プロローグ みつけた
諸井静男が搬送されたとき、救急外来の医師は最初の一分で匙を投げた。
十六歳、男性。
高い崖からの転落による、高エネルギー性多発外傷。
脳挫傷、びまん性中枢神経損傷。
意識レベル消失。
自発呼吸、無し。
これは……、助かったとしても、まず元には戻らない。
それが現場にいた医療者全員の共通認識だった。
ストレッチャーが処置室へ押し込まれ、点滴と酸素、モニター類が一斉に繋がれる。
白い照明の下で、血のにじんだ制服がハサミで切られた。
少年の顔は青白く、瞼は閉じたまま動かない。
「家族は」
「来ます、あと十分」
看護師の報告に、執刀医が短く舌打ちした。
「……厳しいな」
その声を聞いていた男が、処置室の奥に立っていた。
白衣。四十代半ば。細身。整いすぎているほど整った顔立ち。
胸元には見慣れない社章がある。細い星を幾重にも重ねたようなマーク。
男はモニターを見つめたまま、穏やかな口調で言った。
「当社の神経再生剤、ビーワックスの適用を提案します」
処置室の空気が止まった。
執刀医が眉をひそめる。
「今?ここで?ですか」
「ええ。時間がありません」
「リスクは?ビーワックスはまだ未承認のはず」
「リスクは高いです。ですが、このままでは良い予後は望めない」
男の声には、焦りがなかった。
淡々としていて、かえって不気味だった。
やがて家族が到着した。
母は取り乱し、父は青ざめた顔で説明を聞いていた。
"通常の処置では厳しいこと"
"特殊な治験であれば可能性があること"
"ただし重い副作用が出ることもあること"
その言葉のどれが父に刺さったのかは、後になっても誰にも分からない。
ただただ、父は震える手で同意書に署名した。
母は泣きながら言った。
「助かるなら……お願いします……」
男は一礼した。
「最善を尽くしますので」
その言葉だけは、妙に完成されていた。
処置はすぐに始まった。
遮光ケースから取り出されたアンプルは、普通の薬剤よりもわずかに黒かった。
光を吸い込む、鈍い色。
看護師が一瞬、顔をしかめる。
「これ、本当に薬ですか」
誰も答えられない。
静男の腕の点滴ラインから、薬液がゆっくりと流し込まれる。
数秒後、心電図モニターが大きく乱れた。
ピッ、ピッ、ピ――――。
「心拍低下!」
「血圧、落ちてます!」
「おい、おまえ何を入れた!」
執刀医の怒声をよそに、白衣の男だけがじっと静男の右腕を見ていた。
少年の指先が、かすかに動いたのだ。
ぴくり、と。
まるで、身体の他のどこよりも先に、そこだけが目を覚ましたみたいに。
「右手がいきなり?おかしくねえか……?」
誰かが呟いた。
心拍が一度、落ち切る。
モニターの波形が一瞬平坦になり、処置室に緊張が張りつめた、その瞬間。
静男の右手が、自然に持ち上がった。
誰も触れていない。
指がゆっくりと開き、空を掴むように曲がる。
看護師が息を呑んだ。
「先生……!」
少年の右手首から先、皮膚の下に、赤い光の筋が一瞬だけ走った。
神経でも血管でもない。何か異質なものが、皮膚の内側で目を覚ましているような光だった。
モニターが再び鳴り始める。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
規則正しく、強く。
処置室の誰もが言葉を失った。
執刀医がようやく振り絞る。
「……戻った?」
「は、はい、脈、再開しています」
「血圧も上昇、八十、九十……え、何これ……」
白衣の男は静かに端末を操作した。
画面には一瞬だけ、英数字の羅列が映る。
AHS / Neural Link Reaction
Subject: Moroi Shizuo
Primary Limb Response: Right
Synchronization?
そこから先を、彼は素早く閉じた。
「経過観察に入ってください」
「何をしたんですか」
執刀医の問いに、男は振り返らない。
「命を繋いだだけです」
それが本当かどうか、分かる者はいなかった。
深夜。
病室は静かだった。
家族は一度帰宅し、消灯後の闇の中で、機械音だけが小さく続いている。
諸井静男はまだ眠ったまま、微動だにしない。
ただ、右手だけは違った。
白いシーツの上で、五本の指がゆっくりと動く。
最初は痙攣のように。
次に、試すように。
最後には、意志を持っているかのように。
やがてその手は、そっと自分の胸に触れた。
闇の中、誰もいないはずの病室で、少女の声がした。
甘く、冷たく、ひどく艶やかな声だった。
「見つけた」
静男の閉じた瞼が、わずかに震える。
「壊れかけの器。神経網は不完全。でも……いいわ」
右手の指が、ゆっくりと握られる。
「あなたなら、私を繋いでいられるかもしれない」
モニターの電子音が、一定のリズムを刻む。
その下で、誰にも聞こえない囁きが落ちた。
「はじめまして、坊や」




