メシピカ世界の地味ごはん
最初に「あれ?」と思ったのは、ある日の夕飯。いつも通りの食事が並ぶ食卓。
いつも通りの食卓が整っているのに、どういうわけか、目が釘付けになった。
「……なんで?」
5歳のココは、両手でお茶碗を持ったまま固まっていた。
艶々と光るその米粒は、どう見ても桜餅でもなく、いちご味でもなく、ただの白米なのに――
まるで絵の具を直接流し込んだような、人工的で、目が痛くなるほど鮮烈なショッキングピンクだった。
粒ひとつひとつが光を反射して、まるで小さな宝石みたいに輝いている。
(……食べ物、だよね?)
前世で見たことのある「ピンク色の食べ物」は、どれも“そういう味”がした。
けれど、これは炊きたての白米のはずだ。
「どうしたの、ココ?」
母が首を傾げる。父も同じ色のご飯をもぐもぐ食べながら、不思議そうにこちらを見ていた。
「えっと……ごはんが……」
「ごはんが?」
「……派手」
そう言った瞬間、なぜか両親が「?」という顔をそろえて浮かべた。
「いつも通りでしょ?」
「今日はちょっと落ち着いた色で、むしろ上品なくらいだぞ?」
――え?
私は、思わず自分の茶碗をもう一度見下ろした。
ピンク。どう見てもピンク。蛍光寄りの。
(……え、待って)
頭の奥で、何かが弾けたように、思考が切り替わった。
白いご飯。湯気。炊きたて。
白は白であるべきだという、妙にリアルな感覚。
(あれ……わたし……)
そこから先は、雪崩だった。
前世。日本。
スーパーの惣菜。地味な煮物。茶色い食卓。
――そうだ。私は死んだ。
そして、転生したんだ。
……この、料理がやけに原色でビビットでショッキングカラーな、映え重視の、異世界に。
■■■
この世界を作ったのは、女神だった。その女神は神々の中で、世界の構築を担当している。
いつも通り世界を構築し、環境を整えて、細かな設定を入れ込むとき、他の世界を参考にしようかな、と思い、色んな世界を覗いていた。
女神は自分が作った世界も、他の神が作った世界もチェックしていた。基盤を作った後、生物たちがどう育つかは神にとって未知だ。意外な方向へ発展していることも少なくない。
神にとって、時間も距離も意味を持たない。
彼女は幾つもの世界を、まるで早送りの映像のように同時に眺める。
そして、ある映像が目に入った。
そこは、2000年以降の日本。KAWAIIが集まる場所、原宿。
レインボーのわたあめ。クリームたっぷりのクレープ。たっぷりとトンピングの乗ったアイス。カラフルで可愛いりんご飴やいちご飴。
さらに、道行く人々の鮮やかで個性的なファッション。
色が多く、形が派手で、写真を撮りたくなるアイテムばかり。
「……この世界も、これくらい可愛くしよ♡」
KAWAIIに魅了された女神は、作っていた世界に、KAWAIIを入れ込んだ。
その結果、映え重視な見た目の料理ができあがる、メシウマ・メシマズならぬ、メシピカ世界が爆誕したのである。
さらに、服装もロリータやクラシカル、スチームパンクなど、多種多様な要素が混ざり合う独特なファッションになった。
■■■
あれから数年が過ぎて、料理を始めたのは、8歳になってからだった。
理由は単純で、「お手伝いを覚えましょう」という、ごく一般的で健全な家庭教育である。
「まずはスープを作ってみようか」
母に見守られながら、野菜を切り、鍋に入れ、煮込む。
手順は前世の記憶どおり。
――そして、完成。
「……あれ?」
鍋の中を覗き込んだ母が、固まった。
この世界で一般的なスープは、ネオンカラーの野菜が溶け込み、
表面にきらきらと光る油膜が浮かぶ、主張の激しいものだ。
それに比べると、このスープはあまりにも静かだった。
透明感のある、薄い黄金色のスープ。
にんじんはにんじん色、じゃがいもはじゃがいも色。
とても落ち着いた色合いだった。
「……地味だな」
「地味ね」
ぽつり、と父が言った。母もこくり、と頷く。
試しに母が目玉焼きを作る。
――派手。蛍光イエローの黄身と、真珠カラーの白身。
父が作った目玉焼き。
――派手。目がチカチカする輝く黄身と白身。
ココが作った目玉焼き。
――地味。普通の、とっても自然な色味の黄身と白身。
「……」
「……」
「……」
沈黙のあと、両親は顔を見合わせた。
「ココ、お前……」
「将来、大丈夫かしら……こんな地味な色味……」
心配の方向性が、色彩方面に全振りだった。
それもそのはず。
この世界では、料理は愛情表現であり、派手であればあるほど“良妻”ポイントが高いらしい。
地味=手抜き
地味=やる気がない
地味=センスがない
8歳児が背負うには、なかなかに重い偏見である。
(いや、味はちゃんと美味しいんだけどな……)
ココは内心でそう思ったが、この世界で「見た目より味が大事」と主張するのは、「服は着心地がすべて」と原宿で叫ぶくらい空気が読めない。
両親は「大丈夫、ちょっと失敗しちゃっただけだ」「味はおいしいわ」と慰めてくれたが、娘の将来をとても心配してるのは伝わってきた。
その心配が、逆に胸に刺さる。
「大丈夫よ、ココ。お料理の練習をしましょうね」
「うん……」
「大丈夫、お前も練習すれば、しっかりと輝く料理が作れるはずだ」
そうして、一生懸命、娘の将来を思って、料理を叩きこんでくれた父と母。
