彼の狂気とわたしの心情
すこしだけ無理矢理描写があります。
苦手な方はご注意してください。
引きずられ、連れ込まれたのはラブホテル。来たことがないそこは、正直言ってどんなところなのか興味はあった。でもそんな好奇心を発揮している場合じゃない。だいたい今、エッチする場面じゃないでしょうが。彼の手を振りほどいて逃げようとしたけど、予想以上に力強く掴まれていてできなかった。
部屋に入るなりベッドに投げられ、両手首をネクタイで縛り上げられる。
これはマズイ。一種のプレイではなく、本気だということが目でわかる。楽観視していた自分が甘かった。
感じたこともない恐怖でいっぱいになり、自然と身体が震える。懇願も抵抗も一切効かなかった。それでも必死に抵抗すれば、片手で首を絞められる。
「俺を……拒むな」
低く冷たく暗い声、容赦なく首に食い込む指……。しかしその乱暴な行動とは違い、彼の表情は悲しみでいっぱいだった。
どうしてそんな顔をするの……? そんな悲しそうで、ひどく傷ついた顔。そんな顔にさせているのは、わたし……?
首の手を離され、必死に酸素を肺に取り込む。その隙に裸にされ、無理矢理唇を奪われる。怖くて涙が止まらない。
でも、これはわたしへの罰なんだ。彼氏に隠し事をした、自分の罪……。
わたしの身体を知り尽くした彼に、抵抗する気力も体力も理性もすべて奪われた。もう何も考えられない。ただ与えられる快楽に身を委ね、快感に溺れているだけ。次第に意識もとぎれとぎれになり、その後の記憶はなかった。
優しく頭を撫でる手の感触で目を覚ませば、そこは知らない場所だった。
ここは、どこだっけ? ……ラブホテル? そうだ、昨日ここに来たんだっけ。
身体に全く力が入らないし、いまいち頭がうまく回らない。
ぼんやりする視界がようやくはっきりしてきた。すると目に入ってきたのは、真っ青な顔をした慎也さんが心配そうにわたしを覗き込んでいる姿だった。場所と彼の姿に、昨日の恐怖が一気に蘇る。
「昨日は……ごめん」
わたしに伸ばす手に、また首を絞めるんじゃないかとビクッと身体が硬直する。
怖い、慎也さんが怖い……。
わたしの様子を見て、手を引っ込める彼のひどく傷ついた表情に罪悪感が込み上げる。
「あ……」
離れていく彼。また傷つけてしまった……。
「今から病院へ行こう。今ならまだ、間に合うから」
その言葉に初めて気付く。避妊を一切していないことを。わけがわからず涙が出てきて、身体も震えた。
しばし頭が真っ白になったが、みちるの言っていた忠告が脳裏に浮かぶ。
『理性がぶっ飛んだ男は避妊なんてしてくれないわよ。万が一のときでも自己防衛さえしておけば安心でしょう? もういい大人なんだから、ちゃんとしなさい』
恐怖を抱いたものの、若干安心する。みちるのおかげで助かったんだ。
「あ、あの……大丈夫です。病院、行かなくても……。ピル、飲んでるんで……」
言葉に詰まりながら説明する。でも彼の顔が見られない。ピルの服用のことも言っていない。わたし、慎也さんに隠し事してばかりだ。
しばらくの沈黙の後、彼が言った。
「ラナ、俺に触れられるのは嫌かもしれないけど、お風呂に入って身体を綺麗にしよう? 気持ち悪いだろう?」
触れられるのは嫌じゃない。だけど今は怖い。それに……。
「えっ……あの、平気です……。慎也さん、今日会社ですよね? 時間が……」
「会社なんてどうでもいい」
どうでもなくないですよ!
