手荒な励まし
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ラナを突き放してから、すべてがどうでもよく感じる。
ただ機械的に仕事をこなし、家に帰り、夜が明けるまで横になるだけ。ろくに眠れず、睡眠薬代わりの酒も全く効果はない。そのうち薬を処方してもらわなければならないかもしれない。毎日眠れぬ夜を過ごす。
部下達はいつも何か言いたげな表情で俺に視線を向ける。あの令嬢と何かあったということは周知なのだろう。あれだけ動揺していたのだから。
この日もいつもと同じだと思っていた。帰り際、妙に苛ついた設楽に捉まるまでは。
「鮫島、面貸せ」
てっきり家に連れて行かれると思ったら、着いたのは雑居ビルの地下にある看板もないバーだった。設楽が適当に酒を注文した後、静かに口を開いた。
「お前から話してくれるのを待ってたけど、もう限界だ。これ以上は見てられない。いい加減、話せよ」
設楽の口調は、俺に有無を言わせる気はないものだった。
「……何のことだ」
「誤魔化すなよ。そんな顔色悪くして、何かに怯えて、何かを忘れようと仕事詰め込んで……。一人で思いつめるな、一人で抱え込むなよ」
周囲に心配をかけている自覚はある。だがこんな話、誰が言えるものか。
「お前の部下達からも訊かれた。『課長は何か困ったことを抱えているんじゃないですか?』ってな。……答えられなかった。俺はそんなに信用のない男か?」
「そうじゃない」
「じゃあ何だ? ――――言えよ! 俺だけじゃない、部下にまで心配されて、お前は一体何をやってるんだ」
その言葉が胸に突き刺さる。周囲に心配をかけるなんて、俺らしくもない。もう自分で自分がよくわからなかった。
「そうだな、何をやっているんだろうな……」
目の前の酒を一口飲んで、ぽつりと呟いた。
「ラナと別れた」
「はぁ!? 嘘だろ?」
「嘘じゃない」
「ラナちゃんは納得したのか?」
「……」
「……してないみたいだな」
設楽は呆れたように息を吐く。しばし沈黙が続いた。俺はグイッとグラスを煽り、一気に飲み干した。
こいつになら言ってもいいか。きっと俺は一人で抱え込むのに限界を超えていたのかもしれない。
「……松浦の令嬢に言い寄られている。断ったけど、商談を盾にされた。それにラナに危害を加えると」
「断言したのか?」
表情を強張らせた設楽に、小さく首を横に振った。
「いや……、だが匂わせる発言はした。現に、階段から落ちたそうだ。膝をすりむいただけで済んだそうだが」
「それはよかったな」
「だが今度はどうなるかわからない。これ以上俺のそばにいると、彼女が危ない」
「でもそれだけじゃないんだろう?」
設楽を見れば、探るような視線に射抜かれる。
「この前、ラナちゃんに会ってきた。喧嘩していると言っていたが、嘘だろ? 薄くなってはいたが、両手首に痣、それに首筋に大きな絆創膏。……お前、やったな?」
この男は目ざとい。自分の罪を追及されているように感じる。ここまでばれているなら、今更隠しても仕方がない。
「ああ。ラナを狙っている男がいて、キスされているのを見て、嫉妬して――――無理矢理抱いた」
どうやらあらかた予想していたようで、設楽は無言で酒を煽った。
「怯えた視線を俺に向けて、ずっと震えているんだ。それに今度は本当に壊しそうで、怖くてもう……触れられない。あれから罪悪感に襲われて、後悔して、悩んで……すべてから逃げ出したかった。もう限界だった。ラナのそばにいる資格がないと言い訳をして、全部なかったことにしたかった。……最低な男だろ?」
「だから別れた、と?」
「そうだ。それに相手の男は柏原の血縁者。俺と一緒にいるより、ラナは幸せになれるだろう」
俺の話を聞いた設楽は眉をひそめた。
「それでお前は楽になったのか?」
その問いには答えられなかった。
逃げれば楽になると思ったのに、結局そうならなかった。来る日も来る日も、脳裏に浮かぶのは安心しきった顔で無邪気に笑う彼女の姿だ。何度忘れようとしてもできなかった。抱きしめたときの柔らかさ、心地よさ、ふわりと香る彼女の匂い。そのすべてが俺を捕えて離さなかった。
ないものねだりなのに……。俺はそのすべてを自ら手放してしまったのだから。心にぽっかりと空いた穴は、きっと彼女以外では埋まらないだろう。
