彼女の苦悩の原因
一夜明けました。
一夜明け、俺は一人きりの部屋で目を覚ました。寝起きは最悪。それでも一晩経って、大分落ち着くことができた。昨日のラナの言葉を思い出す。
『……どうして? どうしてここなの……?』
『……ここは嫌。嫌なの……』
『……こんなところ、来たくなかった……』
よくよく思い返してみれば、やたらと場所にこだわっていたようだ。俺を拒絶する言葉はない。昨日は拒絶されたことで頭に血が上っていたから気づかなかった。
とにかく今はラナの真意が知りたい。覚悟を決めて、部屋に戻る。部屋は静まり返っていた。ラナの姿はどこにも見当たらなかった。
「ラナ? いないのか?」
部屋を見回すときっちりとたたまれた布団と浴衣が置いてある。ラナの荷物が忽然と消えていた。そしてテーブルに置かれたものを見つけた。箱が二つと手紙。まず手紙に目を通す。
『 鮫島さんへ
昨日はごめんなさい。顔を合わせる資格がありません。
先に帰ります。勝手なことをして本当にごめんなさい。
バレンタインのチョコとプレゼントを置いておきます。
よかったら貰ってください。いらなかったら捨ててもいいです。
P.S チョコはお酒が入っているので、車に乗るときは絶対に食べないでください。
安全運転で帰ってください。
ラナ 』
先に帰ったのか……。顔を合わせづらいのは当然かもしれない。俺でもラナと顔を合わせてからの第一声を何と言えばいいか悩んだぐらいだ。
二つの箱に視線を移す。ラナが俺のために選んでくれたものを捨てるわけがないだろう。しかしチョコの注意事項をちゃんと書いておく辺りが彼女らしい。
チョコの方は帰ってからいただくとして、もう一つの箱を開けた。ジッポーライターだ。煙草を吸うときは百円ライターを使っていた。昔はジッポーを使っていたが失くしてしまい、それっきりだった。そこを見ていたのかと感心する。大事に箱にしまい、手紙とチョコとともにかばんに詰めた。
ラナと一緒でないなら長居は無用。さっさと準備をして部屋を出る。フロントで会計をすると初老の男性従業員が声をかけてきた。昨日部屋の空室を尋ねた人だった。
「おはようございます。お客様のお連れ様は早朝にお帰りになられましたよ。何でも急なご不幸があったそうで」
そう言い訳したのか。一番突っ込まれない言い訳だ。
「そうですか。バスに乗って帰ったのですか?」
「いいえ。あいにくバスはまだ走っている時間ではありませんでしたので、駅まで私がお送りいたしました」
「それはお世話になりました。ありがとうございます」
お礼を言えば従業員は恐縮した様子。
「いえいえ。これも私達の仕事ですので。ぜひまたお二人でお越しください」
そう言って頭を下げた。きっとこの人にはラナが急な不幸で帰ったのではないとばれているだろう。彼女が帰ったことをわざわざ告げるあたり、俺たちの間に何かあったと理解しているようだった。それでもこの気づかいはありがたかった。
もう一度お礼を言って旅館を後にした。
『ぜひまたお二人でお越しくださいね』か……。二人でここに訪れる日はやって来るのだろうか?
夕方帰宅して、樫本家に電話を入れる。ラナがちゃんと帰宅しているかを確認するためだ。電話口に出たのは母親だった。
『はい、樫本でございます』
「鮫島です。ご無沙汰しています。ラナさんは帰宅されましたか?」
尋ねると困惑したような声が返って来た。
『ええ、さっき。……鮫島さん、何があったかは聞かないけど、きちんと話し合ってほしいの。きっとあの子、鮫島さんの話を聞かずに暴走したんでしょ?』
そう言われても、俺もラナが何を思っているのかがわからない。
「すみません。正直なところ私もわからないのです」
俺の返答に電話口の向こうで大きなため息が聞こえた。
『やっぱり勝手に暴走したのね……。この状況になったら人の話を聞かない子だから大変だと思うけど、見捨てないで気長に付き合ってやってほしいの』
「それはもちろんです」
どれだけ時間がかかっても、俺はこのままラナとの関係を駄目にする気は全くない。もう手放せないほど彼女に溺れているのだ。
『頑固でなかなか折れないけど気にかけてやって? まだまだ子供で……。鮫島さんには苦労かけるけれど』
「わかりました」
とりあえず彼女が無事に帰宅できたことに安堵した。
それからまめにラナに連絡を取ろうと試みる。しかし電話には出てくれない。メールはかろうじて返事が来るものの『まだ顔を合わせられません』『もう少し頭を冷やしたいです』『ごめんなさい』のローテーションだ。
未だにラナが何に悩んでいたのかがわからない。彼女は俺との関係をどうするつもりなのだろう。まさか別れる気だろうか? それは絶対に許さない。どれだけ時間がかかろうとも、この関係は修復させる。
あの日からもうすぐ一週間が経とうとしていたが、ラナは相変わらずだった。しかしこの日、彼女がこうなった原因の一片を掴んだ。
取引先からの帰り道、偶然西田と再会した。ここで西田がこんなことを言い出した。
「先輩、この間わたしたちと別れた後、彼女さんと喧嘩になったりしませんでしたか?」
その的を射た言葉に眉をひそめた。
「どういうことだ」
