第四章 政府の影 1・2
第四章 政府の影
1
その夜、まともに眠れたのは、一人もいなかった。
美羽は一度だけソファで横になったけれど、浅い眠りを何度も出たり入ったりしていたし、俺はそもそも目を閉じる気になれなかった。
結理に至っては、最初から眠るつもりすらなかったらしい。
モデルルームの白いテーブルにノートPCを二台並べ、回収してきたSSDを交互に差し替えながら、黙々とファイルを洗っている。
外はまだ暗い。
湾岸の高層ビル群だけが、遠くで無機質に光っていた。
画面の端に映っていた略称を、結理が拡大する。
TSC-JP
昨日の俺なら、ただの英字にしか見えなかった。
でも今は違う。
その四文字の向こうに、学校と病院と志奈星のさらに奥にある何かがいると分かってしまっている。
「……何の略だ」
俺が訊くと、結理は数秒だけ指を止めた。
「公式名称は公開されてない」
「じゃあ非公式では」
「先端安全保障技術調整会議。たぶん、それ」
さらっと言ったあと、結理は画面から視線を外さないまま付け加える。
「父が関わってる会議体の呼び名と一致してる」
喉の奥が少しだけ固くなる。
「関わってる、で済むのか」
「済まない」
今度ははっきり答えた。
「父は国家安全保障会議の技術顧問をやってる。表向きは民間の技術協力。実際には、国が欲しがるものを民間経由で拾って、使える形に整理する側」
「学校に入れた『S-LINK』も?」
「ええ」
結理の声はいつも通り平坦だった。
でも、その平坦さの下にあるものは初めて少しだけ読めた。
嫌悪。
それも、自分の家族の中に向けた嫌悪だ。
「学院の健康管理プログラムも、ストレス測定も、集中力評価も、全部"教育支援"として通した。親も教師も、生徒も、便利だと思って受け入れた」
そこでようやく、彼女は顔を上げた。
「その箱の中で、誰がどんな異常値を出すか見てた」
言葉が出ない。
入学してから何度も受けた問診やストレス検査。
脈拍、反応速度、睡眠傾向、情動の安定度。
"名門校らしい細やかなケア"だと思わされていたものが、別の目では候補者の選別になっていた。
俺は思わず、テーブルの縁を掴んだ。
「じゃあ俺は最初から」
「少なくとも、"事故のあと偶然見つかった"わけじゃない」
結理は、そこだけは曖昧にしなかった。
「入学時から長期観察対象。家族アンカー強度が高い。制度的保護が薄い。外部圧力環境下で臨界外傷が起きた場合の介入価値大」
昨日見た文面を、彼女はほとんどそのまま口にした。
制度的保護が薄い。
会社員家庭。
政治家の息子でも、芸能の名家でも、大企業の令嬢でもない。
守られる仕組みが少ないから、壊しても回収しやすい。
そこまで計算されるのかよ、と笑いたくなった。
笑えなかったけど。
『人間って面白いわよね』
右手の中で、リリスが小さく囁く。
『弱い場所を見つけるのが上手。しかも"守るため"って顔でやるんだから』
「……結理」
俺は目の前の女を見た。
「お前はどこまで知ってた」
聞かないわけにはいかなかった。
結理は少しだけ黙った。
窓の向こうの光が、白い頬を薄く照らしている。
「スクリーニングの存在は知ってた。志奈星が学院の健康管理へ入ってることも。父がそこに技術面で関わってることも」
「俺が選ばれてたことは」
「知らなかった」
即答だった。
「本当に?」
「疑うなら、それでもいい」
声は冷たい。
でも、その冷たさは防御だと分かった。
「でも私は、あなたを"対象"として見てた時期がある。そこは否定しない」
それはたぶん、結理なりの誠実さだった。
「ただ」
そこで彼女の声が少しだけ低くなる。
「妹さんの写真が送られてきた時点で、もうこれは観察じゃない。違う段階に入ってる」
その言葉の意味が、今は痛いくらい分かる。
テーブルの端で、美羽が毛布を抱えたまま起き上がった。
寝ぼけた顔で俺たちを見る。
「……お父さんが、関係してるの」
問いかけられたのは結理だ。
結理はすぐには答えなかった。
そしてやがて、短く言う。
「たぶん、かなり深く」
美羽は少しだけ目を伏せた。
それから静かに聞く。
「じゃあ、天城さんのお父さんは敵?」
結理のまばたきが、わずかに遅れた。
「……政府側の人」
否定ではない。
でも単純な肯定でもない。
その言い方だけで、余計に厄介なんだと分かった。
2
朝の五時を少し回った頃、結理の私用端末が震えた。
学院用でも、いつものスマホでもない。
黒いケースに入った、見慣れない端末だ。
一度だけ震え、止まり、また震える。
画面を見た結理の表情が、初めてはっきり変わった。
嫌な予感がする顔だ。
「誰だ」
訊く前に、結理は端末を裏返した。
でも二回目の着信で、もう隠しきれなかった。
発信元表示は出ていない。
代わりに、英数字の短い識別コードだけ。
「父」
その一言で充分だった。
部屋の空気が少しだけ変わる。
結理は立ち上がり、窓際へ行って通話を取った。