「駄目です! 管理職が何言ってるんですか! わたしは一人で平気ですから、会社、行ってください」
「でも……」
「早く!」
「……わかった。でもこのまま、ここには置いておけない。だから俺の家に一緒に行こう。一度着替えに戻らなきゃいけないし、ラナも着替えがいるよね。気が済むまで休んでくれて構わないから」
何でそんなに優しいんですか? こんな隠しごとばかりしている女なんか放置しちゃえばいいのに。
彼は壊れ物を扱うかのように優しくわたしの身体を清めて、服まで着せてくれる。その優しさが嬉しいのに、身体が恐怖心を覚えていて緊張が解けない。
彼の家に着くとベッドにそっと下される。お風呂は拒否した。だるいし、眠りたいのに全く眠れなかった。ぼーっとしていると、一度寝室を出た彼が着替えて戻って来た。
「……じゃあ行ってくるから。もし何かあったらすぐに連絡して。いいね?」
わたしが頷くと彼は心配そうな顔をしながら出かけていった。玄関のドアが閉まる音を聞いて、ようやく緊張が解けた気がした。
なけなしの体力を振り絞ってかばんを掴み、携帯を取り出す。無断外泊したからか、家から何度も着信があった。今は話す気にはなれなくて、母に謝罪のメールを送る。
それからバイト仲間にシフトを変わってもらうべく電話をする。やるべきことを済ませてから、電池が切れたように意識が遠のいた。
もう、今は何も考えたくない……。
目を覚ませばお昼を過ぎた頃だった。
何とか動けるまでに体力も回復したので、シャワーを浴びることにする。
その際、自分の足を伝うものに、本当に避妊をしなかったんだと実感させられる。その光景に若干青ざめたものの、みちるの忠告がなければこんなに落ち着いて惰眠を貪ったり、シャワーを浴びたりできなかっただろう。
身体中に赤く色づいたキスマーク、手首にくっきりとついたネクタイの縛り痕――――それを見ていると、急に涙が出てきた。
いつもは優しくて、多少強引でも嫌がったらちゃんとやめてくれる彼を、狂気に走らせるまで追い込んだのは自分だ。最低……。雑に扱われても、文句なんて言えない……。
シャワーに打たれながらボロボロと気が済むまで泣いた。
バスルームから出て、着替える。日中はまだ暑い。でも半袖の服なんて、絶対着られない。我慢して、手首を隠せる袖が長めの服を着た。
着替えが終わり、これからどうしようか考える。このままここにいて慎也さんと顔を合わせる勇気はまだない。かといって家に戻って怒られるのも嫌だ。とにかく誰かに話を聞いてほしい。とてもじゃないけど、一人ですべては受け止められない。だけど、誰に?
みちる? ……駄目だ。『だから言ったでしょ』って呆れられる。
姉ちゃん? 妊婦にこんなヘビーな話、出来るわけがない。
美羅ちゃ……無理、無理。ぶち切れて慎也さんのところに殴り込みに行きそうだ。
悩みに悩んでいると、ポンとあの人の顔が頭に浮かんだ。いるじゃん、ヘビーな話に慣れっこで、男の気持ちも女の気持ちもわかる人が。
わたしはその人物に会うべく、彼の部屋を後にした。
その人の部屋の前に到着。ピンポーンとチャイムを鳴らすと、出てきたのはやけに体格のいいワイルド系の男性だった。わたしを見て驚いたようだった。いや、わたしも驚きましたよ。
「どなたかな?」
「えっと……」
「ダーリン、誰?」
男性の後ろから聞き慣れた声がして安堵する。
「ひろみ先生!」
「あら、あんたどうしたの? 今日は料理教室の日じゃないでしょう?」
「とにかく上がってもらえば? 玄関だと何だし」
わたしを招き入れてくれた男性、“ダーリン”って呼ばれてた。ってことはひろみ先生の本命彼氏!? 予想と違ってた……って今はそんなことを考えてる場合じゃない!
リビングに通されて、勧められるままにソファーに座る。お茶を出されて一口飲むと、先生が尋ねてきた。
「顔色がよくないわね。何かあったの? 話を聞いてほしくてここに来たんでしょう?」
「あの……」
いくら先生の彼氏でも、初対面の男の人のいる前でこんな話をするのは嫌だ。チラリと彼氏さんに視線を送ったのに気付いたのか、先生は安心するように言ってきた。
「彼なら大丈夫。職業柄、口は堅いし、困ったことがあれば力になってくれるわ」
それでも黙っていると、彼氏さんが口を開いた。
「やっぱり席外すよ。俺がいると話せない内容みたいだし」
そう言って彼氏さんは部屋を出て行った。なんか邪魔したみたいで、悪いことしちゃったかも。
「先生……ごめんなさい」
「いいわよ。いくらわたしのダーリンだからって、話せることと話せないことがあるわよね。初対面なんだもの。気がつかなくてごめんなさいね」
どうしてだろう。毒舌な先生が今日に限って妙に優しい。
お茶を一口飲んだ後、先生が真面目な顔で訊いてきた。
「で、話したいことって? その首筋の噛み痕が関係ある?」
噛み痕!? 何それ、知らないよ?