おかげで、料理のレパートリーは増えたが、相変わらず、私の料理はこの世界では地味だった。
同じ素材、同じ工程を経ているのに、なぜか両親の料理はビビットで蛍光色で派手な映え料理になり、私の料理は、現代日本と同じような色味。
ちなみに味も、両親の料理はこってり系な一方、私の料理は普通だ。あっさり淡泊系。
調味料も一緒の物を使っているのに、両親の味噌汁はなぜかキムチ鍋のようなパンチのある味になっていたので、もう、そういうものなんだろう。
「ココ……お前は一人でも生活できるように、領主様の屋敷で奉公に出なさい」
「そうね……大丈夫よ、ココ。手に職をつければ、結婚しなくても生活できるわ」
とても失礼な物言いである。それでも、娘を心から心配して、思っての提案だったことは間違いない。
「わかった。私、領主様のお家で働くね」
こうして私ココ11歳は、領主様のお屋敷で、下働きとして働くことになったのであった。
■■■
領主様のお屋敷は、想像していたよりも、さらに想像を裏切ってきた。
白い。とにかく白い。
白を基調にしながら、ところどころに金やパステルカラーの装飾が入り、まるで巨大なウエディングケーキの中に迷い込んだようだった。
柱も壁も天井も、光を反射してきらきらしている。装飾は多いのに、どこか統一感があって、派手なのに高級感がある。派手なのに。
(……目が痛い)
率直な感想だった。
使用人の住居は、アパートのような集合住宅で、敷地内の隅に建っている。部屋は下働き用らしく質素だったが、それでも実家の自分の部屋より広い。
個室がもらえるのは、この世界はファッションセンスや好みが多種多様なので、個人を尊重する傾向が強いからだ。
ここで寝泊まりし、働き、生活する。11歳にして、なかなかの環境変化である。
支給されたメイド服は、実用一辺倒ではなかった。
濃紺を基調に、生成り色のフリル。スカートは膝下丈で、裾には控えめなレース。さらに、白いフリフリのエプロン。
どこかクラシカルで、ロリータ風でもあり、「可愛い」を重視するこの世界らしい意匠だ。
布地は思ったよりも厚く、指でつまむとしっかりとした重みがあった。動くたびに、フリルがかすかに擦れて、しゃり、と乾いた音を立てる。
実家で着ていた服も、この世界らしい可愛いものだったが、素材がまるで別物で、背筋まで勝手に伸びる気がした。
周囲を見渡すと、他のメイドたちはもっと大胆な色合いの制服を着ている。
ピンクや水色、ミントグリーン。
この世界では、目立つことこそが「よい奉公人」の証なのだと、暗に突きつけられているようだ。
私の仕事内容は、掃除、洗濯、台所の下準備。
包丁を持たせてもらえるのは、野菜の皮むきまで。料理は原則禁止。
「……色味がね」
基本料理のテストでココが作るオムレツを見た料理長は肩をすくめる。料理長は、背が高く、がっしりとした体格をしていた。腕は丸太のように太く、前腕には鍛えられた筋肉がくっきりと浮かんでいる。
身にまとっているのは淡いラベンダー色のコックコート。襟元には細いリボン、腰にはきゅっと絞られたエプロン。
どう見ても可憐な意匠なのに、着ているのは完全に“屈強な男の身体”だ。それでいて、立ち居振る舞いは驚くほどしなやか。包丁を置く指先は長く、声は低いのに、話し方はとても女性的だ。
料理長は、悪い人ではない。ただ、悲しそうな顔でそう言うだけだ。
(ですよね)
慣れている。この世界で、私の料理は「不安になる色」なのだから。
そんな日々の中で、唯一の楽しみがあった。
自分用のお弁当だ。
朝、少しだけ早く起きる。
炊きたてのご飯を小さなおにぎりにして、卵焼きを作り、前日の残り物を少し詰める。
驚くほど地味。白と茶色、そして淡い黄色。
主張しない色ばかりで、派手さは一切ない。けれど、どれも「何でできているか」が一目でわかる。
屋敷の料理と比べると、色がなさすぎて逆に浮く。
それでも、これだけは譲れなかった。
裏庭の隅。物置の陰。
人目のつかない場所。
そこで、こっそり食べる。
「……落ち着く」
派手な色がない。
刺激がない。
ただ、それだけで、ほっとする。
「それ……」
声がして、心臓が跳ねた。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて立ち上がりかけて、止まる。
そこに立っていたのは、見覚えのない青年だった。
細い。とにかく細い。
黒を基調とした、古風な衣装。装飾は少ないが、仕立ては良く、どこか古城の肖像画の人物のようだった。
全体的に色がなく、影をまとっているような印象。
顔色は悪く、頬はこけ、目の下に薄く影がある。風が吹いたら折れそう、という表現がこれほど似合う人もいない。
視線は、私ではなく、お弁当に釘付けだった。
「……それ、君が作ったの?」
こくり、と頷く。
「……そんな色の料理、初めて見た」
一瞬だけ驚いたように目を瞬かせてから、彼は続けた。
「変、ですよね」
「いや……変だけど、怖くない」
そう言ったあと、青年は少し考えてから付け足した。
「――安心する、かな」
その言葉を口にしたとき、青年の肩から、ほんの少し力が抜けた。
「安心?」
「うん。目が痛くならない」
ココは思わず、自分の弁当と青年の顔を見比べた。
(え、それでいいの……?)
