負のスパイラル ~急上昇から急降下~
主人公、引き続きぐるぐるしています。
初めにやって来たのは、そば打ち体験ができる道場。周囲は山に囲まれて緑がいっぱい。車から降りるとヒンヤリとした空気が、わたしの心のモヤモヤを払拭してくれるような気がした。何度も深呼吸すると少し気分がすっきりする。
そば作りの説明を聞き、早速始めた。粉を水で練る作業は楽しくて、なかなか止まらなかった。隣でそばを打つ鮫島さんの手つきも上手い。まるで本職の人の様だ。
そばを打ち終えてひとまとめにした後、大きな麺棒で伸ばす。それを折りたたみ、包丁でそばの太さに切っていく。これが難しい。鮫島さんは几帳面だからか均等に切っていく。ちゃんとそばの太さだ。対するわたしのそばの太さはバラバラで、もはやそばではなくうどん。しかも極太うどん。
係の人に頼んで、茹で上がるのを待つ。打ったそばは二人前で持ち帰ることもできる。でも今日帰るわけじゃないし、麺類の一人前は大したことないだろうと二人前茹でることにした。二人で計四人前。できあがったそばは太さがそろってなくて、あまりおいしそうではなかった。鮫島さんのものはお店に出てきそう。この差は一体何だ?
それでも食べるとやはりおいしかった。自分で作ったことで、さらにおいしさが増える気がする。材料がいいし、まずいわけがない。全て食べきれるかという懸念も杞憂だった。
まだまだ食べれそう。大満足です! 自然に笑顔が浮かんだ。
「ごちそうさまでした」
手を合わせてそう言うと、鮫島さんがニッコリ笑って言った。
「よかった」
「何がですか?」
「やっと笑ったから」
その言葉に思わず俯いてしまう。これまで笑顔なんて浮かばなかった。モヤモヤのせいで、知らずのうちに表情が強張ってしまったのかもしれない。どうやら心配させてしまったようだ。でもそばのうまさにいろいろ吹っ切れた感じがした。
「そば効果です」
顔を上げてそう言った。すると「そうか」とわたしの頭をポンポンと軽くたたく。その優しい手がわたしに安らぎをくれた。この手はわたしだけのものなんだ、と思ってもいいよね?
そば打ち道場を後にし、さらに山の中に入っていく。向かったのは展望台だった。駐車場からニ十分ほど山道に作られた階段を登る。行き着いたそこには広大な景色が広がっていた。
「うわぁ……。綺麗……」
感想を述べようにも、こんなありきたりな言葉しか出てこない。見晴らしのいいこの場所は山の緑と空の青が一面に広がる雄大さを持つ。澄んだ空気がとても気持ちいい。風の音や鳥の鳴き声など、自然を感じさせる音しか耳に入ってこない。
「気に入ってくれた?」
その問いに、ただただ頷く。
「はい! もちろんです」
「ラナならきっと気に入ってくれると思った。俺の思い出の場所なんだ」
思い出の場所に連れてきてくれるなんて嬉しい以上の何物でもない。わたしはそっと鮫島さんの服の袖を握る。それに気づいた彼は辺りを見回し、誰もいないことを確認すると触れるだけのキスをくれた。チュッというリップ音が、静寂な自然の中に響き渡って、顔が赤くなる。
待っていたのはこういう甘い感じですよ。そう、もう大丈夫。不安がることなんて、何もないのだ。
しかし次の一言によって天国から地獄に突き落とされた。
「ここ、大学のときにサークルの合宿で毎年来ていたんだ」
サークル……? ということは元嫁も一緒だった……?
火照った顔がすぅっと冷めていく。地面にぽっかりと穴が開いて、身体が下に引きずり込まれる感覚に陥った。何とか気を確かに持ち、当たり障りのない質問を投げかけた。
「サ、サークル……。どんなサークルなんですか?」
「テニスだよ。ま、合宿っていっても練習そっちのけでワイワイ騒ぐ類のものだけど」
遠い目をしている彼に、『元嫁も一緒だったんですか』という質問が出かかったが、ぐっと堪える。こんなこと訊いたら気まずいし、雰囲気も壊れる。『どうして知っているんだ』と疑問を返されて、説明するのも嫌だった。それでもこの質問だけは思わず口から出てしまった。
「思い出の場所って言ってましたけど、ここに来るのはいつぶりなんですか?」
「えっと最後に来たのは五年前かな」
グレーが一気に黒に変わった。五年前といえば鮫島さんが離婚した年。想像だが、きっと元嫁との最後の思い出の場所に違いない。さっき遠い目をして物思いにふけっていたのがその証拠だ。
その場所にわたしを連れて来たのは、ただこの場所が好きだから? それとも元嫁とのことを思い出すため? まさか、まだ未練があるの?