と、ここで設楽のいる方とは反対側の俺の隣の席にグラスがドン、と置かれ、頭上から冷ややかな言葉が聞こえた。
「鮫島さんって、とんだ大馬鹿者ですね」
振り返り、その人物の顔を見て驚いた。
「三田さん、どうして……」
「俺が呼んだ。後ろの席で待っていてもらった。さっきの話も聞いていたはずだ」
設楽が? でも接点などないはずだ。それが顔に出ていたのか、設楽は説明を始めた。
「ラナちゃんに会いに行った、って言っただろう? カフェを出てすぐ三田さんに声をかけられた。お前の知り合いかと尋ねられてな。それで情報交換したんだ」
頷きながら、彼女は席に座って俺を睨みつけた。
「あの子がしたこともないスカーフ巻いているし、やけに手首を気にしていたからおかしいと思ったんですよ。設楽さんの話を聞いて、何があったかようやく理解できました。本当に理性の飛んだ男って……。どうせ避妊もしなかったんでしょうね」
「ラナ、何も言わなかったのか?」
「言えるわけないじゃないですか。何か隠していたのはすぐわかりましたけどね」
三田さんの棘のある言葉は耳が痛い。だがラナもこんなふうに責めてくれたらよかったのに。きっと自分の犯した罪を誰かに糾弾されたかったのかもしれない。
「ちなみにあの子がちゃんと自己防衛をしていたのは、わたしのおかげですから。うちの方角に足向けて眠れないですね」
「それは、どうも……」
もう小さくなって項垂れるしかない。まだまだ終わらないと覚悟していたが、彼女の小言はここで終わった。
「わたしは鮫島さんを説教しに来たわけじゃないんですよ。どうしてあの子を突き放したんですか」
「さっきも言ったけど、俺にはもうラナのそばにいる資格なんてないんだ」
苦しげに呟いたその言葉を、三田さんはフンと鼻で笑い飛ばした。
「確かに同じ女として、あなたのしたことは許せない気持ちもあります。でも資格云々でいえば、直樹さんにこそそんな資格、ないんですよ」
その口ぶりに、彼女に問いかけた。
「彼のこと、知っているのか?」
「ええ、よ~く知っていますよ。まず、初めに言っておきたいことが一つ。あの子と彼の間に恋愛要素などこれっぽっちもありません。断言します。どこをどうしたらそうなるのか、さっぱり理解できません」
「でも彼、ラナにキスしていたけど?」
「嫌がらせじゃないですか?」
「嫌がらせでキスなんてできるかね?」
設楽の真っ当な問いにも彼女は素っ気なく答える。
「あの人は嫌がらせでキスできる人種なんです」
彼女の表情は嫌悪感でいっぱいだった。どうやら彼女もあの男のことをよく思っていないらしい。
「彼はラナの何?」
「それはわたしの口からはちょっと言えません。あの子から聞いてください。でも恋とか愛とかは絶対ないです。ラナを見ていればわかるでしょう? あの子、ちょっとでも直樹さんになびく素振り、しましたか?」
その問いを否定する。むしろ嫌っていたように思える。
「たとえ直樹さんがどれだけラナに気のある素振りをしたとしても、あの子にはあなただけなんです。前のときとは違って、ちゃんと自分の気持ちを言葉で伝えませんでした? 相変わらず無防備で、考えなしで隙だらけなところがありますけど、馬鹿なりに学習はしていると思います。今のあの子はおそらくあなたを諦めない。腹を括った女は強いんですよ」
「だよなぁ。うちの麻里も強いからな」
苦笑する設楽に、三田さんも小さく笑った。設楽がふっと真顔になり、彼女に尋ねた。
「で、彼にこそ資格がない、とは?」
彼女は頷いて、話し始めた。
「七年前、ラナは直樹さんの恋愛のいざこざに巻き込まれて、誘拐されているんです」
「え……誘拐!?」
「それはまた物騒な……」
やけに冷静な設楽の呟きすら耳に入って来なかった。彼女はやや表情を強張らせて続けた。
「全部説明すると長いんで、要約します。直樹さんは当時から女遊びが激しくて、その女と別れるときにいろいろな人に彼女のフリをさせていたんです。そのときはたまたま適任者がいなかったみたいで、ご飯で釣ってラナに彼女役をさせたんです」
ご飯で釣られるとは、今も昔も変わっていない。
「ご飯に釣られてホイホイついて行ったあの子も軽率ですけど、その相手がまた悪かったんです。どこかの大きな銀行の頭取の娘で、すごくプライドが高かったんです。それであの子に嫌がらせを始めて、それでも効かないとあの子の父親だけじゃなく、わたしの父親にまで圧力かけ始めて」
