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一難去らずに

まだまだ鮫島は急降下していきます。

 翌日、ラナからメールがあった。




『 慎也さんへ


 昨日は勝手に帰ってごめんなさい。でももう大丈夫です。

 一昨日の夜のことは気にしていません。だから慎也さんも気にしないでください。

 だけど、まだ顔を合わせるのはちょっとつらいので、しばらく距離を置きたいです。

 わがまま言ってごめんなさい。

 あの人は本当にただの知り合いで、それ以上の関係はありません。

 それから、わたしはどんな慎也さんでも大好きです。

 これだけはちゃんと言っておきたかったんです。


  ラナ   』





 連絡をくれるとは思ってもおらず、嬉しかった。

 しかし俺はあれから電話はもちろんのこと、メールの返信すらできずにいる。本当に大丈夫なのか心配だったが、やはりあわせる顔がない。もし次に顔を合わせるときに、怯えた目で俺を見るのではないか。『気にしていない、大好き』とは言っているものの、こんな狂気を抱える俺に愛想を尽かし、あの男のところへ行くために別れを告げるのではないか。そう思うと不安でいっぱいだった。


 あの男への嫉妬を彼女にぶつけるなんて間違いを犯した俺のことを、責めずに歩み寄ろうとしてくれるなんて……。もっと怒ってくれればいいのに。お人よしもいいところだ。

 携帯を手にしては、ため息をついてそれを投げ捨てる。


 私生活の不安を隠し、俺はいつも通りに仕事をこなすことに専念した。平静を装い、何でも嗅ぎ付ける設楽さえもどうにか欺く。

 仕事中はまだいい。しかし一人になると精神的にボロボロだった。後悔ばかりだ。離婚のとき以上に堪えている。酒に逃げようにも、ちっとも酔いが回ってこない。


 ところが仕事でも厄介な問題が起きた。とある大手他社との商談の際、相手企業の女性社員に目をつけられた。そういうことは割とあるのだが、あからさまに邪険にできない理由があった。その女性社員はその企業の社長の娘だったのだ。


 彼女は自分が社長の娘だということを前面に押し出し、露骨に迫ってくる。やんわり断れば「この商談がうまくいかなくてもいいのか」と脅しにかかる。

 しかも部長のこの商談に対する熱の入れ具合が半端なく、「どんな手段を使っても、この商談はまとめろ」と言う始末。仕事でも精神的に参ってしまった。


 あるとき打ち合わせと称して、とあるホテルでの食事に誘われた。しかも俺と彼女の二人きり。


「仕事の話なら、部下とともに御社に伺います」

「あら、上で話を進めて部下に指示すれば済む話だと思いますが? この食事もれっきとした接待ですわよ」


 面倒なことに彼女は部長にも話を通してしまい、「上司命令だ」と有無を言わせず俺をホテルに向かわせた。


 結局仕事の話などほとんどなく、彼女の自慢話が大半。遠回しに自分を売り込んでいるかのようだ。有名な高級フレンチでおいしいはずなのに、全く味がしない。ラナと食べた、あの食事がどれだけおいしかったことか。

 そう考える自分に笑えてきた。そんなことを思う資格、もう俺にはないのに。


 帰り際、ロビーで部屋に誘われた。何しに来たんだ、この女。自分に自信満々なようだが、もはや嫌悪感しかない。


「今日は仕事の話だということでお付き合いしましたが、これ以上は職務範囲外です。失礼します」


 そう言って立ち去ろうとした。ところが、そこに見知った顔を見つけて思わず足を止めた。相手も俺に気づき、近づいてきた。


「こんばんは。確か……鮫島さんでしたね」


 あのレストランにいた、ラナの知り合いの男だった。


「……こんばんは」

「こんなところでお会いするとは。……お連れの方もいらっしゃるようで」


 彼はすぐそばにいた彼女を見る。彼女はしばし彼に見惚れていたようだが、ハッと我に返った。


「は、初めまして。わたくし、松浦物産の社長の娘で松浦麗華と申します。以後、お見知りおきくださいませ」


 彼女は自己紹介をしながら自分を売り込んでいる。したたかな女だ。より嫌悪感が湧き上がる。いっそ彼へ標的を変えてくれないかとすら思う。


「ラナと別れて、もう他の女ですか。変わり身が早いですね」


 彼の言葉にカチンときた。別れたわけじゃない。……まだ。


「松浦さんとは仕事上で食事をしただけです。それにラナとは別れていませんが」

「二週間会っていなければ、連絡も取っていない。別れたも同然では?」


 どうしてこの男がそれを知っている? 睨みつける俺を目に止めつつ、彼は「そういえば自己紹介がまだでした」と名刺を取り出して俺と彼女に手渡した。それを見て、俺は驚きのあまり思考が停止した。


