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別離

今回も暗いです。

 バーでの出来事であの男に喧嘩を売る形となったが、あれから特に何も起こらなかった。仕事がらみで妨害などがあるかと覚悟もしたが、杞憂だっただろうか。もちろんそう思うのは時期尚早かもしれない。何も起こらないことが、かえって恐ろしく感じる。


 日が経つにつれ、彼女に対する罪悪感は大きくなっていった。どうしてあんなことをしてしまったのだろう。俺はただ、彼女と一緒にいたかった。俺の隣で笑う彼女が見たかっただけ。それなのに傷つけた。泣かせて、怯えさせて、壊しかけた。大切にすると誓ったのに、結局できなかった。

 あの男が現れて、関係を疑って、無体を働いて……。



 無意識にどんどん自分を追い込んでいると、ふと昔の記憶がよみがえってきた。






「離婚してほしいの」


「他に好きな人がいるの。もう……あなたとは暮らせない」


 彩に離婚を切り出されたときのことだ。彼女と浮気相手の関係は一年も前から続いていた。それに全く気づくことができなかった。仕事ばかりしていて、家庭のことも、彼女のことも顧みていなかった。今思い返せば、彩の変化は確かにあったのに。

 ガーデニングが趣味の彼女がベランダで育てていた花。結婚当初は緑でいっぱいだったのにそれも枯れ果て、手入れもされずに放置されていた。それに気づいたのは彼女が部屋を出て行った後だった。


 何も言わなくても分かり合えていると思い込み、積極的に話そうなんて思わなかった。お互い仕事をしていたため、ほとんどすれ違いの生活。たまに顔を合わせてもうわの空で会話を交わし、そこに思いやりも愛情もない。俺と彼女はすでにただの同居人になっていたのだ。


 そんな彼女が他の男のもとに行くことを責めることなんてできなかった。俺と彩は愛し合って結婚したわけじゃない。


 外見だけの女の相手に飽きて仕事に集中したかった頃、周囲からの見合い話に嫌気がさしていた彩と再会し、なんとなく交際を始めた。俺は遊びの女との関係の清算を、彩は見合い話を断る口実として、互いを利用していた。新しい出会いを求めるのも面倒になったし、身体の相性もよかったため、そのまま結婚した。


 そんな結婚がうまくいくはずもなかったのだ。彩の申し出を俺はすぐに受け入れた。


 まとめた荷物をソファーの横に置き、離婚届に記入する彩をダイニングから眺めていた。彼女の趣味のものであふれていたものはすべて消え、見慣れた風景の面影など何一つない。


 この部屋、こんなに大きかったのか……。


 ぼんやりそんなことを思っていると、記入を終えた彼女が荷物を持って立ち上がり、こちらへ来た。


「じゃあ行くわ。元気でね」

「お前もな」


 玄関に向かっていく彼女がふと立ち止まり、こちらを見ることなく言った。


「慎也、わたしがこんなことを言う権利なんてないけど、言わせて。ちゃんと恋、してね。わたしはできなかったけど、あなただけを見て、あなただけを愛してくれる人はちゃんといる。その人に出会うことができたら、今度はちゃんと会話して、愛情を注いで、大切にしてあげて。後悔することのないように。あなたに……幸せになって欲しいから」


