泣かない彼女の涙
前回の最後でラナが電話をかけたのはこの人でした。
今日は月曜日。休みだからのんびりしようと思っていた。だけど今ここにはわたし以外の人間がいた。こいつがいてはのんびりなど夢のまた夢だ。
「ねぇ、みちるちゃん。どこか行こうよ~」
「うるさい。行きたきゃ一人で行けば?」
「うー、冷たい。昨日の夜はあんなに縋り付いてきたくせにぃ」
ええい、やかましいわ! 若干顔を赤らめて悠真を無視する。こいつの言動に付き合っていたら貴重な休日などあっという間に終わってしまう。
もうすぐ昼ご飯だから何か作ろう。冷蔵庫の残り物、何かあったかな? キッチンに向かうと悠真が声をかけてきた。
「みちるちゃーん。携帯鳴ってるよ。ラナちゃん」
ラナ? あの子は今、彼氏と一緒に旅行中のはず。まだ帰ってくるには早い時間だ。何だろう?
妙な胸騒ぎを覚えて、悠真から携帯を受け取り、通話ボタンを押す。
「もしもし。ラナ? どうしたの?」
ラナは無言だった。聞こえるのはすすり泣く音だけ。不安的中。あの子が泣いてるなんて……。
「ラナ、今どこ?」
慌てて訊けばうちの最寄り駅らしい。「一人で来れる?」と訊くと一言『うん』と返ってきた。すぐにうちに来るように告げて電話を切る。
ラナが来ることに「えーっ、せっかくのみちるちゃんとの甘々な一日が……」とがっかりする悠真。でもごめん。今はあんたに構っていられる状況じゃない。
「悠真、ごめん。帰って」
そう告げると、首を横に振ってわたしに抱きついて来た。
「イヤ。邪魔しないし余計なことも言わないから、いてもいい?」
子犬のようにすがってくる、こういうところに弱い。仕方なく了承した。ただ、こいつが勝手なことをしないかだけが心配だった。
しばらくしてチャイムが鳴る。ドアを開けると、目を真っ赤にしてボロボロ泣いているラナがいた。玄関に一歩入り、悠真の姿を見つけると「邪魔してごめん。帰るね」と引き返そうとするのを引きとめて、無理矢理部屋に上がらせた。
ココアを作り、手渡す。今はとにかく落ち着かせないと。ゆっくりとココアを飲み干したラナに柔らかい口調で問う。
「で、一体何があったの? ゆっくりでいいから話して」
するとまだ泣いてはいるが、先ほどよりは落ち着いた様子で話し始めた。
「鮫島さんを、怒らせた。……もう、駄目かも」
「理由は? あんなに楽しそうに旅行の話、してたじゃない」
「あそこ、元嫁との思い出の場所だったの」
詳しく問いただす。旅行前に彼の大学時代の知り合いに会ったこと、そこで彼は元嫁と同じサークルだったと聞いたこと。そして旅行先がサークルの合宿地だったことを知ったこと。その場所に来たのは五年ぶりで、ちょうど離婚したのも五年前だという事実に気づいたこと。
「きっとそこは元嫁との大学時代の思い出の場所で、離婚する前の最後の思い出の場所でもあったんだよ」
確かにそうとも取れる。でも離婚前か離婚後に行ったかはわからないではないか。大学時代に二人は付き合っていたわけではないのだ。あくまでラナの想像の域だ。
そう言ってもラナは聞く耳を持たない。
「鮫島さん、遠い目をして微笑んでた。元嫁を思い出してたに決まってる」
今の彼女と一緒にいるときに元嫁のことを思い出して笑うかしら? 疑問に思うが、今はラナから話を聞き出すことが先決だ。
「それにね、鮫島さんの同級生の人がわたしと元嫁が似てるって言ったの。もしそれが本当だったら、わたしと元嫁を重ねてるってことでしょ? それもあって……」
身代わり、か……。それが事実ならショックだろう。ラナ本人を見ていないことになる。そんな人には思えないけど、会ったことがないから何とも言えない。
「で、その後どうしたの?」
「モヤモヤして心が真っ黒になって、一緒にいることが苦痛で……。迫られた時に突き飛ばしたの。『ここは嫌。こんなところ、来たくなかった』って。そしたら見たこともない怖い顔をして部屋を出ていって、帰ってこなかった……」
ずっと黙って聞いていた悠真が首をかしげる。
