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第三章 志奈星薬学公司 10

   10


 俺達は設備区画の奥に入った。


 消毒液。

 冷えた空調。

 白い壁。

 この前まで入院していた病院の雰囲気に近い。

 けれど人の気配が薄くて、病院よりもずっと、禍々しく気味が悪い。


 慈修館の"表"は、生徒の健康相談棟のはずだった。

 だが地下に降りると、景色が変わる。


 窓のない廊下。

 番号だけが振られた扉。

 配線ラック。

 電子式カードリーダー付きの鉄扉。


「学校の施設じゃないな、これ」


「ええ」


 結理は足を止めない。


「学院の建築台帳に、ここは"保管庫"って書かれてる。でも実態は医療提携用の隔離区画」


「隔離って」


「表に出したくないや、そもそも出せないものを置く時に使う言葉」


 その一言で充分だった。


 目的の部屋は廊下の突き当たりにあった。

 無機質な鉄扉。

 小さなプレートには、こうある。


 資料保管室 3


 どう見てもサーバ室の扉だ。


 結理がカードをかざす。

 当然、赤。


「予想通り」


 彼女はノートPCを開き、扉脇のメンテ端子に細いケーブルを繋ぐ。

 画面に文字列が流れる。


 俺は廊下の角を背にして立ち、耳を澄ました。


『さっきより近いわね』


「何が」


『人の目。今はまだ遠い。でもこっちへ向いてる』


 結理の指は止まらない。


「話しかけないで」


「俺じゃない」


「知ってる」


 返しが速すぎる。


 数十秒後、扉のランプが青くなった。


「開く。入って」


 中は予想以上に冷たかった。


 白い棚。

 ファイルボックス。

 そして奥に、もう一枚の扉。


「二重かよ」


「見せるための部屋と、隠すための部屋」


 結理は迷いなく奥の扉へ向かう。

 今度はカードではなく、テンキーと静脈認証。

 だが彼女は扉の下部パネルを外し、内側の制御板へ直接アクセスした。


「こっちは五十秒」


「間に合うのか」


「間に合わせる」


 短い言葉の向こうに、妙な焦りがあった。


「結理」


「何」


「お前、無茶してないか」


 手は止めないまま、結理が低く返す。


「……今さら」


 次の瞬間、奥の扉が音もなく開いた。


 冷気が一段強くなる。


 中は完全にサーバ室だった。


 ラックが四列。

 青いLED。

 無機質なファンの音。

 学校の地下で見るにはあまりに場違いな景色だ。


 結理が一番奥の端末へ飛びつく。

 俺は入口付近で見張る。


「接続した。ミラーの中にさらに隠し領域……いた」


「何が」


「志奈星の専用パーティション」


 画面に、英字と識別コードが並ぶ。

 その中に、見覚えのあるものがあった。


 AHS_CORE

 FAMILY_LINK

 CANDIDATE_SCREENING


 結理の目が鋭く細くなる。


「当たり」


『気持ち悪いくらい分かりやすいわね』


 リリスが言う。


 結理は最初のフォルダを開いた。

 白い画面にテキストが流れる。


 AHS / Adaptive Host Symbiosis

 対外表記:Alien Hand Syndrome


「……」


 声が出なかった。


 対外表記。

 つまり最初から、誤魔化すための病名だった。


 結理が次のファイルを開く。


 Subject: Moroi Shizuo

 School ID: ??

 Observation Start: 聖麗学院入学時

 Candidate Basis: 高神経可塑性 / 高共感同期傾向 / 強固な家族アンカー / 制度的保護の薄さ


 最後の一行で、喉の奥が焼けるみたいに熱くなった。


 制度的保護の薄さ。


 それを選定理由に書くのか。


「くそっ……」


「まだある」


 結理の声も少しだけ硬い。


 Social Isolation Index: 高

 Risk Environment: 良好

 Notes: 外的圧力環境下における臨界外傷発生時、介入価値大


 画面の文字を、目が拒否する。


 あいつらは崖から落としたわけじゃない。

 少なくとも、その命令書はここにはない。


 でも――


 崩れやすい環境に俺がいたこと。

 外傷が起きたら価値があること。

 全部、知っていた。


 知っていて、見ていた。


 結理がSSDへコピーを走らせる。


 プログレスバーがじわじわ進む。


「これ、全部持っていく」


「待て」


 俺は画面の別の行に目が留まった。


 Asset Code: ALICE-01

 Current Status: Stabilized / Primary Limb Linked


「ALICE……?」


 結理もそこを見る。


「資産コード」


「資産って言ったか、今」


「見た通り」


 声が冷え切っていた。


 さらに下へスクロールする。


 Emotional Amplification Suspect: Attachment-based(感情増幅の要因:愛着に基づく)