それは、この屋敷に来てから、初めて「正解だ」と言われた瞬間だった。
色味について突っ込まれない。派手じゃないことを責められない。
それだけで、胸の奥がふっと軽くなる。
「一口……もらってもいい?」
一瞬、迷った。
どう見ても、この青年はしっかりとした身分の人だろう。そんな人に、この世界では異質の地味ごはんを渡して大丈夫か、不安に思った。
でも、この人の目は真剣で、冗談でもからかいでもないのがわかった。
なので、「よし」と心を奮い立たせて、口を開く。
「……どうぞ」
卵焼きを差し出す。
青年は、恐る恐る、それを口に運んだ。
一口。
咀嚼。
嚥下。
そして――。
「……食べられた」
呆然と、自分の手を見る。
「……平気、だ……」
その瞬間を、少し離れた場所から、執事が見ていた。
■■■
「ユーグ様が、食事をとられました」
その報告を受けた当主は、言葉を失った。息子の食事について、彼は悩みを抱えていた。
その悩みが、もしかしたら解消に向けて一歩進んだかもしれない。そんな報告だったのだ。
「……ユーグが?」
「はい。一口だけですが」
「吐き戻しは」
「ございません」
しばしの沈黙。
「……その料理を用意したのは」
「最近入った下働きの少女です。名は、ココ」
当主は、深く息を吐いた。
「……メイド長と料理長を呼べ」
■■■
翌朝。
「ココは今日からユーグ様付きです」
メイド長の言葉に、その場の空気が止まった。
「……え?」
「ユーグ様のお部屋に付きなさい。ただし、ユーグ様の食事は、あなたが主担当となるように、と旦那様からのご命令です」
視線が集まる。
好奇心と不安。「本当に?」という疑念。
そもそも、ユーグ様が誰かがわからず戸惑ったが、そんな私の様子を見て、メイド長が説明してくれた。
食事が摂れない、この家の次男。
何度も倒れ、何度も回復しかけて、また戻る。
今は流動食を無理やりとっている状況。
その特徴を聞いて、私の頭の中で、あの細すぎる青年と、ユーグ様がイコールでつながった。
「……わかりました」
私は、静かに頭を下げた。
■■■
ユーグ様の部屋は、屋敷の奥にあった。
日当たりはいい。人の気配は少ない。
「本日から、ユーグ様の食事担当になりました。ココです」
よろしくお願いします、と頭を下げる。
ユーグ様はベッドに横たわって、私の挨拶を受けた。
どうやら昨日出歩いていたのは、少しでも体力をつけるための散歩でのことだったらしい。
「よろしくね」と穏やかに私に言うユーグ様は、私が押してきた配膳ワゴンを見て、苦笑いをする。
「……液体?」
「今日は少し違います」
なお、配膳ワゴンはティートローリーのようにおしゃれでアンティーク調で可愛いタイプのものだ。
流石すぎる世界観である。
私はいそいそとワゴンを押してユーグ様の元へ行き、載せていた鍋の蓋を開けた。
中身は卵雑炊である。病人食とはいえ、多少の固形物を入れるように、お医者様からも指定された。
この世界の人たちは普段からこってりしたものを食べているので、基本的には少食だ。
少しの量で栄養が満ち足りる。でも、こってりしたものを毎日食べれるほど胃は丈夫。
なので、病人食であっても、胃に優しいだけでなく、ある程度の固形物は許容範囲とのこと。
それを聞いて、重湯を作ろうとしていた予定を変更して、お出汁を利かせた卵雑炊にしてみた。
上には小葱を散らしているが、この世界の食事情からすると、とても地味。
「……これ、昨日見た色味と似てるね。
君が作ったの?」
「はい」
取り皿に入れて、スプーンを添えてユーグ様に渡す。
ユーグ様はくんくん、と匂いを嗅いで、恐る恐るスプーンを口元に運んだ。
一口。二口。
「……平気、だ」
安堵より、戸惑いが勝った声だった。ぽろっと涙が零れている。
ココの手料理は、彼が失っていた“食べられる安心感”そのものだった。
涙は、戸惑いではなく、ほっとした安堵から零れたものだった。
料理長から聞いたところによると、ユーグ様はメシピカによる弊害で、ご飯を食べることがトラウマになってしまっていたらしい。
決定的だったのは、派手な色と強すぎる香辛料に隠された、生焼けの鶏肉。食あたりを起こして寝込んでしまったそうだ。
今の料理長の前任による料理だったそうだが、当初、もともと虚弱気味のユーグ様だったため、単なる体調不良だと思われていたらしい。
しかし、何度か食あたりを起こした結果、ユーグ様は派手なご飯を拒否するようになった。当然、前任はクビになったらしい。
なぜ、ユーグ様だけ食あたりを起こしたのか、という点。私の予想だと、この世界の人たちは強靭な胃袋の持ち主だけど、ユーグ様は、それこそ日本人と同じような強度の胃袋なんだと思う。
つまり、こってりした料理を毎日食べるには厳しいし、細菌類への耐性も日本人と同程度なのだろう。そんな人が過熱が不十分な鶏肉を食べたら、食あたりを起こしても、不思議ではない。
少なくとも、私にはそう思えた。
そんなユーグ様がご飯を食べてくれるかは、賭けだった。
私のお弁当の卵焼きを食べたとはいえ、物珍しさからだったことは事実。今後継続して食べてもらえるか、また、食べようと思ってもらえるかとは別問題だ。
三口目を食べようとして、でもスプーンを上げる手が止まったので、私はサッと皿を取った。
「今日は、ここまでで」
「……無理をさせないんだな」
「はい」
ユーグ様は少し笑う。
「医者より、優しい」
■■■
ユーグ様付きの食事担当になったココの朝は早い。
厨房に足を踏み入れると、その場にいた人たちに挨拶する。そして、冷たい空気の中で朝日の光できらきらツヤツヤとしている野菜たちを見に行った。
ひとつずつ手に取り、においをかぎ、形を確かめる。
「どの野菜がいいかな……」
独り言のように呟く。うーんと悩むココを見て、近くで仕込みをしている料理長が助言をしてくれた。
「今日のにんじんは、火を通すと香りが立つわよ」
「!そうなんですね」
料理長の助言を受け入れて、綺麗なにんじんを手に取った。手は止めずににんじんを切る。
朝ごはんづくり開始。今日は“少しだけ派手な彩り”を意識してみる。とはいっても、ココが作るご飯は強制的に地味ごはんになるので、料理長が隣で作っている映えご飯と比べると、地味な色味だ。
赤、黄色、緑……色を足していくと、皿の上はカラフルになった。
「これは……ユーグ様、目がチカチカしてしまうかも」
ココが「どうしよう」と悩むと、料理長はくすっと笑う。
「何言ってんの!全然色味がないわよ!