 そして彼女は出て行った。







 彩、俺はまた失敗したよ。せっかく俺だけを見てくれる人に出会ったのに、結局大切にできなかった。後悔ばかりだよ。学習能力のない男だ。


「……ょう、課長!」


 仕事中にも関わらず物思いにふけていると、俺を呼ぶ声がする。顔を上げれば、部下の森口が立っていた。


「……ああ、すまない」

「課長、大丈夫ですか?」


 心配そうに俺を見る森口。


「何がだ?」

「顔色悪いですし、最近よくボーっとしているので」


 部下に心配されるとは、俺もまだまだだな。


「いや、何ともない」

「ならいいんですけど……」


 心配そうな森口に仕事に戻るように言い、気を取り直して書類に目を落とす。


 最近は残業と休日出勤を繰り返している。仕事をしていれば何も考えなくていいから。ラナのことも、あの男のことも。


 定時を過ぎても仕事をし続ける。幸いにも片づけなければならない仕事は山ほどある。

 夢中でこなしていると一本の電話がかかって来た。あの迷惑な社長令嬢だった。その名前を聞くだけで眉間に皺が寄る。


「お待たせしました、鮫島です」

『松浦です。まだお仕事なさっているんですか?』


 こっちは忙しいんだよ。仕事と遊びの区別もつかないあんたと違ってね、と心の中で悪態をつく。


「ええ、多忙なもので。で、ご用件は?」

『お食事でもいかがかかしら?』

「申し訳ありませんが立て込んでおりますので」


 媚びへつらう甲高い声が耳障りで仕方がない。そんな用事で会社に電話してくるな。

 早く電話を切りたいのに、相手は構わず話してくる。


『つれませんわね……。――――そうそう、鮫島さん。あなた、恋人がいらっしゃるのよね。確か……、ラナさん』 


 思わず受話器を握る手が震えた。なぜこの女がそれを知っているんだ。


『彼女より、わたくしの方があなたに相応しいのではなくて?』

「私はそうは思いませんが」


 声も震える。どうして彼女のことを持ち出してくるんだ。妙な胸騒ぎがする。


『あなたがあまりにわたくしに対してつれない態度だと、ついつい嫉妬に駆られてしまいますわ』


 フロアに残っている部下達が怪訝な顔をしてこちらを窺う。俺はその視線から顔を逸らす。


「……どういう意味でしょうか?」

『――――彼女、身辺に気をつけた方がよろしいですわ。……では』


 電話は突然切れた。俺はしばらく固まったまま動けなかった。


「課長、いかがなされました?」

「あの令嬢、何の用だったんですか?」

「顔、真っ青ですよ」


 口々に心配そうに声をかける部下達。俺はゆっくり受話器を置いて大きく息を吐く。


「……何でもない」

「そんな様子には見えないですよ!」

「……少し休憩してくる」

「課長!」


 俺は部下の顔をまともに見られず、足早にフロアを出て行った。喫煙室に入り、煙草に火をつけようとするが指先がまだ震えている。


 あの女、ラナに危害を加える気なのか? 