「何でそこの場所は嫌なの? いくとこまでいっちゃえば、そんな不安なくなるかもしれないよ? 場所なんて関係なくない?」
あーっ! デリカシーのない発言! やっぱり追い返せばよかった……。案の定ラナはヒステリックに悠真に怒鳴った。
「だって! 元嫁との思い出の場所でなんて抱かれたくない! それなら何も思い入れのないところの方がいい。そしたらわたしとの、わたしとだけの思い出になるもの……」
やっと落ち着いたというのに、再び盛大に泣き始めてしまった。わたしはラナの背中をさすりながら悠真を睨みつけた。悠真は申し訳なさそうに肩をすくめる。
ラナが少し落ち着いてきた頃、悠真が真面目な顔をして言った。
「ねぇ、ラナちゃん。今から話すのは男の意見と思って聞いて。彼氏、すごくショックだったと思うよ。ちゃんとお膳立てしたのに、寸前で拒否されたら怒りたくもなるよ。どうして何が嫌だったか言わなかったの?」
「だって今さら元嫁のこと聞いていいかわからないし、雰囲気悪くなるのも嫌だし……」
「結局拒絶したら、余計にこじれると思わない?」
悠真の言葉にラナは唇を噛み締めて俯いた。珍しく悠真がまっとうなことを言っている。悠真はラナに言い聞かせるように言った。
「ちゃんと言葉にしなきゃ伝わらないよ? 男女間のことはちょっとしたすれ違いで別れる原因にもなるんだから。その彼氏、これまでちゃんと待ってくれてたんでしょ? だったらきちんと嫌な理由を言えば、説明するなりなんなりしてくれたと思う。ラナちゃんは彼氏に甘え過ぎだよ」
ラナには酷だが悠真の言葉はもっともだ。これって本当にあの悠真かしら?
「もちろんラナちゃんだけが悪いとは言わないけどね。その彼氏も拒絶の理由をその場で聞けばよかったんだし。まぁ、帰って来なかった気持ちはわからなくもないけど……」
最後の言葉に引っ掛かり、わたしは悠真に訊いた。
「それってどういう意味?」
悠真は曖昧に笑って質問に答えなかった。すると俯いて黙っていたラナがすっと立ち上がった。
「……話聞いてくれてありがとう。帰る……」
「昼ご飯食べていけば? どうせ食べてないんでしょう? すぐ作るわよ」
そう言うがラナは首を横に振った。
「ごめん。いらない。食べたくない」
その一言で、かなりやばい状況だと再認識した。ラナが部屋を出た後、わたしは慌てて携帯を掴み、電話をかける。三コールでつながった。
『はい、樫本でございます』
「もしもし。三田です。ご無沙汰しています」
相手はラナの母親。明るい声が耳に届く。
『あらぁ、みちるちゃん? 久しぶりねぇ。ラナはいないのよ?』
「さっきまでラナはうちにいました。鮫島さんといろいろあったみたいで……、泣いていました」
そう言うと電話の向こうでおばさんは絶句していた。
「それに食欲がないそうです。緊急事態です」
おばさんは短い沈黙の後、ようやく話し始めた。
『そう……。わかったわ。みちるちゃん、知らせてくれてありがとう』
それから一言、二言話して電話を切った。
食べることが大好きなラナが食事をとらなくなることはまずない。あの顔を見れば睡眠を取っていないことも容易に想像がつく。この先もこんな状況が続くなら、危なっかしくて仕方がない。
携帯を手に大きなため息をつくと、悠真がそっとそばにやって来た。
「みちるちゃん、ごめんね。余計なこと言わないって約束したのに」
しゅんとした悠真がかわいく見えてしまった。こんな時なのに……。わたしは首を横に振った。
「いいの。あんたの言っていること、珍しく的を射ていて驚いたわ。ちょっとデリカシーがないところもあったけど。ラナは思い込み激しいところがあるし、それで勝手に想像を膨らませて悩み過ぎるの。普段は訊きたいことはズバッと訊くくせに、肝心なことは訊けない……」
悠真の肩に頭を置き、もたれかかる。
「確かに元嫁との思い出の場所で……っていうのはちょっと嫌ね。特にラナには過去の恋愛がないんだもの。まだその元嫁の仮説が正しいと決まったわけじゃないけど、もし事実ならちょっとはあの子の気持ち、考えて欲しいものだわ。それに身代わりの件も……。本当にあの子に元嫁を重ねているのなら、あの子の代わりにその彼氏をボコボコにしてやりたいわ」