でも、色のバランスは悪くないわね」
料理長はこの世界で美食とされる原色もビビットさもないココの料理を見ても、褒める要素を見つけてくれる。優しい料理長の言葉に「よし!」と気合が入った。
その後、何度も調整を重ね、最終的には落ち着いた色味と味に収める。
香りは立ち、食感は柔らかく、味はしっかり感じられるだろう。
「今日も頑張ったわね」
そう言って頷く料理長。筋肉モリモリの優しいオネエを前に、私は「これからも頑張ろう!」と奮起した。
■■■
医師は首を傾げた。
「……量としては、まだ軽食にも満たないのですが」
そう前置きしたうえで、彼はユーグの皿をじっと見つめる。
皿の中央には、箸をつけた跡がわかる程度の煮魚。その横には、手をつけられずに残っている副菜。
白米も、ほんの数口分が減っているだけだ。
しかし、1か月前のユーグ様からするとあり得ないほどの量を食べている。
「それでも、確実に“食事”になっていますね」
「はい」
ユーグ様は、どこか誇らしげに胸を張ったように見えた。
「ちゃんと、噛んで、味を感じて、飲み込みました」
「それができなかった時期を思えば、十分すぎる進歩です」
医師は穏やかに言い、手元の記録帳にペンを走らせた。
「食後の不調は?」
「ありません。むしろ……」
ユーグは言葉を探すように一瞬だけ視線を彷徨わせてから、
「……次も食べたい、と思いました」
その言葉に、室内の空気がふっと緩んだ。
執事は控えめに微笑み、当主は一度だけ深く頷く。
ココは思わず、ぎゅっとエプロンの端を握りしめた。
「それは、非常に良い兆候ですね」
医師はそう結論づけた。
「派手な色味の料理に対する拒否反応は、相変わらずですか?」
「それはもう、仕方ないと思っています」
ユーグはあっさり言った。
「無理に克服しようとは思いません。
“食べられるもの”があるだけで、十分ですから」
その言い方は、どこか晴れやかだった。
この日を境に、屋敷の空気はわずかに変わった。
廊下ですれ違う使用人の視線が、以前より柔らかくなったように思う。
ココは「得体のしれない地味ごはんをユーグ様に出している怪しいメイド」から、「ユーグ様が食べられるご飯を提供しているメイド」に格上げされたようだ。
■■■
ユーグ様の食事は、それ以降「治療」ではなく、「日課」になった。
ただし、特別な日課であることに変わりはない。
「今日は、昨日より一口多くいけそうですか?」
ココがそう尋ねると、
「いける……たぶん」
「たぶん?」
「いける“気がする”」
そう言ってから、二人で顔を見合わせて笑う。
派手料理が基準のこの世界で、
煮物や焼き魚が並ぶ光景は、相変わらず異様だった。
だが、その異様さを指摘する者はいない。
屋敷の人間は、もう知っているのだ。
この地味な皿こそが、ユーグ様の命綱だということを。
ユーグ様は、確実に食べられる量を増やしていた。
一口、二口。
五口、七口。
ある日は「今日は三口で満足」
別の日は「思ったよりいけた」
それだけの変化が、屋敷ではちょっとした話題になる。
「ユーグ様、今日は魚を半分召し上がったそうですよ」
「まあ」
「お椀にも、ちゃんと口をつけられていました」
噂話は、どこか明るい。
だが、誰も“普通に戻った”とは言わない。
それは、まだ先の話だと全員が理解していた。
そんな中、噂の中心となる地味ごはんをひと目見ようと、メイドがこっそりと厨房にやってくることが増えた。
「……これが噂の地味ごはん?」
台所に来たメイドが、ココの料理を見てざわつく。
「地味でも、味の奥行きは十分だわ!
