恋せよ、少年! 後編
さて何かが起きます。
「拓也くんはさ、どの学科を志望してるの?」
「……機械学科」
「そっかぁ。わたしはね、電子情報工学だったんだ」
勉強を始めた僕に女は尋ねた。
僕は小さなプライドをズタズタに切り刻まれたことでショックを受け、落ち込んでいた。
女はそんな僕の心情を知るはずもなく、数学の問題集に目を通していた。何やらブツブツ呟き、頷いていた。
問題がなかなか解けない僕に、女はあるアドバイスをした。
「悩んでもわからなかったら答えを見てもいいよ。で、解き方を覚えて解いていけばいいんだよ。解き方さえ理解できれば怖いものなし!」
悔しいけどその言葉に従った。僕が問題を解いている間、他の教科の問題集を開いて解いているようだ。メモ帳にどんどん数式を書き連ねていく。
チラリとそのメモ帳を見た。そこに書かれていた数式には見覚えがあった。かなりの応用問題で僕が解けなかった問題だ。答えを見て嬉しそうな顔をする女の顔が目に入る。
この女、デキる……。
僕がこの女を認めた瞬間だった。思えば僕は自分が尊敬できる人に憧れを抱くみたいだ。叔父がその筆頭。この女は僕が苦手な数学……いや、志望校に入れるほどの知能を持った人間だということ。僕の中にあった、この女に対する嫌悪感がなくなった。
認めてしまえば僕は単純だった。この女の説明はわかりやすく、的確に質問に答えてくれた。わからない問題にぶち当たると、すぐに諦める僕に「諦めちゃ駄目」と言って励ましてくれた。
そうこうしているうちに夕飯の時間になった。
「じゃあ続きは夕飯の後ね」
夕食後、少し時間をおいて女がやって来た。
「遅くなってごめんね。次はどの問題?」
女の姿に思わず顔が赤くなった。湯上りで頬が上気している。クリップでまとめてあった髪の毛からはシャンプーのいい匂いがする。僕はこの女に“女”を感じてしまった。
何してるんだよ。この女は叔父さんの彼女だぞ! そんな目で見るな!
ドキドキしながらも勉強を進める。が、意識してしまったことで勉強が手につかない。それを僕が諦めたと勘違いした女が声をかける。
「拓也くんは基礎がちゃんとできているから、諦めないで。きっとできるよ」
その言葉に心の中で喝を入れて問題に向かう。
正解して褒められたい、その一心で。
時刻はもうすぐ十一時。女がうとうととし始めた。無理させたかと心配になる。
「大丈夫? 眠いなら、もういいよ」
「いや、大丈夫! 起きてるよ。さ、次の問題」
そう言葉を返すものの頭を垂れていく。十分もしないうちに机に突っ伏して寝息を立て始めた。その寝顔に見入った。あどけない寝顔。そういえば女の人の寝顔を見るのは家族以外はじめてだ。
僕はそっと頭に手を伸ばし、髪をまとめてあったクリップを外した。サラッと黒髪が顔に落ち、その瞬間にふわりといい香りが鼻腔をくすぐる。
そんな女から視線を外すことなく、小さく呟いた。
「ラ、ナ……」
初めて呼んだ名前。ゆっくりと頭に手を伸ばそうとしたとき。
――――トントン
部屋をノックする音にギクッとし、慌てて手を引っ込めた。ドアの向こうから叔父が顔をのぞかせた。僕はすぐさま女から視線を外す。どうやら叔父は女が寝ていたことに薄々感づいていたようだ。
「勉強中悪いが、また明日にしてやってくれ」
僕は頷いた。叔父は女の顔から髪の毛を払い、声をかけた。
「ラナ、寝るなら布団で寝なさい」
すると女はうっすら目を開けて「うーん」と唸り、眠そうな声を上げた。
「……起きてますよぉ。寝てません……」
その様子にため息をついた叔父は、軽々と女の身体を抱き上げて僕に言った。
「じゃあ連れて行くから。あんまり無理するなよ」
「うん……」
叔父が部屋を出て行く後姿を見つめた。
お似合いだと思った。叔父があの女を見る、優しい顔が僕を苛立たせる。
しばらくそのまま動けなかったが、ふと手に握ったままのクリップに気がついた。
しまった、返さなきゃ……。
僕は部屋を出て二人がいる和室に向かった。部屋の前で声をかけようとして止まる。部屋の中からチュッという音と共に声が聞こえた。
「……んっ……ぁ……」
「……ラナ……」
少しだけ開いていた襖の隙間から部屋の中を覗き込む。
布団に横たわる女、その上にのしかかっている叔父。叔父が何度も女にキスをし、女は色っぽい声を上げる。その光景から目が離せなかった。部屋の中は枕元の照明だけで薄暗い。叔父の表情はもちろん見えない。しかしなぜか女の表情だけははっきりと見えた。潤んだ瞳で叔父を見上げていた。
「……慎也さ……」
弱々しい声で叔父の名前を呼ぶ。その言葉に叔父は唸るように言った。
「……もう限界」
静かな部屋に再び響き渡るリップ音、熱い吐息、低い掠れた声とそれに応える甘い声……。
叔父が女の首筋に顔を埋め、女は身をよじるように頭を左右に振る。視線は熱を帯び、それを目の当たりにした僕は全身が熱くなる。叔父の手が女の服の裾から中に入っていく。
もうこれ以上は見ていられない。