『KISC 開発推進部 課長 柏原直樹』


「まぁ、あの柏原グループの?」


 言葉が出ない俺の横で、彼女が目を輝かせている。


 柏原グループといえば国内にとどまらず、世界にも名の通った大企業。うちの会社とも取引があるはず。柏原という名字、ラナと同年代ですでに課長職。ということは――


「ええ。祖父が会長をしています。わたしはただの一社員ですがね」


 やはり柏原の血縁者。ただ聞くところによれば、柏原会長は絶対成果主義。たとえ血縁者といえど、使えない人間は切り捨てるとのこと。ならば目の前の男はそれなりに能力があるということか。


「でも、将来的には会社をお継ぎになるのでは?」

「兄がいますからね。私はその補佐に納まるでしょう」


 たとえそうでも彼は将来、柏原グループの上層部に名を連ねる人間。彼と比べて俺は……。

 自虐の渦に飲みこまれているうちに、彼は彼女に言った。


「失礼、松浦のご令嬢。鮫島さんをお借りしてもよろしいですか? 勿論、当家の車でご自宅までお送りいたします」

「え、ええ。も、もちろんです。しかし送っていただかなくても結構ですわ。自分で車を呼びますので」

「いえいえ、遠慮なさらずに」

「で、では、鮫島さん。また会社でお会いしましょう」


 彼女は少し慌てたように去っていった。その後ろ姿をしばらく眺めた彼が俺に向きなおる。


「では鮫島さん。少々お付き合いいただけますね?」


 年下であるにも関わらず、俺は断る権利すら奪われたような気分になり、連れられるままホテルのバーへ向かった。


 そこはとても落ち着いた雰囲気だった。正直言って、こんな精神状態のときに来たくはなかった。そして恋のライバルかもしれない男と飲みたくもない。もう何を飲んでもおいしくはないと思い、無難にビールを注文した。彼はブランデーを頼み、すぐに目の前のカウンターに置かれた。それに手をつける気になれず、ビールの泡を凝視していると、彼が口を開いた。


「接待も大変ですね。それにあの令嬢はあなたに気があるようだ。ラナみたいなどこにでもいる小娘なんかより、いろいろ都合がいいのでは?」


 その口調に苛立つ。何を思って、そう決めつけているのだろうか。


「……おっしゃっている意味がわかりません」

「平凡なあいつと社長令嬢なら比べるまでもない、という意味ですよ」

「それならあなたが松浦さんを選べばよいのでは?」


 言葉は丁寧、でも棘があるように返せば彼は小さく笑った。


「なるほど、そうきますか。――――しかし鮫島さん。うちと松浦が手を結ぶのに、婚姻する必要なんてないんですよ」


 話があるなら早く核心に触れて欲しい。


「はっきり言っていただけませんか?」

「わかりました。でははっきり言いましょう。ラナのことは諦めてください。私にはあれが必要なんです」


 俺は鋭い視線を彼に向ける。やはりこの男は彼女を……。


「あなたほどの人ならば女に不自由しないでしょう。手を引いていただけませんか? もし受け入れていただけるなら、それ相応の謝礼は致しますよ」


 ふざけるな。そんなに簡単に手放せるわけがない。


 俺はグラスを掴み、一気に飲みほし、勢いよくグラスを置く。


「お断りします。彼女は私の大切な人です。代わりなんてどこにもいない」


 乱暴に紙幣をカウンターに置き、立ち去ろうとすれば、冷ややかな声が背にかけられた。


「大切……? 無理矢理身体を押し開いて、獣のように貪って、よくそんなことが言えますね?」


 その言葉に驚愕し、ゆっくり振り向く。


「なぜそれを……」

「あなたはあいつを傷つけた。そんな男にあいつはやれない」


 その真剣な表情に負けそうになる。


 脳裏に泣き叫び、必死に抵抗する彼女の姿が浮かんだ。そして俺に怯え、身体を震わせる姿も……。


 それでも何とか声を押し出した。


「でも……手放せない……」

「……そうですか。では“柏原”に逆らう、ということでよろしいですね?」


 俺は肯定も否定もせず、ただ彼を見ていた。彼は立ち上がり、すれ違いざまに俺に言った。


「後悔しても知りませんよ」


 彼が去っても、俺はしばらくその場から動けなかった。




もうちょっと暗い話が続きます。


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