「三田さんのところにも?」
「ええ。本当に腹の立つ女で、毒吐きまくって心へし折ってやりましたから」
三田さん、怖いな……。背筋が冷えてきた。
「その仕打ちにブチ切れたラナが『文句言ってくる』ってその女に会いに行ったきり、帰って来なくて。で、見つかったときには意識がない状態で、男に服を脱がされかけていたところで……」
そんなことがあったのか……。
予想以上の話の内容に驚愕した。そしてその光景を想像してしまい、その男に殺意が湧いた。三田さんはきゅっと目を閉じて唇を噛み、設楽は額に拳を押し付けていた。しばしの沈黙の後、彼女は話を再開した。
「ラナは薬で眠らされていたので、覚えていませんし、誰もそのことは言えませんでした。幸いにも未遂で済みましたし。見つかってから三日間、眠ったままでかなり心配しましたけど」
「そんな危険な目に遭わせたから、彼には資格がないと?」
「それだけじゃないんです。あの女の家か直樹さんの家かは知りませんけど、醜聞を恐れたのか、もみ消すために権力を使ったみたいで、この件は事件にすらならなかったんです。警察もそれ以上動いてくれなくて、結局犯人も捕まりませんでした」
「何だと……?」
「覚えていないとはいえ、あの子にあんな仕打ちをした奴らがのうのうと太陽の下を歩いている。それがどうしても許せなくて……。――――だけどどうにもなりませんでした。直樹さんは直接関係ないですけど、原因を作った張本人。それをもみ消すなんて犯人たちと同罪です」
そんな目に遭っていなかったなんて知らなかった。
でも無理矢理行為をしようとするところは、俺もそいつらと同じだ……。
「鮫島さん、今、『自分も同じ』とか思いませんでした?」
彼女に心の中を覗かれたみたいで、驚きの目で見る。彼女は小さく首を横に振った。
「同じじゃありません。あなたはあの子を、あの子もあなたを大切に思っている。愛しているんですよね? あんな下衆野郎達と自分を同族なんて思わないでください」
「しかし……」
「それに自分だったら――――もし悠真にそういうことされたら、確かに傷つくし怖いけど、それだけじゃないから。あいつのわたしへの愛情はわかっているし、多分あいつへの気持ちも変わらないから、わたしはきっと許しますよ。当分ネチネチいじめるとは思いますが。あの子もきっと同じだと思います」
三田さんの言うように、ラナも本当に俺のことを許してくれているのだろうか。
「それにラナにも責任はありますよ。直樹さんのことを説明しないのも、キスされるほど無防備すぎるのも悪いんですから。ちゃんと忠告したのに、男の機微をわかってないからこんなこじれたことを引き起こす羽目になったんです。鮫島さんだけが悪いわけじゃありません」
「鮫島、あまり自分ばかり責めるの、止めろよ」
二人の言葉がジーンと心に沁みた。
「俺は……許されてもいいのか?」
「ラナちゃんが許すと言えば、いいんじゃないか?」
「そうですよ。それだけ悩んでいれば十分許されてもいいはずです。もしそれでも自分が許せないなら、償いたいのなら、そばにいてあげてください。あなたを失うことが、あの子が一番つらいことだと思うから」
俺は二人に頭を下げた。
「二人とも、ありがとう。目が覚めたよ」
頭を上げ、正面を見据えて、力強く言った。
「ラナを取り戻す――――あの男には渡さない」
設楽が首に腕を巻きつけてきて、力を込めた。
「よく言った! それでこそ鮫島だ。せっかくのイケメンが台無しだったからな」
「あーあ、よかった。これで美羅さんに怒られずに済む」
「美羅さん? 何を頼まれたの?」
安心しきった様子の彼女に怪訝そうに訊けば、一度深呼吸をして答えた。
「『妹を傷つけたお馬鹿さんにお灸を据えてから、喝を入れてとっとと仲直りさせろ。直樹の大馬鹿なんぞに負けたら肋骨一本で済むと思うな』――――だったかしら?」
血の気がサーッと引いた。やはり彼女は苦手だ。彼女が義理の姉になるなんて、非常に恐ろしい。
「肋骨折られないように気をつけるよ」
「美羅さんは本当にやりますよ。現に一人、病院送りにしたことありますから」
ギョッとしながら、その言葉を受け入れた。
まだ罪悪感は払拭されないにしろ、手荒い励ましを受けて、俺はラナを再び手に入れる決意を固めた。もう誰の権力や妨害にも屈しない。
鮫島視点もあと二話です。