僕は走って自分の部屋に戻った。入るや否やベッドに倒れ込み、枕に顔を押し付け、唸った。あれは何だ。いや、どういうことかわかる。恋人同士ならああいうことがあってもおかしくない。でも……。
ドクドクと心臓が鼓動する音がやけに大きく聞こえる。身体が熱くて、それはなかなか冷めない。風呂へ向かって水を浴びる。真夏だから風邪を引くことはないだろう。それでも身体の熱は収まらない。部屋に戻って再びベッドに倒れ込む。
眠ろうと思って目を閉じても、あの光景が浮かび上がる。薄暗い部屋に浮かび上がる女の蕩けた顔、叔父の大きな手で布団に縫い付けられた細い手首。昼間に見た印象とは真逆の、色香を纏った大人の女に見えた。
結局ほとんど眠れなかった。夜が明けて、だるい身体をゆっくり起こし、ボーっとする頭を振る。
居間に向かうとバッタリ叔父とあの女に遭遇した。女は何事もなかったかのように僕に挨拶をする。
「あ、拓也くん。おはよう。昨日は寝ちゃってごめんね」
二人を見た途端、みるみる顔が赤く染まった。一瞬で昨日見た光景がよみがえる。
『……んっ……ぁ……』
『……ラナ……』
『……慎也さ……』
『……もう限界』
居たたまれなくなった僕は、その場から逃げて家を飛び出した。向かった先は近所に住む幼馴染・隆之の家だ。おばさんに挨拶し、隆之の部屋に飛び込んだ。
「隆之! 起きろ!」
ベッドで寝ていた隆之にタックルした。隆之は不機嫌そうに唸り、起き上がって僕を睨みつけた。
「朝からうるせぇ……。休みの日ぐらいゆっくり寝かせろよ……」
文句を言った後、隆之は僕の顔を見て首を捻った。
「……お前何で顔を赤くしてんだよ」
僕の様子がおかしいと気づき、頭をぼりぼりと掻いた。
「話してみろよ。何があった?」
僕は隆之に昨日あったことを正直に話した。黙って僕の話を聞いていた隆之は苦い顔をした。
「お前、本当に顔に似合わず純情だよな。ま、仕方ねぇよな。そんな光景、生で見ることないし。健全な男子高校生だもんな」
僕はこくりと頷いた。すると隆之は急にニヤニヤし始めた。その顔を見て、僕は眉間に皺を寄せる。
「その顔、何?」
「いや、お前、その人に惚れただろう?」
は? 惚れた? 僕があの女に?
「冗談じゃない! どうして僕があんな女に」
「いやいや、日頃から女に無関心なお前が気にするってことは珍しすぎる。気になるんだろ?」
「それは気になるさ。叔父の彼女なんだから。騙されているかもしれないし」
「でもそれだけじゃないだろう? ギャップで堕ちかけたところに思いがけず色気のあるところ見せられて、完全にやられたんじゃねぇ?」
そう、なのか? 確かにギャップはあった。下に見ていた馬鹿っぽい女が実は意外に頭がいいこと。そして色気の“い”の字もなかった女に感じた色気。
僕はあの女が好き、なのだろうか?
僕が黙り込んでいると隆之がしみじみ呟いた。
「しかしあの完璧なお前の叔父さんがライバルって厳しいな。勝てる気がしない」
確かに。僕みたいなガキが勝てる相手じゃない。
「お前に勝てるとすれば若さと体力、それに純情さしかないな」
純情さって何だよ。
「お前の方がその人と年近いんだし、話は合うよな。工業に興味があるってところで共通の話題もあるし。まだ勝負はついていないんじゃねぇの?」
「でも、結婚を前提って話だし……」
言いよどむ僕に喝を入れるように隆之は言い切った。
「そんなこと気にするな! 奪っちゃえよ。志望校に合格すればお前、一人暮らしするんだろう? “恋人の甥っ子”って立場を上手く利用して近づいてモノにしちゃえよ」
僕にそんなことができるんだろうか? 叔父を裏切ることができるんだろうか。
「ま、とりあえず朝飯食ってけよ。腹減った」
隆之に促され、朝食をごちそうになる。その後も隆之はなんだかんだ言って励まし、応援してくれた。
昼近くになり、隆之の家を後にして僕は一人になれるところへ向かった。林の間を縫って歩き、行き着いた丘に僕は寝転がった。
叔父の恋人で、僕の志望校を卒業した人。その辺にいる普通の女だったのに、今はそうは思えない。脳裏に浮かぶその顔は、なぜか初めて会ったときよりかわいかった。これが恋なのだろうか? 僕の初恋……?
ぐるぐると頭の中で考えを巡らす。そして自分の想いを認め、僕は決意した。
家に戻ると叔父とあの人が帰るところだった。走って駆け寄る。
「あ、拓也くん。あんまり役に立てなくてごめんね。勉強頑張ってね」
そう声をかけられて、ぜーぜーと荒い息をしながら僕は宣言した。
「僕、諦めないから」
絶対諦めない。この人は叔父の彼女で、初恋は実らないといわれる。でも……。
僕の言葉にニッコリ笑い、返事をされた。
「うん。応援してるね」
この人はきっと知らない。僕が諦めないと言ったのは勉強だけじゃないということ。今はそれでいい。志望校に合格して、釣り合う男に近づいて会いに行ってやるから、首を洗って待ってろよ。
走り去る車をじっと見つめながらポケットの中に手を突っ込む。その手に触れるのはあの人が使っていたクリップ。それをギュッと握りしめ、僕は誓ったのだった。
意外にピュアな少年でした。
次回から鮫島視点です。




