで人がパチンコ玉のように吹き飛んできたからである。原因はわからない。
ありえない。狂っている。夢に決まっている。
再び自分にそう言い聞かせる少年の目の前に先程の角からゆっくりと、男性の人影が現れる。
その人影もまた屋敷の使用人の一人であった。しかし、その瞳に生気はなく、何かに怯えているような表情だった。
その使用人の視界に少年が映ったそのときだった。突然男が狂ったように奇声を上げるのと同時に、その全身の筋肉がみるみる隆起する。そしてその丸太のような腕を振り回しながら、少年のほうへと突っ込んでくる。
その非現実的でありえない光景を前に、少年は発狂しそうになりながらも、理性の残る瞳で巨人を見据える。
刹那、その身体からは想像も出来ない速さの拳が繰り出される。それを少年は受け流し、間合いをとる。標的を失った拳はそれでも止まらず、壁を打ちつける。激しい轟音とともに、コンクリートの壁が粉々に砕け散る。
それを見た少年は堪らず顔を青ざめる。もし直撃していたら…。そう考えると今度は冷や汗が止まらない。
少女は無事なのだろうか。
その思考で今まで忘れていた自分を責め立てる。
何故忘れていたんだ!早く助けに行け!こんなやつに構っている暇はない!早く!早く早く早く!!
迫りくる己の叱責を受けながら、少年は廊下を駆ける。そして目の前には迫りくる巨人の腕。
乱暴に繰り出されるその拳は、鍛錬を積んだ少年にとって、避けるのは容易だった。しかしその直後、少年の視界に火花が散る。吹き飛ばされて地面に打ち付けられた頃、ようやく少年は頭を殴られたことに気づく。
視界がかすみ、その痛みに思わず呻き声が漏れる。
よけられない攻撃ではなかった。しかし巨人の狂気に満ちた目からは次の攻撃を読めず反応が遅れ、さらには一刻も早く少女を助けねばという焦りが、少年の隙を作ってしまった。
赤く染まった額を抑えながら少年は立ち上がるが、足は少年の言うことを聞かずに、恐怖と痛みから激しく震えてしまっていた。
柔道や空手の相手とは違い、相手は狂気に満ち、殺す気で襲ってきている。少年は初めて人から凄まじい殺意を受けていた。
その恐怖心から思考が止まりそうになるが、少年はそれでも挫けずに巨人を睨みつけていた。
少年が倒れたら少女も同じ結果を辿ることになってしまう。少女と一緒にいることを決めた少年にとって、それは決して許してはいけないことだった。
倒す必要はない。この場から離れて少女を見つけて一緒に逃げる。
心でそう呟いた少年は油断を捨てて、再び巨人へと向き直る。後ろは行き止まり。目の前の壁を乗り越えるほか少女のもとへ行く手段はない。
覚悟を決めた少年は、静かに巨人を見据えた。