 浮かんだ懸念にまさかな、と必死に打ち消す。そんな愚かな真似、さすがにしないだろうと。ただの脅し、そうに決まっている。


 何とか気を落ち着かせてフロアに戻る。心配そうな部下を尻目に、俺は仕事を再開した。







 午後九時。帰宅しようと会社を出るとそこにラナの姿があった。思わず目を見開き、立ち尽くした。


「ラナ……」

「慎也さん、お久しぶりです」


 ゆっくりと俺に近寄る。今日はあのときの様に怯えた目で俺を見ることはなかった。その様子に少し安堵する。しかしこんな夜に出歩いて、やはり危機感がない。


「こんな遅くに危ないだろう」

「まだ九時です。――今日は慎也さんに訊きたいことがあって来ました」


 かばんから取り出したものを俺に渡した。


「こんな写真が送られてきました。この人と慎也さん、どういう関係なんですか?」

「誰がこんなものを……」

「差出人は不明です」


 接待であの令嬢とホテルに行ったときの写真だった。明らかに盗撮写真だとわかるそれ。一体誰が、何の目的でこんなものを……。

 しばらく無言で写真を見つめ、口を開いた。


「彼女は取引先の人だよ。接待で食事をしただけだ」

「腕、組んでますよ?」

「無理矢理組まされたんだよ」


 浮気を疑うような口調に苛立つ。自分はあの男に唇を許したくせに、たかが腕を組んだだけで俺を責めるのか。


「自分はあの彼との関係を言わないくせに、俺のことは責めるんだな」


 その言葉に彼女の顔が強張った。


「……そうですね、その通りです。わたしに慎也さんを責める資格なんてないんですよね」


 自己嫌悪に陥った彼女に心が痛む。こんなことを言いたかったわけじゃないのに。


 ふと彼女の足に目を向けた。膝にガーゼが貼ってあったのだ。


「……足、どうしたの?」


 自分の足に視線を移し、彼女は何てことない口調で言った。


「誰かとぶつかって、足を滑らせて転んじゃったんです。でも奇跡ですよ。階段から落ちたのに膝すりむいただけですもん」

「階段から……落ちた……?」


 目の前が真っ暗になった。すぐにあの令嬢の言葉が浮かんでくる。


 『彼女、身辺に気をつけた方がよろしいですわ』


 単なる彼女の不注意とは思えなかった。故意にぶつかってきたのではないだろうか。俺を脅すためにラナに危害を加えたんじゃないだろうか。嫌な考えが頭をよぎる。


 ――――駄目だ、もう無理だ……。俺のせいで、これ以上彼女を傷つけることはできない。


 俺は彼女の顔を見ることなく、言った。


「ラナ……終わりにしよう」

「え……?」


 俺の言葉が理解できないようで、戸惑いの声を上げる。


「もう……会わない」

「どうしてですか!?」

「これ以上、傷つくラナを見ていられない」

「わたしは傷ついてなんかいません!」

「そう思い込もうとしているだけだ。……ラナ、俺を捨ててくれ」

「何を言ってるんですか……」


 本当に何を言っているのだろう。


 俺に別れを切り出す権利なんてものは存在しない。だから彼女に自分を見限るように強要している。しかし本心は自分から手放せないから、彼女に言わせようとしているだけだ。どこまで情けない男だろう。


「……嫌です」


 キッと睨みつけるように俺に視線を送る。俺は未だに彼女をまともに見られないのに、その視線の力強さが少し羨ましい。


「わたしは傷ついてなんかいない。もう慎也さんを見ても怖くないし、触れられても嫌じゃない。罪悪感を抱かなくてもいいんですよ!」

「無理だよ。俺はあの日、自分がしたことを許せない。たとえどんな理由があろうとね。あれは紛れもない犯罪行為。ラナが訴えるなら、警察でもどこでも行くつもりだ」

「しませんよ、そんなこと。もう気にしてないって言ってるじゃないですか!」

「俺が気にするんだ。彼への醜い嫉妬をラナにぶつけるなんて間違っていた。あんな怯えた目で見られて、別れを切り出されるんじゃないかってずっと不安だった。だから連絡も取れなかった。情けない男だよ……」


 話しながら、どんどん自己嫌悪に陥る。


「こうして会っている今でも、本当はもう俺のことが嫌いになったんじゃないかと思ってしまう。さっき言ってくれた言葉も信じられないんだ。自分に都合のいい妄想じゃないかと。――――おかしいよな。こんな男、捨てたほうがいい」

「別れません! だって好きなんです。どんなことされても、慎也さんじゃなきゃ駄目なんです!」

「それにもう触れられない。……怖いんだ。今度狂気にのまれたら、きっと止められない。もっとひどいことをするかもしれない。壊してボロボロにして、また泣かせて傷つける……。それでもそばにいたいなんて、虫のいい話だ。自分に触れてくれない男なんて、嫌だろ?」

「だからわたしが捨てろと言うんですか?」

「……ああ」

「そんなの卑怯ですよ……」


 本当に卑怯だ。結局俺は自分が一番かわいいんだ。彼女に対する罪悪感と身の安全を建前に、彼女から引導を渡されて今の状況すべてから逃げ出したいんだ。


 ラナと離れてしまえば、忘れてしまえば、罪悪感に悩むこともなくなる。これ以上、醜い嫉妬心で身を落とす自分を知られることもなくなる。あの男の妨害も、令嬢からの脅迫も心配する必要がなくなる。彼女と出会う前に戻れば、すべてが元通りになる。また仕事だけの人生を送ればいい。


 彼女も危害を加えられることもないし、あの男と一緒になったほうが幸せになれるかもしれない。これ以上俺のそばに居続けて傷つく姿を見るぐらいなら、どこか遠くで笑っていてほしい、幸せになってほしい。たとえその隣に他の男がいたとしても……。


 しかし彼女はその提案を受け入れてはくれなかった。目に涙を浮かべ、怒鳴った。


「……どうしてわかってくれないんですか。もういいですよ。慎也さんの馬鹿!!」


 そして俺の前から走り去った。本当は追いかけて、引き止めて、抱き締めたかった。息をする暇もないほどキスして、その温もりを感じたかった。自分から手を離したくせに、何を考えているのだろう。


「馬鹿な男だよ、俺は……」


 自嘲の笑みを浮かべながら、彼女の走り去った方向をずっと見つめていた。




本当になんかすみません。

次回ちょっと浮上しますから許してください(汗)

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