負のスパイラル ~疑心暗鬼の爆発~
ラナ視点ラストです。
重い足取りで部屋の前まで来た。もう気分はどん底。扉の前でしばし佇む。
ああ、どうしよう。ここまで来て『やっぱり待ってください』なんて言えないよね……。
廊下を歩いている人たちが、扉の前から動こうとしないわたしに不審な目を向ける。その視線を感じて慌てて扉を開けた。
部屋に入ると、なぜか間接照明しか点いていなかった。薄暗い部屋の中を恐る恐る進む。
もうそういう雰囲気を作っているんですか?? 早くないですか?? もう少したわいもない会話するとか、テレビ見るとかあってもいいんじゃないですか??
奥の部屋まで行き着くと布団が二組並べて敷かれていた。二組の布団の間に隙間はない。
仲居さん! もっと離して敷いてくださいよ! もう部屋の端と端でいいんですよ!
その座敷の入り口で立ち尽くしていると、急に後ろから抱き締められた。反射的に身体が硬直する。それがきっと鮫島さんにも伝わったと思う。緊張を解こうとしているのか、わたしの首筋に唇を這わせる。低くて甘い声が、わたしの耳元で名を呼ぶ。
「ラナ……」
普段のわたしなら、これで確実に陥落していることだろう。でも今日は違う。脳が冴え渡り、かなり冷静だ。それを知らない鮫島さんがわたしの身体を正面に向けて、熱を帯びた目でわたしを見下ろす。
だんだん唇が近づき、キスされる。何度か触れるだけのキスをし、今度は少し開いた唇から舌が侵入してくる。舌が口腔内を犯していく。ひどく息苦しくて、自分から出たとは思えない甘い声が出る。でも心は冷えたまま。
それでも経験したこともない激しさに自然と身体から力が抜けた。ぐったりとして身体を預けると、彼はわたしの身体を抱き上げた。お姫さまだっこだ。いつもならキャーキャー悶えているところだが、今は何だか他人事の様だ。わたしを布団の上に優しく下した。
横たわったわたしに覆いかぶさる鮫島さん。わたしの髪を撫でて、何度かキスを繰り返す。そのうちキスは唇から首に移動していき、浴衣から覗く鎖骨に辿り着く。舌を這わせられて身体が震える。身体は何かを期待しているかのよう。でも心がそれ追いつかない。完全に切り離されてしまった心と身体。
呆然と彼にされるがままだったが、心は悲鳴を上げていた。
どうしてここなの? 何でこの地を、元嫁との思い出の地を選んだの? そこでわたしを抱くの……? わたしは何? 恋人? それとも元嫁の身代わり?
突拍子もない想像だったが、冷静なようで冷静ではなかった。
鎖骨から顔を上げた鮫島さんが、色気のある表情でわたしを見つめる。
「ラナ……、いい?」
わたしの無言を肯定ととり、彼は浴衣の帯に手をかけた。その瞬間、かつて感じたことのない嫌悪感が身体中を走った。
ココデカレニダカレタクナイ。
「いやっ!!!」
無意識に鮫島さんを突き飛ばしていた。彼の重み消えた身体を起こして距離を取る。震える両手で浴衣の前を直して、ギュッと握りしめた。
彼の表情は傷つき、困惑したようだった。
「ラナ……?」
「……どうして? どうしてここなの……?」
鮫島さんには何のことかわからないようだった。それでも一度堰を切った言葉は止められない。彼から視線を外し、続ける。
「……ここは嫌。嫌なの……」
「ラナ、どうしたんだ」
はっきり言ったらいいの? 元嫁との思い出の地で抱かれるのは嫌だと。
「……こんなところ、来たくなかった……」
ここじゃなく、何の思い入れもない土地ならば、わたしは鮫島さんにすべてを委ねることができたはず。その思いから出た言葉だった。
でも鮫島さんには伝わるはずもない。彼の表情は一変した。見た事もない、恐ろしい顔。
「……それがラナの本音? ……わかった」
そう言って、彼は財布と携帯を手に部屋から出て行った。出ていくその後姿を見つめる。涙は出ない。でも安心もできなかった。苦しくて、つらくて、悲しくて……。鮫島さんに恋をして、初めての感情だった。
結局、鮫島さんは部屋に帰ってこなかった。現在、朝五時。わたしは横になったけど、結局一睡もできなかった。重い身体を起こし、服に着替える。
