第五章 蓮の記録 7・8
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「捨てられていないという証拠を、見せる」
結理が小声で言った。
振り返ると、端末画面に古い音声ファイルの波形が出ている。
ノイズだらけだが、かろうじて再生できるらしい。
迅が一瞬だけ眉を動かす。
「それをここで流すのは――」
「今でしょ」
結理の声は冷えていた。
「このために持ってきたわけじゃないけど、ここで使わないなら意味がない」
俺は頷いた。
「流してくれ」
蓮の目が、端末の方へ向く。
獣みたいな警戒と、子どもみたいな期待が半分ずつ混ざった目だ。
結理が音量をぎりぎりまで絞り、再生を押す。
ざ、と強いノイズ。
途中で何度か途切れる。
それでも、女の声ははっきり聞こえた。
……蓮……聞こえる?
母さん、ここにいるよ。
こわかったね。
ごめんね。すぐ会えるって、言われてたのに……
ちゃんと迎えに来るから……だから、待って……
音声はそこで切れた。
倉庫の空気が変わる。
蓮の異形の右腕が、がくんと力を失ったみたいに床へ落ちる。
コンテナの縁を越えて、だらりと垂れた。
「……きた」
今度の声は、さっきまでよりずっと小さかった。
「きてた」
まるで、信じた瞬間に壊れそうで、だから自分に聞かせるみたいな声だった。
「おまえ、ほんとに」
「見たわけじゃない。でも記録がある」
俺は一歩だけ前へ出る。
迅が何か言いかける。
でも止めない。
「お前が覚えてた『こわかったね』は、本物だ。作られたやつじゃない」
蓮の喉が鳴る。
泣きたいのに泣けない時の、あの変な音だった。
「でも、おれ、わすれた」
「忘れさせられたんだろ」
「……こわいの、だけに、された」
その言葉で、倉庫の温度が一気に下がった気がした。
そうだ。
あいつは"怖がることでしか繋がれない"ように育て直された。
母親の温度を削られ、恐怖だけを増幅される形に。
『だから未完成なのよ』
リリスが低く囁く。
『"私"になる前に、痛みの方が骨組みになってしまった』
蓮がゆっくりと顔を上げる。
その目は、さっきまでの飢えた目じゃなかった。
それでもまだ危うい。
壊れた橋の上に、初めて足を乗せるみたいな不安定さがある。
「おれ……どうすれば」
その問いに、すぐ答えられる人間がいるわけがない。
迅も、結理も、たぶん持っていない。
俺だって、持っていない。
でも、ここで黙るのだけは違う気がした。
「降りてこい」
まず、それだった。
「そこにいると、お前また一人だ」
蓮の肩が、微かに震える。
「こわい」
「分かる」
「おまえ、うそつかない?」
「たぶん、少しはつく」
自分でも呆れる答えだった。
でも、そこで完璧なことを言う方が嘘っぽい。
「でも、捨てない」
それだけははっきり言えた。
「お前が壊れたままでも、名前で呼ぶ」
倉庫の天井で、どこかの水滴が落ちる音がした。
その小さな音のあと、蓮がゆっくりと動く。
コンテナの縁へ左手をかける。
異形の右腕はまだ重そうに垂れているが、それでも一歩一歩、慎重に降り始めた。
迅の肩がわずかに緊張するのが分かる。
結理の端末には、蓮の体温と生体値が乱れているグラフが走っている。
『お兄ちゃん』
防災室の美羽の声が、イヤーピース越しに小さく届く。
『聞こえる?』
「聞こえる」
『私、ここにいるから』
その一言で、右手がまた静かに整う。
そして蓮もまた、その声を聞いたらしかった。
階段みたいに積まれた木箱の途中で、ぴたりと止まる。
「……だれ」
「美羽」
俺は短く答える。
「俺の妹だ」
「いもうと……」
蓮がその言葉をゆっくり噛みしめる。
たぶん、遠い。
でも無縁じゃない言葉。
「そこにいるよ」
『蓮くん』
美羽の声が、小さく入る。
迅が一瞬だけ俺を見る。
俺は何も言わない。
『こわいよね』
イヤーピース越しのその声は、会議場のラウンジで俺を落ち着かせたのと同じ温度だった。
『でも、今は一人じゃないよ』
蓮の右目に浮いた銀の線が、微かに震える。
「……あったかい」
今度は、奪いたい感じじゃなかった。
思い出してしまったものを確かめる声だった。
8
そのまま上手くいくほど、世界は優しくなかった。
倉庫の外で、金属のぶつかる音がした。
続いて短い怒声。
誰かが走る足音。
結理が顔を上げる。
「西側、志奈星工作員。封鎖が抜かれた」
