彼の過去の傷とわたしの決意
内容は鮫島の独白ですがラナ視点です。
熱が下がってから三日が経った。またバイト生活が始まる。一週間ぶりにカフェへ行くとみんなが口々に言った。
「元気そうじゃないっすか。ちょっと前のラナさん、マジで死にそうだったから超心配したんですけど」
「そうそう。あの状態で普通に接客してたとか、マジありえね~んですけど。逆に尊敬~」
「とにかく元気になったみたいでよかったよ」
野口くん、サヤカちゃん、店長の言葉に、感謝の気持ちでいっぱいだった。普通にバイトしていても、見ているだけで痛々しい感じだったらしい。随分心配をかけてしまったようだ。
「ご迷惑かけてすみませんでした。もう大丈夫です」
和食料理店でも同じようなことを言われた。皆さん、心配かけてすみませんでした! これからは体調管理をしっかりします!
週末、鮫島さんの家に向かった。わたしが訊きたいことを訊くために。
「もう少し元気になってからの方がいいんじゃない?」と言われたが、今がいい。というのも、あの日仲直りをしたときから決めていたことがあったから。それには今日じゃなきゃ駄目だった。
出迎えた鮫島さんは、わたしの顔を見てホッとしたようだった。
「もういつも通りみたいで安心した」
わたしもまた、こうして鮫島さんの家に来ることができて幸せです。もうこんなことはないと覚悟してましたから。
ソファーに座り、鮫島さんが来るのを待つ。キッチンからコーヒーを手にしてやって来て、わたしの横に腰かけた。わたしにマグカップを手渡した後、コーヒーを一口飲んで彼は尋ねた。
「どこから話そうか?」
「……彩さんとのこと、言える範囲で」
そう言うと頷き、語り始めた。
「俺と彩が知り合ったのは大学のテニスサークルだ。彩は同級生で、気が合って仲良くなった。でも学生の頃はただの友達。それ以上でもそれ以下でもなかった」
わたしは黙って鮫島さんの横顔を見つめる。今わたしがしようとしていることは、彼の心の傷を掘り返しているだけだ。再びつらいことを思い出させる行為。ひどいことをしている自覚はある。それでも訊きたい。もう何も知らないで疑心暗鬼になるのは嫌だ。
「付き合い始めたのは二十七のときだ。偶然再会して自然に付き合い始めた。半年ぐらい付き合って、結婚したかな。彩は何も言わなくても俺のことをわかっていてくれる、そう思っていた」
最後の言葉に心が痛む。完全に嫉妬してる。その信頼が羨ましい。そんなに信頼される、素敵な女性だったのだ。
「でもそう思っていたのは俺だけだった。新婚当初から、俺は仕事が楽しくて家庭を疎かにしていた。彩は文句ひとつ言わなかった。そのときは彩も仕事をしていたから、仕事する人間の気持ちがわかっていると甘えていたかもしれない」
少しだけ元嫁がかわいそうになる。新婚当初から放置はひどいよ。そりゃ浮気したくなるよ。いや、浮気は駄目なんだけど。
「後から知った話だけど、彩は寂しくて相当悩んでいたらしい。それで会社の先輩に相談しているうちに関係を持ったそうだ。結婚して一年ぐらい経った頃からね。俺は彩の変化に全く気づかなかった。結婚して二年が経ち、彩から離婚を切り出されてはじめて浮気の事実を知ったんだ。情けないだろう?」
わたしは何も言えなかった。ただ鮫島さんの悲しそうな顔を見つめることしかできない。
「俺に離婚を拒む資格なんてなかった。確かに浮気したのは彩だけど、その原因は俺だから。俺が仕事にかまけて彩の寂しさに気づいてやれなかったから、完全に俺が悪い。そのとき俺が彩にしてやれることは、早く離婚することだけだった。だからすぐに離婚した。落ち込まなかったといえば嘘になる。結婚までしたんだからな。でもラナと出会ってからわかったよ。彩に対して抱いていた気持ちとラナへの気持ちは違ったって」
鮫島さんはわたしの頭をそっと撫でた。昔を思い出して苦しんでいるかのような彼の顔に、わたしは胸が痛くなった。
「彩への気持ちは恋や愛とは違ったかもしれない。結婚したのも、一緒にいるのが苦痛じゃないという理由だった。それまで付き合ってきた女達は、ずっと一緒にいられるタイプじゃなかったから。俺はそれでよかったけど、彩はちゃんと愛されたかったんだと思う。俺にあいつを本当の意味で愛することができなかった」
そんな気持ちで結婚ってできるのかな? 経験値の低いわたしにはわからない。でも鮫島さんはちゃんと元嫁のことが好きだったと思う。好きじゃなきゃ、さすがに結婚はしないでしょう?