痕なんてどこについてるのかもわからずに、多分このあたりだろうと首元を手で押さえた。するとまくれた袖口から手首が見え、それを一瞥した先生が険しい顔をして手首を掴んできた。
「あんた……これ……」
慌てて腕を引き、手首を袖で隠す。先生が険しい顔のまま尋ねてきた。
「一応聞いておくけど、レイプじゃないわよね?」
こくこくと頷く。
「相手は……お兄さんなの?」
こくりと頷く。
「何があったか、話せる?」
わたしは言葉に詰まりながら、昨日あったことを包み隠さず話し始めた。
話し終わった後、先生は難しい顔をしたまま頭を掻いた。
「……話は分かったわ。で、あんたはどうしたい? お兄さんを警察につき出すことだってできるわよ」
え、警察? 言っている意味がわからなくて首をかしげる。
「たとえ恋人でも強姦罪は成立する。あんたが訴えれば、それに基づいて逮捕されることもある」
慎也さんが逮捕? 冗談じゃない! 激しく首を横に振り、否定する。
「そんなことしません! わたしが慎也さんを訴えるなんて、そんな……」
「あんたさっきレイプじゃないって言ったわよね? でもね、お兄さんがしたことは立派な犯罪なの。わかってる?」
駄目なことだっていうのはわかってます。でも……。
「……慎也さん、傷ついてた」
「は?」
「わたしを抱きながら、ずっと悲しい顔してた……。そんな顔にさせたのはわたしのせいなんです。わたしが隠し事したせいで、直樹くんとのことを誤解して……」
「だから許すの? とんだお人よしね」
呆れたようにわたしを見る先生。何とか納得してもらおうと、言わないでおこうと思っていた本心を吐き出した。
「それに……嬉しかったんです」
「え?」
「すごく怖かった。でも嫉妬してくれたんだって、こんなに愛情をぶつけてくれるんだって」
無理矢理わたしの身体を開く彼が、今にも泣きそうな顔で縋るように力強く抱き締めてきた。『行かないで、そばにいて』って言っているようだった。
彼の嫉妬は独占欲の現れ。そこまで愛されているんだって感じた。
「だから訴えたりしません。だって……好きだから」
真っ直ぐに先生を見てそう言うと、大きくため息をつかれた。
多分、こんなおかしなことを言い出すわたしを馬鹿だと思ってるはず。かなり痛いし、おかしいのは自分でもわかってますよ。でもそう思ってしまったんだからしょうがない。きっと変人、いやもう病気かも。
「……あんたがそれでいいなら、もう何も言わないわ。告訴も無理強いしない。だけどね、大変なのはこれからよ。今朝のお兄さんの様子だと、あんたが『気にしてない』なんて言っても絶対納得しないわよ。これから一生罪悪感を抱き続けるかもしれない。そのせいでお兄さん、別れを切り出しかねないわよ」
そうかもしれない。でも、わたしには別れることなんてできない。
「それだけは絶対に嫌です」
きっぱり言い切ると、「そう……」と呟き、先生は表情から険しさを消した。
「しばらく距離は置いた方がいいかもね。お互い、これからのことをじっくり考える時間は必要だと思うから。でもメールでもいいから一言伝えておきなさいよ。一切連絡取らなくなると、こっちがお兄さんを拒絶していると取られたら困るもの」
そのアドバイスを聞き入れる。どういう文面にしよう。言いたいことは、しばらく距離を置いて、考える時間を持つこと。わたしは怒ってないという意思を伝えること。直樹君とは何でもないこと。変わらず慎也さんが好きだということ。
じっくり考えて、次の日になってようやくメールを送ることができた。
でも、どれだけ待っても彼からの返信はなかった。
ラナの思考が痛くなってしまった……
載せようか迷ったけど載せちゃえ! 的な小話を一つ。
本編全く関係なし。
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おまけ小話「ひろみの懸念」
ラナが帰った後、男は戻って来た。
「あの子、帰ったのか?」
「ええ、さっき」
「ひどく泣きはらした顔をしていたが、大丈夫だったか? それでも俺の出番は……なさそうだな」
「ええ、今のところは……」
ひろみの表情が冴えなくて、男は顔を覗き込む。
「随分気にかけているんだ? 珍しいな。ひろみが女を気にするなんて」
ひろみが女と気が合うことは珍しい。料理教室の生徒とも、ちゃんと一定の距離を置いている。彼と仲のいい女を、男は一人しか知らない。
「何かね、放って置けないの。流されやすいし、人を信じやすいから。たとえばDV被害を受けても『これも愛情表現の一種』とか『殴られるのは自分が悪いから』とか言い出しそうで不安なの」
「そんな男と付き合っているのか?」
「ううん、とてもいい人よ。あの子のことを本当に大事にしているわ。今は、ちょっとしたすれ違いで……」
気落ちするひろみを、男はそっと抱きしめる。その腕の中にすっぽり納まったひろみは、クスッと小さく笑った。
「……なんだよ」
「今日は優しいのね」
「俺はいつも優しいけど?」
「そういうことにしておくわ」
ようやく戻ったひろみの笑顔に、男は安堵し、しばらく離れなかった。
ただダーリンを出したかっただけだったりして(汗)




