其の弐「背後の視線」
これから語るのは、もしかすると、これから広まるかもしれない
いや、広まってしまうかもしれない、「怖い作り話」です。
全部で壱百八話。どれも短い物語です。けれど、その中には、時に背筋に冷たいものが走り抜け、時にひそひそと誰かの囁きが聞こえ、時に、見てはいけないものが見えてしまうこともあるかもしれません。
そして、ひとつだけ、どうしても言っておきたいことがあります。
これらの話は、すべて作り話です。けれど、ただの作り話ではありません。
この話、本当なんです。
これは、少し前に聞いた話。
語ってくれたのは、特別霊感があるわけでもない、どこにでもいるような人だった。
日常の中に、ふと入り込んできた出来事。
それを本人は「怖かったけど、ちょっと笑える話でもある」と言っていたのだが、
私は、どうにも笑えなかった。
その朝は、いつも通りだったという。まだ薄暗い早朝、自宅のキッチンで朝食の準備をしていた。パンを焼き、卵を割り、コーヒーを淹れる。窓の外は静かで、鳥の声もまだ聞こえない。家族はまだ眠っていて、家の中には自分ひとり。
そんな静けさの中で、ふと、背後に「何か」の気配を感じた。
それは視線としか言いようのないものだった。誰かが見ている。背中にじっと、穴が開くほど見つめられている。そんな感覚が、皮膚の上をゾゾゾと這うように広がっていった。
最初は気のせいだと思った。寝不足かもしれない。朝のぼんやりした頭が、勝手に何かを作り出しているだけかもしれない。そう思って、卵をかき混ぜながら無視しようとした。
しかし、その視線は消えなかった。
むしろ、ゾゾゾと這うような感覚はどんどん強くなっていく。呼吸が浅くなり、手が震え始める。心臓の鼓動が早くなり、耳の奥でドッドッドと脈打つ音が響く。
怖い。でも、怖いからこそ、ふざけたくなる。
そんな心理が働いたのだろう。彼は、半ば冗談のつもりで、振り向きざまに叫んだ。
「貴様! 見ているな!」
そう言いながら、背後に向かって指を差した。その瞬間、視線はスッと消えた。
まるで、誰かが「見つかった」とでも言うように、ゾゾゾと這うような気配が霧のように薄れていった。空気が軽くなり、呼吸が戻る。彼は安堵し、笑いながら「やっぱり気のせいだったか」と思ったという。
だがその後、ふと鏡を見たとき、事態は変わった。
キッチンの隅にある小さな鏡。何の変哲もない鏡に映った自分の姿を見て、彼は凍りついた。
鏡の中の自分の背後。そこに、何かがいた。
白く、ぼんやりとした輪郭。人のようで、人ではない。顔のようなものがあり、そこには、確かに「笑み」が浮かんでいた。
それは、優しい笑顔ではなかった。冷たい、無表情のような、ただ口元だけが大きく歪んだ笑み。目は見えない。それなのに、見えないはずの目がこちらを見ているような気がした。
彼は鏡から目をそらし、振り返った。だが、そこには誰もいなかった。
鏡の中だけに、存在していた「何か」。
その後、彼はキッチンの鏡を外し、物置にしまったという。理由は聞かなくてもわかる。あの笑みを、もう一度見るのが怖かったのだろう。
この話を聞いたとき、私は「作り話だろう」と思った。誰かが考えた都市伝説のような、ちょっとした怪談。そう思いたかった。
でも、彼の語り口は、妙にリアルだった。笑いながら話していたが、目の奥には、確かに何かを見た人の説得力のようなものがあった。
そして、最後に彼はこう言った。「これ、作り話だから」
この話、本当なんです。