迅の顔が一気に冷える。
「こっちの現場責任者は」
「今、外で押し返してる。でも持たないかも」
舌打ちが、迅の口から本当に出た。
初めて聞いた気がする。
蓮がその音に反応して、全身をびくりと震わせる。
まずい、と思った瞬間、倉庫の外から声が飛んだ。
「対象確認! 確保班、入ります!」
志奈星の工作員だ。
迅が即座に叫ぶ。
「入るな!」
だが、聞く気は最初からないらしい。
シャッター脇の人影が動く。
その瞬間、蓮の目がまた恐怖で塗りつぶされかけた。
「だめだ」
俺が低く言う。
「今入れたら、蓮はまた戻される」
「分かってる」
迅は短く返しながら、イヤーピースへ怒鳴る。
「西班、止めろ! 射線を切れ! 絶対に中へ入れるな!」
でも、その叫びに重なるように、また別の音が響く。
麻酔銃の作動音。
「っ!」
時間が止まる。
蓮の肩がびくっと動く。
まだ弾は届いていない。
でも、音だけで身体が反応している。
痛みに直結した記憶。
俺は反射的に前へ出た。
「蓮、見るな!」
右手が熱を持つ。
今度は遠隔じゃない。
目の前の蓮へ、直接届く。
『抱えなさい』
リリスの声が、骨の中で響く。
『怖がり方ごと、少しだけ』
意味は分からない。
でも、やるしかなかった。
俺は右手を、蓮へ向けて開いた。
「こっち見ろ」
蓮の銀の線が浮いた右目が、俺へ向く。
その瞬間、胸の内側へ何かが流れ込んできた。
痛い。
寒い。
眠れない。
誰も来ない。
怖がれ。
怖がれ。
怖がらないと切れる。
痛い。
痛い。
痛い。
息が詰まる。
膝が笑いそうになる。
これを、あいつはずっと一人で抱えていたのか。
「っ……!」
『お兄ちゃん!』
美羽の声が飛ぶ。
その一言で、流れ込んできた恐怖の濁流に、別の温度が差す。
あったかい。
帰ってきて。
ここにいるから。
右手の熱が、その二つを混ぜるみたいに震える。
俺は蓮へ向けて、低く言った。
「痛いのを、少しだけこっちへ渡せ」
迅が何か言った。
結理が「ちょっと待って」と叫ぶ。
でも、もう止まれない。
蓮の異形の右腕が、俺の右手へそっと触れた。
会議場の時みたいな暴発じゃない。
もっと静かで、もっと深い接触だった。
瞬間、倉庫中の照明が落ちる。
完全な暗闇。
でも右手同士の接触点だけが、黒とも銀ともつかない光で脈打っている。
痛みが流れ込む。
叫びたくなる。
骨の中に細い釘を何本も打ち込まれるみたいな痛み。
寒さ。
孤独。
怖さ。
でも、それと同時に蓮の側へも流れていくものがある。
帰る場所の匂い。
妹の声。
誰かに手を握られる感覚。
痛いって言ってもいい場所。
『そうよ』
リリスの声が、今度は驚くくらい柔らかかった。
『それでいい。奪うんじゃない、分けるの』
暗闇の中で、蓮の息遣いが少しずつ変わる。
荒かった呼吸が、まだ震えながらも"生きてるリズム"に戻っていく。
倉庫の外でまた怒声がした。
でも今は遠い。
「……おれ」
蓮が言う。
「おれ、まだ……ここにいて、いいの?」
言葉が胸に刺さる。
そんなことを訊かないといけない場所に、こいつはずっといたんだ。
「いい」
即答だった。
「少なくとも今は、ここにいていい」
「ほんと」
「ほんとだ」
そこで、暗闇の中に薄く照明が戻る。
非常灯の赤が倉庫の壁を照らし、俺と蓮の右手がまだ触れ合っているのが見えた。
異形の黒い腕は、さっきより少しだけ痩せたように見える。
完全に戻ったわけじゃない。
でも、暴れ方が違う。
蓮の肩が、ふっと落ちた。
そのまま、糸が切れたみたいに膝をつく。
俺もほとんど同時に膝をつきかけたが、結理が横から支えた。
「諸井!」
「……平気じゃない」
「知ってる」
初めて少しだけ必死な声だった。
迅がすぐに前へ出る。
でも蓮に触れる前に、一瞬だけ俺を見る。
「今、捕縛できるか」
「縛るな」
声が低くなる。
迅は短く息を吐いた。
「じゃあ保温ブランケットと非拘束担架だ。手足は固定しない。周囲だけで囲う」
その判断の速さだけは、本当に助かる。
倉庫の外から、ようやく迅のラインの人間が入ってくる。
今度は麻酔銃を構えていない。
柔らかい素材の担架と、銀色の保温シートだけを持っている。
蓮はそれを見て、一瞬だけまた怯えた。
でも俺が「大丈夫だ」と言うと、完全ではないにせよ、逃げなかった。
『今のうちよ、坊や』
リリスが囁く。
『この子が自分の名前を持っているうちに、次を決めなさい』




