其の七十「酒と小説」
これから語るのは、もしかするとこれから広まるかもしれない
いや、広まってしまうかもしれない「怖い作り話」です。
全部で壱百八話。どれも短い物語です。
しかしその中には、時に背筋に冷たいものが走り抜け、
時にひそひそと誰かの囁きが聞こえ、
時に見てはいけないものが見えてしまうこともあるかもしれません。
そしてひとつだけ、どうしても言っておきたいことがあります。
これらの話は、すべて作り話です。しかし、ただの作り話ではありません。
この話、本当なんです。
これは、私が登山が趣味の友人から最近聞いた話です。
半年前、運動不足の解消にと、私はウォーキングを始めました。
最初は近所を歩くだけでしたが、だんだん距離が伸びていくのが楽しくなり、次第に「低い山なら登れるんじゃないか」と思うようになりました。
そこで、登山が趣味の友人にアドバイスをもらおうと連絡しました。
市内の公園で一時間ほどしっかり歩いた後、休憩できる日陰に腰を下ろし、水分補給をしながら、装備のこと、服装のこと、気をつけるべきこと──いろいろ教えてもらいました。
その中で、友人がふと真剣な顔になり、こんなことを言ったのです。
「登山道の脇で、本を読んでる人を見かけても……絶対に声をかけちゃダメだよ。」
私は思わず笑ってしまいました。
「どうして?山で読書なんて、優雅じゃない。」
しかし友人は笑いませんでした。
むしろ、私の反応を見てさらに表情を曇らせたのです。
「それ……生きてる人じゃないから。」
そして友人は、山で経験した怖い体験談を話してくれました。
◇◆◇
それは、友人がまだ登山を始めたばかりの頃のことだったそうです。
何度か仲間たちと山を登り、経験を積む中、一度ソロ登山に挑戦したいと思った友人は、初心者向けの低山に一人で登る計画を立てました。
季節は初夏。その日はとても天気が良く、登山客も多かったため、初めてのソロ登山でもどこか安心感があったそうです。
そんな中、友人は気分よく山道を歩いていたのですが、その途中、ふと違和感を覚えました。
──静かすぎる。
辺りはすんと静まり、他の登山客の気配もない。
まるで、その場所だけが現実から切り離されたように感じたそうです。
その時でした。
登山道の脇の大きな岩に、誰かが腰掛けていました。
白いシャツに黒いズボン。登山には不釣り合いな服装のその男性は、三十代くらいに見えたそうです。
手には文庫本を持ち、ページをめくる指先が──ぺら……ぺら……と、妙にゆっくり動いていました。
「あんな格好で大丈夫なのかな」と思いながら、
「こんにちは」と声をかけようとした瞬間、友人はあることに気づきました。
──その人の足元に、影がない。
太陽は真上に近く、周囲の木々や岩にはくっきりと影が落ちているのに、その男性の足元だけが、ぽっかりと影を落としていなかったのです。
さらに、風が吹いても髪も服も揺れない。本のページも微動だにしない。
動いているのは、ページをめくる手だけ。
友人は背筋がゾゾゾと凍りつくのを感じました。
「これは……生きてる人じゃない!」
そう直感した友人は、声をかけるどころか、目を合わせることすらできず、そっと視線を逸らして歩き出しました。しかし、数歩進んだところで、どうしても気になって振り返ってしまったのです。
──そこには、もう誰もいませんでした。
岩の上には何もなく、影もなく、ただ風が吹き抜けているだけ。
「その時、気づいたんだよ。きっとあれは……この山で自ら旅立った人なんだって。」
友人はそう言って、深く息を吐きました。
◇◆◇
私はゾワワワと鳥肌が立ちました。
登山道の脇で本を読む幽霊──そんな話、聞いたことがありません。
友人の話によれば、山で自ら命を絶った人の傍らには、ある二つの所持品が落ちているそうです。
ひとつは、アルコール度数の強い酒。もうひとつは、小説。
「冬の山で自殺する人ってね……高い確率で、アルコール度数の高い酒と小説を持ってるんだって。酒を飲んで眠気を誘い、小説を読みながら……そのまま眠るように死んでいくんだよ。」
だから、山で本を読みながらあの世へと旅だった“人”は──その姿のまま、そこに残ってしまうのだと。
「じゃあ、声をかけたらどうなるの?」
私がそう聞くと、友人は少し間を置いてから言いました。
「……ついてくるらしいよ。」
その言葉に、私は息を呑みました。
「登山道の脇で本を読んでる幽霊はね、自分が最後の瞬間を迎えた場所を誰かに見つけてほしいらしいよ。だから、声をかけた人の後ろを、ずっとついてくるんだって。」
友人は冗談めかして言いましたが、その目は笑っていませんでした。
◇◆◇
この話を聞いたとき、私の登山を始める気持ちは少し揺らぎました。
でも、せっかく運動不足解消のために歩き始めたのです。挑戦してみたい。
一週間後、私は友人に教えてもらったおすすめの低山の登山道入り口に立っていました。そして、一歩踏み出す時、心の中で呟きました。
「登山道の脇で本を読んでいる人を見かけても、絶対に声をかけないように。」
それが、生きている人なのか、死んでいる人なのか。
私には、きっと見分けがつかないから。
◇◆◇
これが、登山が趣味の友人から聞いた話です。
この話、作り話のように思えるかもしれませんが──
私は本当だと思っています。




