負のスパイラル ~その始まり~
始まりました、切ない期間です。
旅行まであと一週間と迫った日だった。いつものごとくデートしていると、街で偶然、鮫島さんの大学の同級生の男性と後輩の女性に会った。
「鮫島! 久しぶりだな」
「斉藤、西田。久しぶり」
「鮫島先輩、こちらは彼女さんですか?」
「ああ」
同級生が斉藤さん、後輩が西田さんというらしい。わたしも自己紹介をして少し話した。とはいってもわたしは三人の会話をただ聞いていただけだけど。
鮫島さんが少し席を離れたときだった。わたしはこれまで頭の隅に追いやってきたことにぶち当たった。
「いやぁ、鮫島にこんなかわいい彼女ができたとは。ようやく彩のこと、吹っ切れたんだな」
「ちょっと、斉藤先輩!」
彩……? 誰? もしかして……。
「彩さんって、鮫島さんの前の奥さんですか?」
そう尋ねると斉藤さんは『しまった』という顔をしたものの、すぐに誤魔化すのを諦めた。こくりと頷いて、説明を始めた。
「そう。彩は鮫島の前の嫁で同級生。同じサークルで鮫島と彩は仲が良かった。とはいっても付き合い始めたのはもっとずっと先、社会人になってからだよ。結婚生活自体は二年と短くて、離婚したのは今から五年前だ。原因は彩の浮気」
一気に気持ちが急降下。バツイチの鮫島さんと付き合うということは、当然元嫁の存在があるに決まってる。でも未だに元嫁のことは訊けないでいる。訊いていいものかもわからない。わたしが元嫁のことを口にしたのは見合いのときだけだ。それと遊園地で設楽さんから聞いたことだけの情報。わたしの持つ元嫁情報はないに等しい。
見合いで元嫁のことを言えたのも、あのときはまさか付き合うなんて思っていなかったからだ。別に好きでもなかったし、会うのはあの日限りだと思っていたから。でも今は違う。これまで気にしないようにしてきたけど、一度意識してしまうともう駄目だ。
何も知らない、何も訊けない。知るのも訊くのも怖い。離婚してからは仕事漬けだった鮫島さん。それは単に恋愛が面倒だったから? それとも元嫁が忘れられなかったから?
過去のことを気にしていたら、それこそきりがない。何せとっかえひっかえの極上モテ男なのだ。何人もの女性と付き合ってきたと思う。でもその一時的な関係の人と元嫁は違う。結婚とはその人と一生を添い遂げるつもりでするものだ。女遊びの激しかった人が結婚しようと思えるほどの女性だったのだ。未だに彼の心には元嫁がいるのかもしれない……。
黙りこくったわたしの様子に、ばつが悪い顔をした二人。西田さんが苦し紛れにフォローしようとしてくれた。
「でも彩先輩はもう再婚しているし、気にすることはないわよ」
そうか、元嫁は再婚しているのか。復縁という可能性は消えたようだ。でもわたしの憂いは晴れない。今大事なのは鮫島さんの心の問題だから。
斉藤さんはさらにわたしをどん底に突き落とした。
「君、少し雰囲気が彩に似ている気がする」
今度は斉藤さんの口調に戸惑いはない。わたしが元嫁に似ている? そんなこと聞いたことないし、嬉しいはずもない。ふとよぎる考え。それってまさか身代わり……?
鮫島さんが帰ってきて、早々に二人とは別れた。二人もさぞや気まずく思っていることだろう。
頭を駆け巡る疑念のせいで黙りこくったわたしの様子を不審に思ったのか、彼は心配そうにわたしの顔を覗き込む。
「どうした? 具合でも悪い?」
心配してくれるのは嬉しいし、鮫島さんはいつも優しい。落ち込んじゃ駄目、心配かけちゃ駄目。だって旅行は一週間後だもん。しっかりしろ!