わたしの頭を悠真が優しく撫でた。ラナの痛みをわたしも感じているのを見透かしているかのように。今回は少し甘える。
「……ラナね、めったに泣かないの。“嬉しい”とか“怖い”っていう感情の時はすぐ泣くくせに、“悲しい”とか“つらい”って時は感情を押し殺してうまく泣けないの。それでも泣くってことは限界を越したんだわ」
中学からの長い付き合いだけど、負の感情でラナが泣いたところを見たのは、たったの一回だけだった。心配で堪らない。我慢できずに泣いてしまうほど、ラナは彼氏のことを本気で好きなようだ。
悠真はわたしの話を聞き、なぜか自信満々に言った。
「大丈夫だよ、みちるちゃん。その仮説は多分はずれだよ」
わたしは顔をあげて悠真を見る。
「どうしてそう言えるの?」
「だってあのラナちゃんが選んだ人でしょ? 野生の勘が働いて、悪い男には惚れないでしょう。それにみちるちゃんからの話を聞いてる限り、ラナちゃんはちゃんと大切にされてると思う」
その根拠もない自信がなぜか納得できた。こいつ、何気に大物かもしれない。悠真の言ったことが事実であって欲しい。
その後、悠真は少しだけ困った顔をした。
「ただ身代わりの件だけはよくわからない。それが事実のときは救いようがないね。みちるちゃんと一緒にその彼氏をボコボコにしてあげる」
「うん……。ありがとう」
わたしは素直にお礼を言った。悠真にギュッと抱きついて、大きく息をつく。
あの子、大丈夫かしら……。心配するしかできない自分が悔しい。大切な親友の悲しむ顔なんて見たくない。
とにかく一度ちゃんと彼氏と話し合ってほしい。そしてまた一日でも早く、真っ直ぐで馬鹿なラナに戻って欲しい。そう祈るだけだった。
はじめましての菊池君でした。次回から鮫島視点です。
下におまけをつけました。どうしてもコメディ中毒が出て、我慢できなくなった結果です。
ですので「このままシリアスモードで話を読みたい」という方は読まない方がいいかもしれません。また場合によって「ラナがこんな時なのにいちゃつくな(怒)」とお怒りになりそうな人にもお勧めしません。自己責任でお願いします。
「気分転換したいわ」という方、どうぞ。
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☆おまけ『悠真がはぐらかした質問』(みちる視点)
親友のことを心配しながらも、ここでさっきはぐらかされた質問をもう一度尋ねた。すると悠真の視線が一気に鋭くなる。その視線に背筋がゾッとした。
「……飢えたオオカミがおいしそうなウサギを目の前にして、何もせずにいられると思う?」
あんたその視線やめなさいよ! 怖いっつーの!
わたしはにじり寄ってくる悠真に恐怖を感じ、手にしたクッションを奴の顔面に叩きつけた。悠真は顔を押さえて情けない声を上げた。
「ひどいよ、みちるちゃん!」
「ひどくない。その顔やめなさい。追い出すわよ」
そう脅すとしゅんとなる。やっぱり好き勝手させると調子に乗る。悠真は落ち込んだまま話し始めた。
「まぁ彼氏がそのまま部屋にいたら、ラナちゃん今頃彼氏の腕の中からまともに動けないだろうね。逆上した男は危険だよ。たとえ彼女が嫌がって泣き喚いても、自分の欲望のままに行動しかねないもん。拒絶されるほど支配欲が湧くっていうか……」
「それって無理矢理……ってこと?」
恐る恐るそう訊くと悠真は大きく頷いた。それは悲しいでしょう。いくら想い合っていても無理矢理は嫌だな。
「でもひどいよね……。気持ち、無視なんでしょ? 犯罪に近いよ」
「うーん、でもそういうつもりで同じ部屋に泊まってるんだから、犯罪とも言いづらいしね……。一種のプレイならアリだね。ねぇ、みちるちゃん」
ニッコリ笑う悠真に冷ややかな視線を向けた。
「絶対イヤだから」
冗談じゃない! 誰がそんなことするか! やっぱりこいつは駄目だ。さっき少し惚れ直してしまった記憶、今すぐ消えろ!
すみません。こんなんで…。