 Family Link Observation: Younger sister (Miu Moroi) exhibits stabilizing effect(妹、諸井美羽が安定感をもたらしている)

 Use as leverage only in reacquisition phase (再獲得フェーズにおいてのみ、交渉の切り札として活用する)


 思わず机の端を掴んだ。

 金属が軋む。


「美羽を、テコにする気だったのか」


『最初から』


 リリスの声は静かだった。


『だから嫌いなのよ、ああいう手つきは』


 結理が次のフォルダを開く。


 POST-EVENT MONITORING

 その中には、俺が最近関わった出来事の時刻ログが並んでいた。


 Kuse incident / biometric spike

 Mido event / vocal stress escalation / thermal response in primary limb

 Family contact / stabilization


 久世事件/生体反応の急上昇

 御堂事件/声の緊張の高まり/主要四肢の体温反応

 家族との連絡/状況の安定化



「……全部チェックしてたのかよ」


「ええ」


 結理の指が一瞬止まる。


 画面の一角に、別の署名欄が映ったのだ。


 External Liaison Approval: Amagi Systems / J. Amagi


 結理が、息を止めたのが分かった。


「おい」


 呼んでも、すぐには返ってこない。


 彼女はその署名を見たまま、数秒だけ固まっていた。

 無表情のままなのに、空気だけが冷たく変わる。


「……コピー続けて」


 ようやく出た声は、普段より少し低かった。


「結理」


「今はそれより先」


 それ以上触れるな、という響きだった。


 その時、部屋の照明が一段だけ落ちた。


 ラックのLEDが赤へ切り替わる。

 コピー画面の下に、別のウィンドウが勝手に立ち上がった。


 UNAUTHORIZED ACCESS DETECTED

 ISOLATE ASSET ALICE-01


 結理が舌打ちする。


「バレた」


 同時に、天井のスピーカーから穏やかな男の声が降ってきた。


「諸井くん」


 白衣の男だ。


「そこまでにしておきましょう」


 背中が冷える。


「君の家族まで巻き込む必要はありません」


「巻き込んだのはそっちだろ」


 思わず吐き捨てると、スピーカーの向こうで小さく息が漏れる気配がした。

 笑ったのかもしれない。


「君はまだ理解していない。現在の状態を維持するには、適切な管理が必要です。君の右手は、もう通常の医学では――」


「黙れ」


 結理が画面を睨む。


「あと四十二秒。物理コピーは終わる」


「扉、開けられるか」


「外からロックされた。進入路を戻るのは無理」


 廊下の向こうから足音が響いてきた。

 一人じゃない。複数。


『右ね』


 リリスが囁く。


『壁の向こうに、古い配線を収納している空洞がある』


「そんなの分かるのか」


『分かるわよ。私、あなたより長くこういう構造を触ってきたもの』


 嬉しくない。


 結理が早口で言う。


「左奥に保守パネルがある。手で開けられれば、隣の設備シャフトへ抜けられるかも」


「"手で開けられれば"って何だよ」


「工具じゃ間に合わない!」


 その瞬間、外の鉄扉にカード認証の音がした。


 一枚目が開かれる。


 時間がない。


 俺は左奥の壁へ走った。

 確かに、小さな保守パネルがある。普通のネジ留めじゃなく、隙間もない金属板だ。


『貸して』


 リリスの声が耳元じゃなく、骨の内側で響いた。


 次の瞬間、右手が自分のものじゃないみたいに動いた。


 手袋の下で黒い筋が走る。

 指先が、あり得ない角度で板の縁へ滑り込む。

 まるで金属の繋ぎ目を"見ている"みたいに、正確に。


「っ……!」


 痛くはない。

 でも、生理的に怖い。


 指がわずかに捻られ、内部のロック機構へ触れた感触が伝わる。


 ばち、と火花。


 次の瞬間、パネルが外れた。


「開いた!」


「ほんとに何なの、その手……!」


 結理の声にすら、一瞬だけ驚きが混じった。


 コピー完了。

 SSDをぶっこ抜く。

 外の扉が開く音。


「行く!」


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