希望をなくしたお姫様
「ねぇ、私を殺してくれない?」
少女は言った。
歳は、十代半ばといったところか。「女性」と表現しても、間違いではないだろうが、その顔にはかすかに幼さが残っている。
風によって、背中の半分ほどまで伸ばされた金色の髪がなびいた。風に従い揺れるその髪は、美しい。
少女は、その美しい髪に似合う、豪華な身なりをしていた。
見るからに高級そうな赤色のドレス。
パーティーにでも行くのではないか、と考えを巡らすその服を少女は普段着のように着ていた。
金色の美しい髪が彼女をより引き立て、さらに輝いて見える。
少女の目の前にいるのはまだ若い青年。
とは言っても、体つきは良く、身なりはそれなりに豪華である。
腰には二振りの剣がさしてある。
それもその筈、名をロディというこの青年は、このアルデラ国の立派な兵士なのだから。
まだ若く、役職には就いていないものの、腕はいいと評判の兵士である。
ロディは一拍置いて、ため息をついた。
「何を言っているんですか?姫様。冗談にしてはたちが悪いですよ?そんなことを言われるくらいなら、いつものようにからかわれた方がよっぽどマシです。もう、そんな冗談を言ってはだめですよ」
小さな子どもを諭すようにロディは言った。
アルデラ国は豊かな国だ。広大な土地を持ち、作物もよくできる。
作物が育ちにくい寒い土地には、銀山があり、作物の代わりに、資源が豊富に採れるのだ。
腕のいい職人を育てる学校も早くから創設されているため、技術力も高い。
そのため、貿易では他国との交渉で主導権を握ることができている。
しかし、それは国の立地条件が良いからというだけではない。
ひとえに、アルデラ国王、ミトラスの手腕の賜物だ。
冷静に、そして時には残酷に彼は政を行う。
民の幸せを一番に考えて。
それだからこそ、ミトラスは民に愛されるのだ。
そして、国の長にとって、一番必要なのは、それだ。
民から、尊敬され、愛されること。
その愛されている国王が授かった子は一人だけだった。将来この国を引っ張っていく義務を、生まれながらにして与えられた王女、ルキ。
美しい金色の髪は、ミトラスの血を受け継いでいることを如実に物語っている。
ルキは、幼いころから政治、経済はもちろん、若き兵士たちに混ざり、剣術も学んでいた。剣術はルキが自分から「やる」と言い出したものだった。
娘を溺愛しているミトラスは「危険だからだめだ」と言ったが、ルキは首を横に振った。
「自分の身くらいは自分で守ります。国の上に立つ者が弱くては、国民から尊敬が得られるとは思えませんから」
それが、ルキの言い分である。
ルキは頑固な娘だ。
自分が一度信じた道を曲げることをしない。
そういうところが、母親に似ている、そう苦笑しながらミトラスは仕方なく首を縦に振ったのだ。
女が剣を持つなどそれまでは考えられなかった。だから、誰もが、ルキは形だけに終わるだろうと考えていた。
しかし、予想に反し、ルキの腕は良かった。
筋力の差、体力の差はあるが、それを巧みな技でカバーする。
力の入れ方、刃先の角度、それらを巧く操ることで、ルキは周りを圧倒していった。
ルキを護るために剣術を習っている体格のいい男たちと互角に戦うのだから、周りは必死だった。
しかし、ともに修業をした者の中で、一人だけルキが圧倒的に敵わない人間がいた。
それが、ロディだ。
ロディは巧かった。
何が、と正確に言うことはできない。
ただ、巧かった。
ルキはロディが闘っている姿を見ると、そうとだけ思う。
力が強い。持久力もある。技のセンスもいい。
ただ、それ以上に精神的にとても強かった。
だから、ルキはロディには敵わないと感じた。
圧倒的な敗北。
でも、それは悔しくない敗北だった。
そして、ロディが他と違う点はもう一つある。
ロディはルキを特別扱いしなかった。
「王女」という身分だと知りながら、ロディはルキをただの仲間として扱った。もちろん、言葉遣いや振る舞いはきちんとしていたけれど。
それが、ルキには嬉しかった。
そしてやっぱり、敵わないな、と思うのである。
今では、ロディは数少ないルキの友だちだ。ロディにとっては、ルキは守るべき姫であり、友であり、なおかつ、可愛い妹である。
もっとも、ルキにとっては、暇つぶしの相手兼相談役なのだが。
「おーい、ロディ。ちょっと来い」
少し離れた所から、ロディを呼ぶ声がする。彼のより位が一つ上の兵士の声だ。背の高いロディの影に隠れ、ルキの姿は見えていない。
「はい。今行きます」