スピーカーにはしない。
でもこの静かな部屋では、低く抑えた声でも断片は拾える。
「……何」
向こうが何かを言う。
結理の肩がわずかに強張る。
「そんなこと、今さら言うためにかけてきたの」
また何か。
結理の声が少し低くなる。
「だから何。説教なら後で――」
そこで、彼女の口が止まった。
振り返った視線が、一瞬だけ俺へ向く。
嫌な視線だった。
何か、もう逃げ場のないことを聞かされた時の顔。
結理は端末を耳から少し離し、短く言う。
「……分かった。本人に代わる」
「は?」
思わず声が出る。
結理は無言で端末を差し出してきた。
画面の向こうにいるのが誰かは見えない。
でも、受け取った瞬間に分かった。
この手のひらの向こうには、俺のことを名前じゃなくコードで扱う側の人間がいる。
「諸井静男くんか?」
男の声は低く、よく通った。
年齢は四十代後半か五十代前半。
感情を抑えているわけじゃない。最初から必要以上の感情を混ぜない話し方だ。
「天城迅だ」
名乗られて、胸の奥が少しだけ冷える。
「結理の父親であり、君の件について一定の情報共有を受けている立場にある」
一定。
便利な言葉だ。
「はじめまして、ではないかもしれないが、声を交わすのは初めてだね」
「……何の用ですか」
できるだけ平坦に返す。
向こうは少しだけ間を置いた。
「まず確認だ。今、君がいるその部屋は、天城システムズの休眠管理物件だ」
背中が冷たくなる。
結理の顔を見る。
彼女も分かっていたらしく、唇を薄く引き結んだ。
「つまり、隠れ家には向いていない」
迅の声は穏やかだった。
でも穏やかなだけに、余計に逃げ場がない。
「安心してほしい。今この瞬間、そこへ人員を向かわせてはいない」
「信用できると思いますか」
「できないだろう」
それもあっさり認める。
「ただし、事態の段階が変わったことは理解してほしい」
窓の外では、湾岸の空が少しずつ青くなり始めていた。
その静かな明るさと、耳元の男の声が妙に噛み合わない。
「昨日まで、君の件は志奈星薬学公司と学院の提携医療班が主導していた。そこに民間技術顧問として我々が入っていた」
「"我々"って何ですか」
「政府の安全保障技術評価機関だ」
その答えで、胃の奥が重くなる。
「だが、御堂玲司の件と、昨夜の慈修館アクセスで優先度が上がった。もう学院だけでは処理できない。志奈星だけに任せる段階も過ぎた」
言い方は落ち着いている。
でも、中身ははっきりしていた。
お前はもう、学校と会社の問題じゃない。
政府が触る対象になった。
「……それで」
「引き渡してほしい」
即答だった。
「君自身を、という意味だ。妹さんまで含めるつもりはない」
その言い回しに、逆に吐き気がした。
「じゃあ昨日の写真は何なんですか」
少しだけ、迅の声が低くなる。
「現場が愚かだった。家族接触をあの形でやるべきではなかった」
否定はしない。
切り離すだけだ。
「だが、あれが愚かだからといって、事態そのものが消えるわけじゃない。諸井くん、君は今のままでは保てない」
『嫌な言い方』
リリスが骨の内側で囁く。
『"保てない"じゃなくて、"保たせたい形がある"だけでしょうに』
「保てないって、何が」
「リンク状態が、だ」
呼吸が少し止まる。
「君の右手は、もはや単なる後遺症ではない。だからこそ、志奈星は回収したがっている。政府は管理したがっている」
回収。
管理。
どっちも、人間へ向ける言葉じゃない。
迅は続ける。
「私は最低限の線で済ませたい。だから提案する。午前十時、臨海国際会議場の公開ラウンジへ来なさい。結理も同席でいい。君の妹さんは連れてこない方がいい」
「行かなければ」
迅は少しだけ息を置いた。
「正午以降、保護命令と逮捕命令が別系統で動く。そうなれば、志奈星の現場も、こちらの回収班も、完全には抑えられない」
美羽が、小さく息を呑む音がした。
俺は端末を握る手に力を込める。
「それ、脅しですか」
「警告だ」
「同じだろ」
「違う」
初めて、迅の声に少しだけ硬さが混じった。
「脅しは感情で動く。私は手順で話している」
ぞっとするほど、国家側の人間らしい答えだった。
「君はまだ、会社の顔と政府の顔の違いを知らない」
「知りたくもない」
「だが知ることになる」
そこではっきり、迅が言った。
「志奈星は窓口に過ぎない。本当に厄介なのは、その窓口が壊れたあとも動ける側だ」
通話の向こうで、何か紙をめくる音がした。
「結理に伝えておく。持ち出したデータの複製先は、私が今のところ潰していない。会う意思があるなら、そのままでいい」
結理の目がわずかに揺れる。
やっぱり、もうどこまで撒いたかも読まれているのか。
「十時だ。遅れれば遅れるほど、君の選択肢は減る」
それだけ言って、迅は通話を切った。
通話終了の無機質な表示が、画面に残る。
しばらく誰も動かなかった。
国家ってこういう声をしてるのか、と、くだらないことを思った。