わたしは不安を胸の奥に押しやり、精一杯笑った。
「平気です。行きましょ? お腹すいちゃいました」
うまくごまかせたようだ。鮫島さんはホッと安堵して表情を緩ませる。わたしの手を取り、歩き始めた。歩きながら彼の横顔をチラリと見る。
鮫島さん、もう元嫁のことは何とも思ってないですか?
わたしをちゃんと見てくれてますか?
わたしと付き合うって言ったのは、興味を持ったということ以外に理由はないですか? そう、元嫁に似ている、という理由……。
心に巣食ったモヤモヤはこの日から日増しに増大していった。寝ても覚めても斉藤さんの言葉の数々が頭にこびりついて離れない。もう旅行まで一週間を切ったというのに。鮫島さんと付き合い始めて、初めて感じる“不安”、“疑念”……。
ちゃんと訊かないわたしも悪い。でも訊いたら今までのように付き合えなくなるかもしれないという恐怖が押し寄せる。もし本当に彼がわたしに元嫁を重ねているとしたら、一体どうしたらいいのだろう。
眠れなくなるほど負の思考はわたしを虫食んでいった。
とうとう旅行当日。わたしは一週間前のモヤモヤを引きずったままだ。昨日もあまり眠れなかった。それでもせっかく鮫島さんが休みを取ってくれたんだもん。楽しまなきゃ。
沈みかける気持ちを必死に押し上げる。
家を出て駅まで向かう。本当は家まで迎えに来ると言われたが、それだと親がいろいろ言いそうだと断った。鮫島さんの顔を見るのを少しだけ遅らせたいという気持ちもあったかもしれない。駅までの十分の道のりでわたしは自分に言い聞かせた。
テンション上げろ! 元嫁のことは考えるな! 今は鮫島さんとの嬉しい楽しい旅行のことさえ考えればいい。そして今日彼に身を委ねれば、この不安を払拭することができるはず。
単純なわたしは十分間の自己暗示に見事かかり、駅に着くころにはいつもの自分でいられるようになっていた。
鮫島さんの姿を見つけ、ゆっくり近づく。まだわたしに気づいていないようだ。
「鮫島さん。おはようございます」
声をかけると、振り向いた彼は今日も見惚れてしまう笑顔でわたしを見る。
「おはよう。晴れてよかったね」
車に乗り込み出発する。目的地は高速で東へ三時間ほど行ったところらしい。詳しく訊いても教えてくれない。ただ「きっとラナも気に入ると思う」と言うだけだった。
それでも初めての遠出だ。不安と緊張を隠すためにも助手席でしゃべり倒した。そしていつの間にか眠ってしまった。
「ラナ、着いたよ。起きて」
揺さぶられて目を覚ます。ぼんやりしている頭が次第にはっきりしてくる。目の前に端正な顔があって驚き、飛び起きた。
「あ……、ごめんなさい。寝ちゃった……」
「いいよ。昨日眠れなかった?」
「はい。緊張して……」
本当は不安だったから。でもそんなこと言えない。それに緊張していたのも確か。嘘は言っていない。
わたしの言葉を疑うこともなく、鮫島さんは優しく頭を撫でてくれた。
「大丈夫。緊張しているのはラナだけじゃない」
嘘だ。鮫島さんが緊張してるはずがない。なんてったって、とっかえひっかえだったのだから。既婚者でもあったのだ。こんな小娘相手に余裕に決まってる。
でもその考えを頭から追い出す。気をつかってくれているだけで、心配ない。この人はちゃんと自分を想ってくれている。心の中で何度もそう唱える。
ここ最近の睡眠不足を道中で少しだけ解消することができた。でも後から考えると、このときに眠らなければよかった。そうすれば冴えた頭でこの状況を理解することなく、回らない頭で全てを彼に委ねることができたのかもしれない……。
主人公、悩んでおります。多分物語が始まって一番。
次回、目的地を巡ります。