ロディはそう叫ぶと、一拍置いて、腰をかがめ、ルキと視線を合わせた。
ルキはそんなロディを見て、「相変わらず、子ども扱いなのね。同い年の癖に」、と心の中で小さく悪態をつく。
それに気付かないロディはルキの頭に手を載せた。二回ほど軽く叩く。
ただの兵士に過ぎない青年が王女に対しこんなことができるのも、「友」であるが故だ。
「姫様、約束してください。もう、こんな冗談は言わないと。もし、次、こんな冗談を言ったら、私は口を利きませんからね」
ロディは言い終わると数回ルキの髪を撫で、呼ばれた方へ駆けて行った。
ルキはロディが去って行った方向を数秒見つめていた。
先ほど、ロディが撫でたように自分の髪を軽く触ってみる。
「…冗談じゃないから、また言ってもいいんだよね?」
もう見えないほど遠くに行ってしまった親友に、そう呟いた。
「親友のロディなら、私を殺してくれると思ったのにな。…誰に頼めば、殺してくれるんだろう?」
ほんの少し考え、ルキは、回れ右をし、百八十度向きを変えた。
そして、歩き出す。
「殺してくれる」、そんな人を探して。
「ねぇ、私を殺してくれない?」
ルキは言った。
ルキの前に立つのは、乳母のイル。
四十半ばの小柄な女性だ。青いドレスに身を包む彼女は、穏やかな仕草で、ルキを見た。
イルは、しばらく、考える。
冗談だろう、そんな言葉では片付けられないほど、ルキの顔が真剣だったから。
伊達に、長年一緒に時を過ごしたわけではないのだ。
ルキの小さな表情の違いに気が付かない筈がない。
だから、問うた。
「…それは、どういう意味ですか?」
「言葉のままの意味だけど?」
「姫は…、死にたいのですか?」
イルの声はかすかに震えている。
対照的に、ルキの声は、しっかりしていた。
「ええ。…死にたいというよりは、生きていたくない、という感じだけど」
「どうして、そう思うのです?」
「理由が必要なの?」
「もちろんです。訳なく死ぬなど…!!姫、良く聞いてください。生きるということは、とても素晴らしいことなのですよ。それは……」
イルは、生と死について、熱く語った。
生きることの大切さをルキに知ってほしかったから。
ルキもそれに応えた。
小一時間ほどの講義を真剣に聞いた。
それは、幼いころから、何度も聞かされた「道徳」と全く同じ内容であったが、イルがこんなに真剣に語るのだから、大切なのだと思い、真面目に聞いた。
そして、わかった。
「死ぬことはいけないことで、生きることはいいこと」
つまりは、そういうことなのだと。
そう、理解した。
「姫、わかりましたか?」
自分の話に真剣に耳を傾け、時には、大きく頷いていたルキの姿を見て、イルはもう大丈夫だと思った。
「うん。わかった。理解したよ。…ところで、私を殺してくれるの?くれないの?」
「…」
ルキは、「死ぬことはいけないことで、生きることはいいこと」ということはわかった。
しかし、それは万人に当てはまるものでもないこともわかっている。
ルキは、剣を使う。必要ならば、戦地で人を殺す。
父が亡くなり、自分が国のトップとなれば、罪人を殺める決断もする。
だから、「死」や「生」を一言で語れるとは思えなかった。
死ぬことはいけない。
理解はできても、それが自分に当てはまるかと言われれば、そうではないと思う。
「生きていたくない」のだ。
ならば、死んでもいいのではないか。
ルキはそう考える。
「生きること」はルキにとっての「いいこと」ではないような気がした。
イルは、ルキの純粋な目を見た。
穢れのない目。
「姫」
「何?」
「悩みがあるのなら、私が聞きます。いくらでも聞きます。…どれだけお役に立てるかわかりませんが、その悩みを解決するために、どんなことでも致します。…だから、死にたいなんて、言わないでください」
懇願するイル。
そんなイルを見て、ルキは小さく微笑んだ。
「大丈夫。悩みなんてないわ。相変わらず、心配症なのね」
そう言うと、ルキは薄ピンクに染まった、レースのハンカチをイルに渡す。
その優しさのあふれる行為に、イルは「もう大丈夫だ」と感じた。
だから、笑みを浮かべる。
そして、確認した。
「姫。もう大丈夫ですね?」
「うん。大丈夫よ」
「悩みがあったらすぐに相談してくれますね?私は、いつでも、話を聞きますから」
「わかったわ。悩みなんて今のところないけど、悩みができたら、イルに相談する。だから、泣かないで」
「はい。それでは私は、失礼しますね」
「うん。わかった。忙しいときに、ごめんなさい」
「いいえ。またいつでも、お声をお掛けください。イルは、姫のために存在するのですから」