布団や浴衣を綺麗にたたむ。この状況でもサービス業特有の職業病だね。ついきちんとしてしまう自分に笑ってしまった。
荷物を整理して、かばんに入っていたものを取り出す。本来なら昨日渡すはずだった、バレンタインのチョコとプレゼント。何件もはしごして、甘いものが苦手な彼でも食べられるチョコを探し出した。プレゼントもいつも持っていてもらえるものをと考えて選んだ物。持って帰るのも何だから置いていくことにした。もっとも受け取ってもらえるかはわからない。手紙を書いて、それらと一緒に机の上に置いた。
自分の持ち物をかばんに入れて部屋を出た。こんな朝早く、誰もいないだろうと思っていたけど、フロントにはちゃんと従業員はいた。初老の優しそうな男性はわたしに気づいて頭を下げる。
「おはようございます。お早いですね」
「おはようございます。お尋ねしたいのですが、今から帰りたいんです。公共の交通手段を教えていただけますか?」
今すぐ帰りたい。鮫島さんとは顔を合わせずに。顔を合わせてしまったら、この恋は終わってしまうかもしれない。いや、きっと終わってしまう。わたしの我儘のせいで。
従業員さんはあまりに早い帰宅を不思議に思ったみたいだ。
「お早いお戻りですね」
「ええ。急なご不幸があって、すぐに戻らなければいけないので」
そう言うと納得したようだ。不謹慎だがこの理由ならおかしくないし、突っ込まれにくい。従業員さんは時刻表を調べて顔を上げた。
「ここからバスで駅まで向かうのですが、あいにくこんな早朝ではまだバスは走っていないのですよ。私でよければ駅までお送りいたします」
「そんな……。ご迷惑になりますし、タクシーを呼んでいただければ……」
「いいえ。タクシーを呼ぶにも時間がかかりますし、お客様のご要望にお応えすることが、私どもの仕事ですので。お気になさらないでください」
従業員さんの心づかいに涙が出そうになった。なんていい人、いい旅館なのだろう。それなのに昨日わたしは『こんなところ、来たくなかった』なんて言ってしまったのだ。ひどい女。最低だ。
従業員さんに連れられるまま、わたしは旅館を後にした。駅まで車で三十分ぐらいかかるそうだ。その間、従業員さんはこの土地の名所や特産物を話してくれた。もしかしたら急な不幸のせいで観光できないわたしを思っての配慮だったのかもしれない。その心づかいに感謝しながら車に揺られた。
駅に到着して、見送ってくれる従業員さんに何度もお礼を言った。
「ぜひまたいらしてくださいね。お待ちしております」
従業員さんは微笑んで頭を下げた。もう一度お礼を言って、駅に入って行った。
ちょうどあと五分で始発電車が来るところだった。駅のホームで電車を待ちながら、行った場所と出会った人を思い出す。
いい場所だった、いい人達だった。鮫島さんが気に入るはずだ。でもわたしはその思い出を汚した。わたしにもうこの地を踏む資格なんてない。
でももし彼がわたしを許してくれたなら、もう一度来たい。最悪な思い出を最高の思い出に塗り替えたい。無理な可能性の方が高いけど。
電車に乗り込み、車窓から景色をぼんやり眺める。広大な自然が美しい場所。でもわたしにはひどく悲しく見える。見える景色も、人の心と連動しているのかな? 昨日彼と見た景色は美しかった。あれはきっと大好きな人と見たからかも。
長時間電車に揺られる。乗り換えを繰り返すうちに、車窓から見える景色は次第にいつも眺めている街並みに変化していく。あの別世界のようなところで起きたことが夢であればいいのに。しばらくすると景色が滲んでいた。瞬きをするとツーッと頬に一筋の涙が流れる。それを自覚するともう止められない。目からボロボロと雫が落ちた。
しばらくして駅に降り立つ。そこはわたしの家の最寄り駅ではない。ホームで携帯を取り出し、電話帳を開いてとある人物の番号にコールする。
その人物の声が耳に届いた瞬間、我慢していた嗚咽が限界を超えた。
こんな暗め展開で申し訳ないです。
次回はラナが最後に電話をかけた、あの人視点でお送りいたします。