見た目よりも、体と心に優しいのがポイントよ」
料理長はココの作った膳をそう評価する。
「それもそうですね」
メイドたちも小さく笑い、その場に温かい空気が戻った。
■■■
ある日の昼食時、私は少しだけ、欲を出した。
ユーグ様の食事量は、確実に増えてきている。
「もう少し行けるかもしれない」と、昨日、自分で言っていた。
(じゃあ……ちょっとだけ)
ほんの少しだけ、栄養を足してみよう。
ほんの少しだけ、味に奥行きを持たせてみよう。
私は、厨房で鍋を前に考え込んでいた。
ベースはいつもの煮魚。
白身で、脂が少なく、匂いも穏やか。
そこに――ごく少量の、生姜。
生姜は、この世界では珍しくない。むしろ、派手料理の常連だ。
強い香りで、食欲を刺激するために、たっぷり使われる。
(……ほんの、ひとかけら)
包丁の先で刻む。入れすぎない。
絶対に、入れすぎない。
鍋に落とした瞬間、ふわっと香りが立った。
――あ。
それだけで、胸がざわついた。
強くない。でも、いつもより、明らかに“主張”がある。
私は、すぐに火を弱めた。
蓋をして、香りが飛ぶのを待つ。
(……大丈夫。たぶん)
自分に言い聞かせるように、何度も頷いた。
◇
配膳ワゴンを押して、ユーグ様の部屋へ向かう。
今日の彼は、窓際の椅子に座っていた。少し顔色がいい。
その変化だけで、胸が温かくなる。
「お昼ご飯をお持ちしました」
「ありがとう。今日は……いつもと違う匂いがする」
――早い。
私は、心の中で小さく呻いた。
「少しだけ、です」
「少し、か」
ユーグ様は、責めるでもなく、興味深そうに鍋を見る。
蓋を開ける。
煮魚は、見た目はいつも通りだ。
色も、問題ない。
でも、香りは……。
ユーグ様は、箸を持つ前に、くん、と一度だけ匂いを嗅いだ。
その瞬間。
ほんの一瞬、眉が寄った。
それは、嫌悪ではない。
恐怖でもない。
でも――ためらいだった。
(あ)
心臓が、ひゅっと縮む。
「……今日は」
ユーグ様は、言葉を選ぶように、少しだけ間を置いた。
「今日は、どうだろう」
箸を持つ手が、皿の上で止まる。
一口目が、来ない。
私は、すぐに理解した。
(だめだ)
これは、食べられない。
「……今日は、やめましょう」
私は、すぐに皿に手を伸ばした。
「え?」
「無理しなくていいです。
昨日、たくさん頑張りましたから」
ユーグ様は、驚いたように目を瞬かせる。
「でも、まだ……食べてない」
「はい。でも、“食べようとした”だけで、十分です」
私は、皿を下げる。
迷いなく。躊躇なく。
ユーグ様は、少しだけ、ほっとしたように息を吐いた。
「……怒らないんだ」
「怒りません」
「がっかりもしない?」
「しません」
それは、嘘じゃなかった。
むしろ、胸の奥にあったのは、強い反省だ。
(私が、欲を出した)
彼のペースを、一番わかっているはずなのに。
◇
部屋を出てすぐ、私は厨房に引き返した。
鍋の中身を見る。
見た目は、完璧だ。
味も、きっと悪くない。
でも――ユーグ様には、早すぎた。
「……やっちゃったわね」
背後から、料理長の声がした。
振り返ると、ラベンダー色のコックコートを揺らしながら、料理長が腕を組んで立っている。
「香り、足したでしょう」
「……はい」
「ほんのちょっと、って顔してる」
図星すぎて、何も言えない。
「気持ちはわかるわよ」
料理長は、鍋を覗き込みながら続けた。
「良くなってきたら、次に進みたくなるもの」
そして、指先で、生姜をつまみ上げる仕草をする。
「でもね。回復途中の人にとって、“少し”は“多い”の」
その言葉は、柔らかいけれど、重かった。
「今日のあなた、悪くない判断をしたわ」
「え……?」
「下げたでしょう。すぐ」
料理長は、にっこりと笑う。
「無理させなかった。
それが、一番大事なの」
胸の奥が、じわっと温かくなる。
「失敗した料理は、私が食べるわ」
「えっ」
「もったいないでしょ」
料理長は「実は、貴女の料理の味、気になってたのよね」と冗談めかして笑い、煮魚をもりもりと食べてくれた。
◇
その日の夕方。
私は、ユーグ様の部屋に、お茶といつもの雑炊だけを持っていった。
ユーグ様は安心したように、慣れた味を口に運んでいる。
そして、一息つくと、ユーグ様は、少し考えてから、こう言った。
「……今日の昼」
「……?」
「下げてくれて、助かった」
視線が、窓の外に向く。
「無理しなきゃ、って思わなくて済んだ」
「……それなら、よかったです」
少しの沈黙。
「明日は?」
「明日は、いつも通りに戻します」
「……うん。それがいい」
その返事を聞いて、私は確信した。