「実は斉藤先輩が先輩のいないときに、彩先輩の話を彼女さんにしてしまったんです。彼女さん、すごく落ち込んでいたみたいだったので……。もしかしたら不快に思ったかもしれません」
初耳だった。ラナはそんなこと一言も俺に話さなかった。
「それに斉藤先輩が、彼女さんが彩先輩と似ているって言い出して」
「似ている? ラナと彩が? どこが」
「わたしもそう思ったんですけど、斉藤先輩は人と見方が違いますから……。後から聞いたら『髪型が同じだった』って言っていました」
全くあいつは……。適当なことを言いやがって。今度会ったら一発殴ってやろうか。
果たしてこれが原因なのだろうか? しかしラナならどんなことでもすぐに口に出すではないか。もしそれが原因なら、悩まずに俺に訊いてくれればいいのに。彩のことは完全に吹っ切れているし、聞かれてやましいことなどない。彼女なら何でも訊いてくる、だから理由は他にあるかもしれない。そう思っていた。
ラナと会わなくなってもうすぐ二週間。
仕事帰り、設楽に「いい加減しけた面するぐらいなら、さっさと吐いてしまえ!」と捕まり、家に連れてこられた。設楽家に入るや否や、俺の姿を見た由理ちゃんが無邪気に俺の胸の傷をえぐった。
「ねぇ、おじちゃん。ラナちゃんは?」
子供は時に残酷だ。黙っている俺に代わり、設楽は由理ちゃんを抱き上げて言い聞かせた。
「ラナちゃんは忙しいんだって。でも由理がいい子にしてたら、また来てくれるよ」
「わかった。ゆり、いいこにする!」
「ようし。じゃあいい子の由理はもう寝なさい」
「は~い。パパ、おじちゃん、おやすみ」
「「おやすみ」」
それからダイニングで酒井の料理を食べながら、設楽と酒井に質問攻めにあう。酒の力もあって俺は西田からの情報を含めて全てをぶちまけた。相槌を打ちながら二人は聞き、大きくため息をついた。
「ラナちゃんの様子がおかしくなった原因、絶対に彩さんのことだろ」
「そうね。それしかないわね」
「彩のことはもう過去の話だ。それにはっきり訊いてくれればいいんだよ。何でもすぐ口にするラナなら訊けるだろ?」
「そう思っているのって、先輩だけですよ? 男って本当に何もわかってない」
酒井は呆れたように言う。俺は言葉を返せない。
「そうか? お前も結構何でも訊くだろ?」
設楽の問いに酒井は眉を上げる。低い声で設楽を威嚇する。
「……背広に入っているキャバクラの名刺、ワイシャツに付いたファンデーションや口紅、女物の香水の匂い……」
その言葉に設楽が顔を青くする。こいつにしては珍しく慌てていた。
「いや、その……、それはあくまで接待……」
「聞かないでしょう? いいえ、聞けないの。結局本当に訊きたいことはなかなか訊けないものなんです」
「だから浮気じゃないって……」
設楽の言い訳を無視した酒井が俺に視線を移す。
「ラナちゃん、先輩の気持ちがどこに向いているのか不安だったのかもしれませんよ。その旅行先、サークルの合宿地だったんですよね? もしかしたら、元奥さんとの思い出の場所って勘違いしているのかも……」
それは深読みしすぎだろう。納得できなかったが、酒井は引き下がらなかった。
「前にそこへ行ったのが五年前、離婚直後なんですよね? それなら離婚前と勘違いしても不思議じゃないですよ。離婚前の最後の思い出、とか。真っ直ぐすぎるラナちゃんなら、思い込んだら一直線かもしれません」
「まさか」
「いや、ありうるぞ」
設楽は酒井の意見に同意し、その理由を語る。
「ラナちゃんは彩さんのことはこれまで一切聞かなかったんだろ? ということは俺が遊園地で話したほんの少しの情報と、その同級生からの話しか知らないわけだ。で、離婚の原因が彩さんの浮気。となればお前の方はまだ彩さんに未練があるんじゃないかと疑ってもおかしくない。特にお前、離婚後は女を寄せ付けなかったんだからな」
それはそうかもしれないが、彩に未練などない。もうとっくに昔のことだ。そう否定するが設楽は呆れたように俺をたしなめた。
「でもお前はそれをちゃんとラナちゃんに伝えてない。訊かれていないことをこっちから切り出すのもおかしいけど、はっきり言わないと伝わらないぞ。わかってるだろ?」
それは十分にわかっている。彩の浮気の原因は意思疎通ができていなかったことも原因の一つだったから。
設楽は続けた。
「もしその仮説が正しければ、お前は彩さんとの思い出の場所で今の彼女であるラナちゃんを抱こうとしていたわけだ。それってラナちゃんからしたら、ちょっとないよな」
「そうね……。気にしなければいい話ですけど、嫌かもしれないです」
納得いかなかったが、その仮説だと全てに説明がつく。『サークルで来た』と言った時の一瞬の顔の強張り、しきりに場所についてこだわっていたこと、俺を拒絶した理由……。
もしもラナが勘違いしているなら、きちんと誤解を解かなければならない。そして安心させてやりたい。
「ちゃんとラナに話すよ。彩のことも、俺の気持ちも」
そう宣言すると、二人は頷き、笑みを浮かべた。
しかし次の日の昼、ラナの母親からラナが倒れたと連絡が入った。
ラナ、倒れちゃいましたね。
さて次回、ようやく二人は再会します。切ないなりに甘さ解禁です!!