其の四十「言祟無幽」
これから語るのは、もしかするとこれから広まるかもしれない
いや、広まってしまうかもしれない「怖い作り話」です。
全部で壱百八話。どれも短い物語です。
しかしその中には、時に背筋に冷たいものが走り抜け、
時にひそひそと誰かの囁きが聞こえ、
時に見てはいけないものが見えてしまうこともあるかもしれません。
そしてひとつだけ、どうしても言っておきたいことがあります。
これらの話は、すべて作り話です。しかし、ただの作り話ではありません。
この話、本当なんです。
これは、私が怖い話のいいネタがないかと、さまざまな動画を見ている中で考えさせられた話です。
怖いと言うにはどこか違う、しかし確かに怖くなるような、そんな話。
結論から言えば、
幽霊や怪異の呪いや祟りは、空想かもしれない。 けれど、人の言葉は呪いや祟りになりえる。
私はふと、そんなことを思ったのです。
例えば、私がある土地に纏わる怖い話を語ったとします。
「この話、本当なのです」と言って話を締めくくる。
すると、聞いた人の心に「え?本当なの?」という思いが浮かび、
その土地が怖い場所だという認識が植え付けられる。
それはまるで「呪い」のように、聞いた人の心に消えない印象を残す。
また、希望を持って新しい何かを始めようとする人がいたとします。
その人が「君にはできない」という言葉を耳にした瞬間、
それが心の影となり、本当に行動できなくなってしまうこともあります。
その言葉は、まるで呪いのように人の未来を縛り、可能性を奪うのです。
幽霊や怪異の呪い、祟りも、彼らが直接「もの」を言うわけではありません。
それを「呪い」として伝えるのは、結局、「人の言葉」なのです。
そう考えると、呪いや祟りの根本にあるものは「言葉」ではないのか。
怖い話のネタ探しをしている中、私はそのことに気づき、
言葉の重さにどこか恐怖を覚えるようになりました。
言葉は形を持たない。
しかし、確かにそれは、時に人を縛り、時に動きを止めさせ、そして時に心を蝕む。
それは幽霊や怪異よりも、ずっと現実的で逃げ場のない祟りなのかもしれません。
思い返せば、私自身も言葉に縛られた経験があります。
「お前には無理だ」と言われたこと。「そんなことをしても意味がない」と笑われたこと。
その時、心の奥に冷たいものが広がり、行動する気力を失った。
あの瞬間、私は確かに「呪われていた」のだと今になって思うのです。
そして、逆もまた然り。
「君ならできる」と言われた時、心が軽くなり、前へ進む力が湧いた。
言葉は呪いにもなり、励ましにもなる。その両面を持つからこそ、恐ろしい。
私は動画を見ながら、ネタを探しながら、ふと気づきました。
幽霊の姿を見せる必要はない。 怪異の現象を描く必要もない。
人の言葉そのものが、最も身近で、最も強力な「怪異」なのだと。
言葉は耳に届いた瞬間、心に刻まれる。 そして、それは時に消そうにも消えない傷となり、 何度も思い返され、何度も心を締め付ける。それは幽霊の囁きよりも強く、怪異の影よりも色濃い「呪い」。
私は考えました。 もし、日常の中で交わされる何気ない言葉が、すべて呪いの種になりえるとしたら?
私たちは知らず知らずのうちに、互いを呪い合っているのではないか、と。
「できない」「無理だ」「怖い場所だ」「不幸になる」
そんな言葉を口にするたび、人は誰かの心に呪いや祟りを植え付けている。
そしてそれは、幽霊、怪異よりも確実に人を蝕む。
私はそのことに気づいてから、言葉遣いに注意しようと思うようになりました。
不用意に口にした言葉が、誰かの未来を奪うかもしれない。
何気なく語った言葉が、誰かの心に呪いを残すかもしれない。
言葉は祟りになる。 言葉は呪いになる。
幽霊や怪異の恐怖よりも、ずっと身近で、ずっと逃げられない恐怖。
これは、私が考えた話。
怖いと言うにはどこか違う、ある意味、確かに恐ろしい話。
この話、本当かもしれません。