今日の失敗は、後退じゃない。
“安心が続く”ことを、確認しただけだ。
料理は、進歩だけじゃなく、引き返す勇気も必要なのだ。
(次は、欲を出さない)
私は、心の中でそう誓った。
明日もまた、安心できるご飯を並べるために。
■■■
そんな折、来客があった。
午後の光が、応接間の床に派手な色彩を落とす。
その中心に立っていたのは、ひと目で「この世界の正解」とわかる女性だった。
「ユーグ様、ご機嫌いかがですの?」
艶やかな声とともに現れたのは、元婚約者の女性、リリアン様だった。
鮮やかなドレスは、宝石箱をひっくり返したような配色で、布地そのものが光を放っているように見える。
美しい金糸の髪には、フリルとリボンたっぷりのヘッドドレスが着けられている。
装飾過多なのに、嫌味にならない――それが、彼女の才能だった。
元婚約者。ユーグ様の幼なじみ、リリアン様
かつて、ユーグ様の未来に「最もふさわしい」とされた女性。
虚弱だったユーグ様の隣には、いつも彼女がいた。
食が細い彼のために、「せめて見た目が楽しい方がいいでしょう?」と、誰よりも派手な料理を勧めたのも、最初は彼女だった。
それは、この世界では、正しい優しさだった。仲睦まじい様子だったという。
そんな2人が婚約解消となった理由。
それは、恋愛感情が冷めたからでも、家同士の不和でもない。
ユーグ様が、食事を摂れなくなったことが原因だった。
食べられないということは、将来を望めない。
どれだけ家柄が良く、どれだけ人柄が良くても、「将来」が不安視される。
――このままでは、先が見えない。
そう判断したのは、リリアン様でも、ユーグ様でもなく、周囲の大人たちだったと聞いている。
婚約は、いつの間にか「解消」という形で整理された。
誰かが悪者になることもなく、だからこそ、誰の心にも整理がつかないまま。
「……以前よりは」
ユーグ様は少しだけ背筋を伸ばして答えた。その体つきは、以前よりもしっかりと肉が付き、ガリガリを脱してきている。
その仕草に、彼女は小さく目を細めた。
「お噂は伺っております。
お食事が、少しずつ召し上がれるようになったとか」
「限定的に、だけどね」
そう付け加えた瞬間、彼女の視線が卓上へと落ちる。
彼女が訪れたのは昼食時だったし、ユーグ様の食事の最中だった。それを伝えたら、「丁度いいですわね」と言って、そのままユーグ様のお部屋にいらしたらしい。
彼女の視線の先に並んでいるのは、相変わらず落ち着いた色合いの料理だった。
白米は白米のまま。
煮魚は、照りこそあれど、光らない。
副菜も、主張しすぎない色味で整えられている。
「……ずいぶん、静かな食卓ですのね」
その言葉には、驚きと戸惑いが混じっていた。
じっと食事を見ていたリリアン様は、ゆっくりとココを見た。
値踏みではない。敵意でもない。
ただ、「事実」を確認する目だった。
「あなたが?」
「はい。お食事を担当しています」
「……そう」
それ以上、何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ、彼女の指先がドレスの縁を握りしめた。
◇
その日の会話は、表面上は穏やかに終わった。
笑顔もあったし、礼儀も尽くされた。
しかし、リリアン様が応接間を出た後、使用人たちはそっと視線を交わしていた。
「……リリアン様、大丈夫かしら」
「そりゃ、気になりますわよね……」
メイドたちは小さく話す。誰も声を大にはしない。
だが、屋敷全体が“様子見”の空気になっていた。
地味ごはんが、ついに議論の場へ出てきた。
それが意味するものを、皆が理解していたからだ。
翌日。さらにその翌日。
その後も、リリアン様は何度か理由をつけて屋敷を訪れた。
「差し入れですわ」
並べられた料理は、どれも完成度が高い。
色鮮やかなビビッドカラーの盛り合わせ。金箔が散らされたスープ、虹色に輝くゼリー、火のように赤いソース――香りも鮮烈で、視覚と嗅覚を同時に刺激する。
多くの人が「きれいだ」と言う料理たち。
「以前、お好みでしたでしょう?」
ユーグ様は、虹のように鮮やかなソースが渦巻く皿を前に、一瞬だけ言葉を失っていた。
赤や青、黄の彩りが目の前で踊るようで、困ったように微笑む。
「……ありがとう」
彼女は、その表情を見逃さなかった。
「無理はさせませんわ」
そう言いながら、視線が、ゆっくりとココへと移る。
「ただ……知りたいのです」
声音は柔らかい。
けれど、その奥には、長く積み重ねてきた疑問と焦燥が静かに渦巻いていた。
「どうして、その方の料理は大丈夫なのかしら?」
色?
調理法?