「離婚した直後に傷心旅行で行ったのがあの場所だった。確かに合宿で彩と一緒にあそこには行ったけど、それ以外で彩とあの場所には行っていない。ラナをあそこに連れて行ったのは、大好きなあの場所にある悲しい思い出を、ラナとの楽しい思い出に塗り替えたかったから。ちゃんと説明しなかったから、大暴走されちゃったけど」
「……ごめんなさい」
かなり落ち込む。ちゃんとわたしのことを大切に思ってくれていた人に、悲しい思い出の上にさらに苦しみを与えてしまったのだ。
鮫島さんは首を横に振った。
「謝らなくていい。それから斉藤が言った『ラナと彩が似ている』っていうのは気にしなくていい。全く似てないよ。あいつは人と変わった見方をする奴だから」
「じゃあ、彩さんの身代わりじゃないんですね?」
わたしの言葉に、鮫島さんは目を丸くした。
「身代わり!? ありえない。もう彩のことは吹っ切れたし、何とも思ってない。あっちは再婚して幸せに暮らしているだろうし、俺にはラナがいるからね」
優しく微笑む様に、堪らなくなって鮫島さんに抱きついた。そして小さな声で言う。
「勝手に暴走して、ごめんなさい。せっかく癒えた傷をまたえぐって、傷つけて、苦しめて……。彼女失格ですね……」
鮫島さんはわたしの髪を撫でながら、抱き締め返してくれた。
「それなら俺も彼氏失格だよ。同じ失敗をまた繰り返したんだから。何も言わなくても気持ちが伝わるなんてありえないのに。ちゃんと言葉で伝えなきゃ駄目だって、あれほど痛感したはずなのに」
わたしは鮫島さんを見上げた。すぐ間近にあるその顔は、まだ少しだけ悲しみを帯びていた。
「もうこの件で謝るのはやめよう。お互い様だった、それでいい。でも約束しよう。これからはちゃんと言葉で伝えるって」
「はい……」
こくりと頷く。鮫島さんは触れるだけの優しいキスをくれた。しばらく無言で、お互いの存在を確かめ合うかのようにくっついていた。
鮫島さんの温もりを感じて幸せな気分だったが、そろそろわたしの一大決心を鮫島さんに告げようではないか。その腕から抜け出て、ソファーの上に正座をして彼に向かい合った。
「鮫島さん。来週の週末、何か用事はありますか?」
「いや、何もないよ」
「じゃあその週末は、わたしとずっと一緒に過ごしてくれませんか?」
その言葉に鮫島さんは戸惑ったようだ。
「それって……」
「バレンタインのリベンジ、ホワイトデーにさせてください!」
しばらく黙っていた彼は、少し困った顔をした。
「気持ちは嬉しいけど、無理しなくていいよ。もう少し、時間を置いた方が……」
「駄目です! 付き合い始めてもうすぐ四か月。その間未遂が三回。“四度目の正直”ってやつです」
わたしの言葉を聞いて、鮫島さんは小さく笑った。
「そんな言葉はないでしょ? それに最初の一回は数に入れなくていいよ。あれは俺の暴走なんだから」
「じゃあ“三度目の正直”で」
「“二度あることは三度ある”かもね」
「いいえ。“三度目の正直”です。だから鮫島さんをわたしにください!」
とうとう言ってしまった。わたしはこれが言いたかった。覚悟は一ヶ月前にちゃんとできていた。今度こそ、鮫島さんにすべてを委ねたい。
彼は真っ直ぐわたしを見つめた。
「本当にいいの?」
「はい。女に二言はありません」
「今度は途中でやめたいって言われても、止める自信はないよ」
「やめなくていいです」
「何なら今からでも俺は構わないよ」
「あ、それは無理です。来週まで待ってください」
「…………」
「バレンタインのリベンジはホワイトデーと決まっているんです!」
そう断言すると、それ以上何も言ってこなかった。別にホワイトデーにこだわらなくてもいいけど、何となくだ。
そういえば、バレンタインで忘れていたことがあったではないか。
「ところで旅館に置いていったもの、受け取ってもらえましたか?」
「ああ。チョコは家に帰ってから食べたよ。甘いものが苦手でもブランデーが効いていて、おいしく食べられたよ。ありがとう。それからこれもちゃんと持ち歩いているよ」
そう言って煙草とともに持ってきたジッポーのライター。わたしの前ではあまり煙草は吸わないけど、ライターが百円のもので『せっかく煙草を吸う姿が様になっているのに、何かもったいないなぁ』と思っていた。ライターを変えるだけでグッと男前度が増す。
「よく見ていたね。ライターなんて気にしていなかったよ」
「気に入ってもらえましたか?」
そう訊くと、うっとりしそうな笑みを返してくれた。
「もちろん。ありがとう。大切にするよ」
その言葉だけで大満足です。わたしも自然と笑みが浮かんだ。
その日は日が高いうちに家に帰った。これもけじめです。
来週の週末まで待っていてくださいね。今度はちゃんと自分で決めたんですから。大人の階段を頂上まで昇りきるんですから。心だけではなく、身体も鮫島さんのものになるんです!
次回、いよいよです。