拭い去ったはずのモヤモヤが増大して戻ってきた。さっきまでの言葉も出ないほどの感動も、キュンとした甘さも、今はない。今、わたしどうしてここに立っているんだろう。
展望台から今度は宿泊する旅館へ向かった。でもこのときの記憶があまりない。ちゃんとしていたはずなのに記憶はひどく曖昧。それでも鮫島さんの態度に変わりがないから不審がられずにすんだみたい。
部屋に案内された。落ち着いた趣のある和室だった。仲居さんが用意してくれたお茶を飲んでくつろぐ。鮫島さんがいろいろと話していたが曖昧に返答した。もう彼が何を話して、わたしはどう返事をしたかすらわからない。まさに心ここにあらず。
夕方になると浴衣を手に温泉へ向かった。男女で分かれているから、少しの間だけ一人になれる。一時間後に落ち合うことにした。いつもなら寂しいはずなのに、今はホッとした。部屋でも全然くつろげなかった。二人きりの空間が苦痛に感じた。
大浴場は広くて開放的だった。身体を洗い、湯につかる。
ふと頭によぎった。このままお湯につかりすぎてのぼせたら、意識を失って目が覚めたら朝だったら、どれだけいいだろう。こんな気持ちで彼に全てを委ねていいのだろうか。グルグル回る負の思考。
本当にのぼせそうになって、慌てて湯からあがる。まだ鮫島さんと合流する気にならなくて脱衣所でモタモタしていたら、わたしが浴衣の着方がわからなくて困っていると勘違いしたおばさん達が話しかけてくれた。そのおばさん達はとても気さくな人達だった。リピーターらしく、このお菓子がおいしいとかお勧めの観光地を教えてくれた。後から考えると、この時間が今日一番心安らかでいられたときだった。
約束の時間に少し遅れて外に出ると、鮫島さんはすでに待っていた。浴衣姿はセクシーで色気が半端ない。あれがわたしの彼氏なんだ……と見惚れそうになる。でもそばにいる女の人の姿に、そんな気分も吹っ飛び、眉をひそめた。
お色気ムンムンのセクシーなお姉さん方。逆ナンですね。真っ黒なわたしの心は、完全に負の感情に支配されていた。
逆ナンされたのは鮫島さんが悪いんじゃない。わかっているのに憎らしい。どうしてそんなに人を引き付けるの? 年令イコール彼氏いない歴のわたしとは住む世界が違うみたい。どうして彼はわたしを選んだのだろう。理由がわからない。元嫁に似ている、という理由以外は……。
佇んでいるとお姉さま方をようやく追い払った彼がわたしに気づき、近づいてきた。
「遅かったね」
「そばにいたおばさん達と仲良くなって話してました」
何でもない風に表面上は装う。心の中では『もっと遅く出てくればよかったですかね? そうすればフェロモン系お姉さんとお近づきになれたのに』と思う自分がいた。普段ではこの卑屈さは考えられない。いつもとは違った意味で脳みそが破壊されている。わたしにかけられる優しい言葉も甘いセリフも今は心に響かない。口を開けばどす黒い言葉が出てきそうだったから、つい言葉少なになってしまう。
待ちに待った夕食も食べる気が起きない。机いっぱいに並べられた豪勢な料理。いつもならがっついているはず。少しだけ手を付けてすぐに箸をおいた。これまでうまくごまかせていても、さすがに様子がおかしいことに気づいたみたい。心配そうにわたしを窺う。
「どうした? 体調でも悪い?」
本当のことなど言えない。言えるはずがない。
「そばがまだお腹に残ってて……。それに緊張でご飯が喉に通らなくて……」
そう誤魔化すと特に怪しまれもせず納得したようだ。旅館の人に申し訳なかったが、料理の大半を残してしまった。
そうこうしているうちに仲居さんが布団を敷きにやって来た。それがこの後のことを嫌でも想像させる。いたたまれなくなって、「ジュース買ってきます」と部屋を飛び出した。部屋と同じ階に自販機はあったけど、わざと一階のロビーまで行った。ロビーのソファーに腰かけて、温かいココアをゆっくりと口にする。
どうしよう。すごく帰りたい。わたしがお酒で酔い潰れる体質なら浴びるほど飲んでやるのに。どうしてわたしはお酒が強いんだろう。寝て起きたら家だったっていうミラクル、起きないかな。
ココアを飲み干してしまい、時計を見ると部屋を出てからもうニ十分近くたっていた。
さすがに戻らないとまずいよね……。
観念して部屋に戻った。
妄想が暴走しているラナでした。
次回でラナ視点はラストです。