それとも――。
「私では、いけなかった理由を」
その問いは、私に向けられているようで、本当は、ずっと自分自身に向けられてきたものなのだと思った。
派手な料理を用意したこと。
食べられない彼の前に、何度も「最高に美しい正解」を差し出したこと。
それが、結果的に彼を追い詰めてしまったかもしれないという恐れ。
でも、それを否定するのは、あまりにも酷だ。
この世界では、それが“正しい優しさ”なのだから。
胸の奥がきゅっと縮む。リリアン様が、今も本当に苦しい思いをしていることが伝わってきた。
ユーグも、黙ったままだった。
■■■
主菜・副菜をある程度ユーグ様が食べられるようになってきた頃、私は次の壁に気づいていた。
(……甘いもの、どうしよう)
この世界の食文化において、甘味は特別だ。
主食や副菜以上に「華やかさ」が求められる。
色は鮮烈であればあるほど良い。
甘さは強く、香りは派手で、見た目は祝祭のように。
――それこそ、ここ最近、リリアン様が持ってくるもののように。
逆に言えば――地味なデザートは、存在しないに等しい。
けれど。
ユーグ様は、最近、食後に小さくため息をつくことが増えていた。
「……ごちそうさまでした」
食事が「安心」になった今、食事がトラウマになる前に食べていた食後のデザートを食べたいと思い始めたのではないか。
でも、私の推察が間違っていたら、ユーグ様の負担になってしまう。
このまま何も出さないのが正解なのか。
それとも――。
◇
その日、私は厨房で、米袋の前に座り込んでいた。
「……お菓子、作れたよね?」
前世の記憶を辿る。米から作る、甘いもの。
白くて、静かで、主張しない甘さ。
この世界の基準では「異物」だ。
けれど、ユーグ様の基準は、もうこの世界の“正解”から外れている。
(……やってみるだけ、やってみよう)
私は、炊いた米をすり鉢に入れ、少しずつ潰していった。
砂糖は、ほんの控えめ。香りづけは、何もしない。
混ぜて、蒸して、固める。
出来上がったそれは――
「……白いわね」
後ろから、料理長の声がした。
振り返ると、相変わらず優雅な立ち姿で、腕を組んでいる。
「……はい」
「色、付けないの?」
「付けません」
料理長は、しばらく無言でそれを見つめていた。
皿の上にあるのは、ほぼ白一色の、つるんとした甘味。
飾り気も、光沢も、主張もない。
「……デザート、よね?」
「はい」
「勇気あるわ」
それは褒め言葉なのか、警告なのかわからなかった。
料理長はスプーンで少量すくい、口に運ぶ。
もぐもぐ。咀嚼は、ゆっくり。
「……甘いけど」
「……」
「落ち着いてるわね」
その一言で、肩の力が少し抜けた。
料理長は、くすりと笑う。
「今のユーグ様には、ぴったりよ」
◇
その日の昼食後。
私は、小さな器に盛った白い甘味を、そっと差し出した。
「……これは?」
「デザートです」
「……派手じゃないね」
ユーグ様は、少し困ったように笑う。
「無理なら、食べなくても」
「……匂い、しない」
彼は、スプーンを持つまでに、少しだけ時間をかけた。
でも、止まらなかった。
一口。
口に含んで、しばらく、何も言わない。
(……だめだった?)
心配になった頃、ようやく、ぽつり。
「甘いのに……食後なのに、落ち着く」
「……」
胸の奥が、じんわり温かくなる。
「これなら」
「……?」
「これなら、最後に来ても、平気かも」
それは、派手な成功じゃない。
歓声も、驚きもない。
でも。「甘いものが、怖くない」と思ってもらえたことが嬉しかった。
◇
その後、厨房ではちょっとした騒ぎになった。
「え、これがデザート?」
「色、どこ?」
「逆に新しい……?」
興味本位で集まってきたメイドたちが、半信半疑でスプーンを口に運ぶ。
「……あ、意外と美味しい」
「料理の後に食べたら、変な感じしそう」
料理長は、それを聞いて満足そうに頷いた。
「それでいいのよ」
「え?」
「全部が主役じゃなくていいのよ、特にユーグ様は」
その評価が、胸に残った。
■■■
後日。
私は廊下で、帰り際のリリアン様に声をかけられた。
「あなた、特別なことをしているわけではないのね」
「はい。普通に作っています」
「調味料も、工程も……何も変わらない」
「はい」
しばらく、沈黙。
私の料理がなぜ地味ごはんになってしまうのか、それはわからない。
日本人の転生者だから、という理由が大きいとは思うけど、何故メシピカにならないのか、という根本的な疑問は解決されていないのだ。
「……そう」
彼女は、静かに息を吐いた。
リリアン様は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
悔しさも、未練も、プライドも。
全部まとめて、胸の奥に押し戻すような仕草だった。
「幼い頃から、ずっと隣にいるのが当たり前だったの」
「……」
「だから、諦めて、離れる理由を、探していたのかもしれないわね」
それは、責める声ではなかった。
自分自身に言い聞かせるような響きだった。
「鮮やかな色合いの派手な料理が良いと信じて。
体にいいものを、彩りよく、楽しく……ユーグ様のために、最善だと」
唇が、わずかに歪む。
「でも、それは“私が良いと思う正解”」
ココは、何も言えない。
否定も、肯定もできなかった。
リリアン様は、ゆっくりと呼吸を整える。
目線はまっすぐ前を見つめているが、その奥には微かに、覚悟めいた光があった。
「私、他の婚約を受けることになりましたの。
…………私がここに来る理由は、もう終わりましたし」
その言葉には、ほんのわずかの寂しさと、けれども晴れやかな決意が混じっていた。
自分ではどうにもできなかった過去を認め、前に進むことを選んだ瞬間だった。
リリアン様は一瞬だけ、寂しそうに笑う。
「ちょっと、悔しいですけど。理解はしました」
たっぷりとした薄紫のフリルが、廊下の光を受けてくるりと翻る。
絹の光沢が微かに揺れ、華やかな影を落とした。
「私の居場所は、ここではなかった。
それだけのことね」
そう言い残し、彼女は背を向けた。
金糸の刺繍が施された色鮮やかで美しいドレスが、廊下の光を受けてながら、遠ざかっていく。
