第八章 国家利用派 3・4
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第三棟を抜けて監視棟へ戻るまで、俺の頭の中では、まだ青い"目"がちらついていた。
完全に消えたわけじゃない。
壊した球体の破片の向こうから、何かが最後にこちらを見た。その感触だけが残っている。
『お兄ちゃん』
イヤーピースの向こうで、美羽が何度も名前を呼ぶ。
それが今は、一番効いた。
監視棟の裏口から入った瞬間、美羽が駆け寄ってくる。
帽子も伊達メガネもずれている。
でも目だけはまっすぐだった。
「帰ってきた」
「帰ってきた」
そう返した瞬間、右手の熱がやっと少し落ち着く。
美羽が俺の左腕を掴む。
その体温だけで、さっきまで頭の奥で響いていた幾何学が少し遠ざかった。
結理が壁にもたれたまま息を整える。
「父さん」
短く呼ぶ。
数秒遅れて、別口から迅が入ってきた。
ネクタイは外れ、額に薄く汗が滲んでいる。
さっきの廊下で見せた剥き出しの顔が、まだ少し残っていた。
「出られたか」
「見れば分かるでしょ」
結理の返しはいつもの冷たさだったが、声がわずかに掠れている。
迅はそれ以上何も言わず、まず俺の右手を見る。
手袋の裂け目の下で、黒い筋がまだ微かに明滅していた。
「応答の残響は」
「まだある」
俺が答える。
「消えてない。たぶん、"見られた"って感覚だけが残ってる」
迅は小さく頷く。
「向こう側からの直接接触ではない。
だが、監視は始まったと考えるべきだ」
「始まった、って何が」
美羽が訊く。
迅は少しだけ言葉を選んでから答えた。
「これまでは、こちらが勝手に外を覗いていた。
だが今夜、向こう側も"こちらに何かいる"と認識した可能性が高い」
「可能性、じゃなくてほぼ確定よ」
リリスが、俺にだけ聞こえる声で言う。
『あの目、見たもの。
まだ遠い。
でも遠いからって無害じゃない』
俺は椅子に腰を下ろした。
膝が少しだけ笑っている。
港の倉庫で蓮の痛みを抱えた反動も、まだ残っていた。
結理が回収したSSDをテーブルへ置き、三つの端末へ繋ぐ。
画面に走るログ。
承認ライン。
送信履歴。
そして、青い中継ノードの破断前ログ。
「……やっぱり」
結理の声が少しだけ低くなる。
「青いノード、ただの中継じゃない。院外への送信の終端が二つある」
「志奈星本社と、もう一つか」
迅が言う。
結理は画面を拡大した。
英数字の列。
その末尾だけ、普通の企業ネットワークとも、国家回線とも違う表記になっている。
「これ、地球上のアドレス形式じゃない」
喉の奥が冷える。
「そんなの、あるのかよ」
「普通はない」
結理がきっぱり言う。
「でも、これはある。しかも、送ってるのは一方通行じゃない。微弱だけど、向こうからの"返し"も記録されてる」
迅がそこで、初めて小さく息を吐いた。
「だから志奈星は、あれを"観測窓"として維持していたのか」
『観測窓というより、呼び鈴ね』
リリスが囁く。
『失われた断片がここにいるって、ずっと小さく鳴らしてたのよ』
「……断片」
美羽が俺の顔を見る。
たぶん聞こえてはいない。
でも近い。
近いから、俺の表情で何かを読む。
「お兄ちゃん」
「お兄ちゃん」
「ん?」
「その人は、今、怖がってる?」
一瞬、言葉に詰まる。
リリスのことだと分かる。
俺の右手の中の、"その人"。
「……少し」
そう答えると、美羽は躊躇なく、俺の右手の甲へ指先を置いた。
それだけで、右手の中に細く張っていた緊張が少しだけほどける。
『ほんとにずるい子』
リリスが小さく笑う。
その笑いは、少しだけ震えていた。
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データ整理が進むにつれて、志奈星本体の輪郭は学校なんかよりずっと醜い形で見え始めた。
中央ハブの承認ライン。
家族リンク観察。
補正計画。
候補者プール。
どれも胸糞の悪い言葉だ。
でもその中で、一番嫌だったのは別のファイルだった。
Response Protocol / Auditor Class Sigma
結理がそれを開いた瞬間、部屋の空気が変わる。
「監査体……」
俺が呟くと、迅も画面を見る。
「知っているのか」
「名前だけは」
正確には、ずっと前から俺たちの会話の中にあった概念だ。
リリスを回収するための、感情を持たない"修正者"。
画面の中には、企業用に整えられた表現でこう書かれていた。
If external collective returns active acknowledgement,prevent uncontrolled individualization spread.
「未制御の個体化の拡散を防ぐ、か」
結理が低く読む。
「個になり始めること自体が、向こうには脅威ってことね」
『そうよ』
リリスの声が、今度ははっきり聞こえるくらい静かだった。
『私みたいな"逸れた私"が増えるのは、あの文明には病気みたいなものだから』
迅が続きの行を指す。
「接触予測時間」
そこには、いくつかの条件分岐と推定時間が並んでいた。
Low-response scenario: months
Mid-response scenario: weeks
Direct-wave recognition after node collapse: 48-96 hours
「四日以内……」
美羽が小さく言う。
結理が画面から目を離さないまま答える。
「最短で、ね」
つまり、あの青い窓を壊す前なら、まだ"耳"だけで済んでいたかもしれない。
でも最後の波形で、向こうははっきりこちらを認識した。
なら、早ければ四日で何かが来る。
国家利用派。
志奈星本体。
そして、地球外の集合意識の監査体。
敵が三層になった。
「笑うしかないな」
思わず言うと、誰も笑わなかった。
迅が端末を閉じる。
「時間がない」
「知ってる」
「だから、今からやることをはっきりさせる」
その声は、もう迷いを許さない指揮の声だった。
「一つ。
聖麗学院と志奈星の資料を、今夜中に複数の外部ラインへ出す。
二つ。
利用派がALICE-01を単独確保できないよう、法務・監督・報道を同時に噛ませる。
三つ。
監査体の到来に備え、No.03――蓮と、君たちの保護圏を移す」
「どこへ」
俺が聞く。
迅は少しだけ間を置いた。
「接触派の管理する沿岸観測施設だ」
「接触派?」
結理が眉を寄せる。
「父さん、まだ生きてたの」
「死んでいない。
ただ、表に出るたび予算と発言権を削られている」
少しだけ皮肉が混じっていた。
「利用派よりましなのか」
「少なくとも、君を兵器として扱う優先度は低い」
迅の言い方は、相変わらず最低限しか約束しない。
でも今は、それが逆に信用の形に近い。
「場所は?」
「相模湾沖の旧海洋観測施設。
今は表向き閉鎖済み。
だが、外と内の両方を見るには都合がいい」
『海の上』
リリスが囁く。
『あまり好きじゃないけど、地上の檻よりはましかもしれないわね』
結理がそこで、端末から目を上げた。
「父さん」
「何だ」
「その施設に、利用派は入れない?」
迅は一秒だけ考えてから答える。
「正面からは無理だ。
だが、鷹瀬は正面から来る人間じゃない」
「じゃあ結局、追ってくる」
「来る」
即答だった。
「でも、その間にこちらも準備できる」
結理はそこで小さく息を吐いた。
「結局、また時間稼ぎ」
「今はそれが一番価値がある」
そう言い切る迅の顔を見て、結理は何も返さなかった。
でも、その沈黙は否定じゃなかった