私は、ピンと伸びたその背中に、深々と頭を下げた。
リリアン様の背中が廊下の光に溶けていくのを見送りながら、胸の奥に、わずかな寂しさと静かな安堵が同時に広がる。
その区切りを見届け、私はそっと深呼吸をした。
■■■
リリアン様が決意を宿して屋敷を去った日の夜。
厨房は、いつもよりも静かだった。
火を落とし、片付けを終えた調理台の前で、私は一人、ぼんやりと立っていた。
ドレスの裾が翻ったあの光景が、まだ目の奥に残っている。
「はい、これ」
振り返ると、料理長が立っていた。その手には、湯気の立つマグカップが二つ。
料理長は一つを私に差し出し、調理台にもたれた。
「……終わったわね」
「はい」
それ以上、説明はいらなかった。
◇
「ねえ、ココ」
料理長は、カップを持ったまま、静かに言った。
「あの方はね、“正解を出すのが上手すぎた”のよ」
私は、一瞬、言葉を失った。
責めるでもなく、擁護するでもない。
ただ、そうだったのだ、と事実を置くような声音。
「……」
「派手で、華やかで、皆が求める“理想”を、完璧にこなせる人」
「……はい」
「でもね」
料理長は、少しだけ目を細めた。
「“正解”って、時々、人を追い詰めるの」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「……私は」
思わず、口を開いていた。
「私は、たまたま合っただけです」
逃げでも、謙遜でもない。本心だった。
料理長は、すぐに頷く。
「ええ。でも“たまたま”に居続けるのは才能よ」
その言葉は、静かで、強かった。
「合う、ってね」
「……」
「一回当たることじゃないの。
相手が変わっても、状況が揺れても、“戻れる”ってこと」
私は、以前の昼食の失敗を思い出す。
欲を出して、下げて、戻ったこと。
「あなたは、戻れた」
「……」
「それが、できない人も多いのよ」
料理長は、ふっと息を吐いた。
「それにしても」
「……?」
「あのドレス」
「え?」
急な話題転換に、思わず顔を上げる。
「見事だったわね」
「……はい」
「似合ってた」
「はい。とても」
だいぶ肉がついてイケメンぶりが表れているユーグ様の隣に立っても遜色のない、美しい方だった。
私が素直に頷くと、料理長は少しだけ考え込み、
「……あれ、着こなすの、大変なのよ?」
「そうなんですか?」
「ええ。重いし、動きづらいし、食事も気を遣う」
「料理長も、似合いそうですね」
一瞬。空気が止まった。
料理長の動きが、ぴたりと止まり、次の瞬間。
「……っ、こほん」
わざとらしい咳払い。
「あなた、変わってるわね」
「……え?」
「褒め言葉よ?」
そう言って、料理長は肩をすくめた。
「まあ……嫌いじゃないわ」
「……?」
よくわからないまま首を傾げる私を見て、料理長は小さく笑った。
「ココ」
「はい」
「あなたは、誰かを“負かした”わけじゃない」
「……」
「ただ、“違う道”を照らしただけ」
それは、リリアン様にとっても。
ユーグ様にとっても。
「だから、背負わなくていいの」
「……はい」
「今日みたいな夜はね」
料理長は、マグカップを置く。
「ちゃんと、余韻に浸りなさい」
私は、深く息を吸った。
胸の奥にあった重さが、少しずつほどけていく。
派手な答えは、いらない。
静かな日常が、また明日へ続いていけばいい。
そう思える夜だった。
■■■
数か月後。
ユーグ様は、ついに“一人前”に近い量を前にしていた。
「今日は……なんとか食べきりたい」
「はい」
ココは頷く。今日はいつも以上に気合を入れて料理を用意した。
ちょっと重めのものを出すように、とお医者様から指定されていたので、メイン料理には豚肉のソテーを出している。
「でも、ゆっくりで大丈夫です」
医師も、当主も、執事も、少し離れたところで見守っている。
一口、また一口。
途中で箸を止めながらも、焦らず、無理せず。
緊張した様子だけど、ユーグ様は時折「美味しい」とこぼしながら、食べ進めた。
そして―――
「……食べれた」
ユーグ様は、空の皿を前に、呆然と呟いた。
自分が食べれたことが意外だと、信じられないことだといわんばかりに。
「はい。十分すぎるほどです」
執事がそう告げると、当主はほっとしたように静かに微笑む。
医師は記録帳を閉じた。
「これで、食事制限は大きく緩和できますね」
それは、ユーグ様が大きな一歩を踏み出したことを意味していた。
■■■
ユーグ様は、自由になった。
食事も、外出も、制限なく楽しめる。
それなのに。
「外に出てもいいって言われると、逆に、いつ出ればいいかわからない」
あいかわらず部屋にこもりがちなユーグ様は、そんなことを私に零した。
「え?」
「今まで、"今日はダメ”しかなかったから……」
そんな理由で悩む人を、私は初めて見た。
「じゃあ、散歩に行きますか?」
「……ココが一緒なら」
どうやらユーグ様にとっての“自由”は、選択肢が増えることではなく、選ぶ勇気を試されることらしい。
さらっと誘われて、ココはちょっとそわそわしてしまう。
「……なんだか、落ち着かないんだ」
「そうですか?」
「うん」
ココが出した、茶色や淡い緑でまとめられた、シンプルで落ち着いた地味ごはん。
それを見て、彼はほっと笑った。
「でも、ココが作るものは、安心する」
ユーグ様は箸を持ったまま、ちらりとココを見る。
「……明日も、これ?」
「はい」
「明後日も?」
「たぶん」
「じゃあ、しばらくは安心だ」
その言い方が、あまりに自然で、ココは一瞬、返事を忘れた。
答えは、まだ出さなくていい。
2人の距離は、まだ名前を持たない。
けれど、今日も変わらず、地味なごはんが並ぶ。
ただ、「また明日も作ろう」と思えることが、温かい誇らしさとして胸に広がった。
メシマズ世界での唯一のメシウマ!とかも好きなのですが、ご飯が派手な世界で地味なご飯を作るのを見てみたくて、書いてみました。
料理がメインの題材だったこともあり、異様に料理長の登場が多くなってしまいました……。
恋愛要素薄めの作品ですが、ちょっとずつ動いていく2人の今後に思いをはせていただけたらと思います。