「大袈裟なんだから」
ルキは小さく声を上げ、笑う。
イルはそんなルキを見て、微笑みを浮かべ、深々と一礼した。
そして、ルキに背を向け、去っていく。
ルキはイルの背を視線で追いながら、おそらく応えが返ってこないだろう言葉を発する。
「つまり、殺してくれないってことでいいのよね?」
力のないイルに殺してくれと言ったところで無理だったのだ、次はちゃんと殺せる人を探そうと、イルが聞いたら、失神しかねない考えを浮かべながら、九十度向きを変え、再び歩き出した。
「ねぇ、私を殺してくれない?」
歩き出してすぐに出会った、長身の兵士に問う。
「姫さん、そりゃ、度が過ぎた冗談ですぜぇ」
そう言って、笑ってどこかに行ってしまった。
「ねぇ、私を殺してくれない?」
食事の支度をしていた侍女に問う。
「と、とんでもないことでございます。姫様。こ、殺してくれなど!!そんな簡単に口にしていい言葉ではありません!!」
イルと同じように、「死と生」について教えられた。
「ねぇ、私を殺してくれない?」
暗殺部隊の一人を呼び出して、問うた。
「私は、姫や王を護るために、人を殺めるのです。この国のために、人を殺めるのです。それ以外では、人を殺めることはできません。姫の願いであろうとも、護るべき姫を殺めるわけには、まいりません。…姫、『死』はそうたやすく、考えてはいけないものなのです」
そう言われ、首を横に振られてしまった。
「ねぇ、私を殺してくれない?」そのルキの言葉は、次第に王にも伝わった。
大切な、大切な愛娘が「殺して」などと言っている。
ミトラスは気が気でなかった。
だから、すぐに娘を呼び出した。
「そんなことは言っておりませんわ」いつもの口調で、そう笑う娘の姿を望みながら。
思うままに歩みを進めていたルキは、気付けば、城の門のところまで来ていた。
ルキは、強いとはいえ、誰も付けずに、外出をすること許されていない。
しかし、もう、敷地内には、目当ての人はいないように感じた。
「黙って、抜け出してしまおうか」そんな考えが、ルキの頭をよぎる。
しかし、それは、止められた。
「姫」
不意にかけられた、その声で。
振り向けば、 若き近衛兵が、ルキのすぐ後ろに立っている。考え事をしていたルキは、気配に気付かなかったようだ。
しかし、ルキは、驚くことなく、「どうしたの?」と振り返る。
二人の間には身長差はあまりない。
「ミトラス国王がお呼びです」
「お父様が?」
「はい。今すぐ、いらっしゃるようにとの仰せです」
名残惜しそうに門を見ていたがルキだったが、思い直すように軽く首を振る。
「…わかったわ。行きましょう」
「はい」
そう言って、若き近衛兵は、ルキの二歩後に続いて歩いた。
不意に、金色の髪が見えなくなる。
目の前にルキの美しい顔があった。
「ひ、姫様?」
若き近衛兵は、顔を少し赤らめる。
「ねぇ、あなたは私を殺してくれる?」
近衛兵は苦笑し、首を大きく横に振った。
「そう。…あなたも私を殺してはくれないのね」
「申し訳ありません」
「いいわ。行きましょう」
さほど気にする様子もなく、ルキは再び前を向いた。
近衛兵は、噂は本当だったのだと、綺麗になびく金髪を見ながら静かにため息をついた。
しばらく歩くと、大きな城が見えてきた。
白を基調とした、童話に出てくるような、美しい城。
ルキは歩みを進め、城の中でも一番豪華な場所へ向かった。
そこには、数人の家来とミトラスがいる。
家来はこの国で最も力のある兵士四人と、参謀が一人。国王の側近だ。
兵士たちは、王がどこから襲われても護られる位置に、凛として立っている。
兵士に囲まれた中に、ミトラスは座っていた。
優しい物腰の初老の男性。
しかし、体は引き締まっており、眼光は鋭い。
けれど、その鋭さはルキに向けられることはなかった。
溺愛されているルキは、父ミトラスの本当の怖さをまだ知らない。
そしておそらく、永遠に知ることはないだろう。
扉をノックする音が聞こえた。
「入ってよい」
「失礼します。お父様」
そう言うと、音を立てず、ゆっくりと扉を開けて入ってきたルキにミトラスは、いつもの優しい笑みを向けた。
「急に呼び出したりして悪かったな」
「いいえ。…何か急ぎの御用ですか?」
「いや。…なぁ、ルキ。ルキは今、何か悩んでいることはあるのか?」
「悩み…ですか?」
何か重要な知らせがあるのか、と緊張して来てみれば、なんだ、そんなことか、とルキは小さく息を吐く。
ミトラスにとっては重要な事なのだが、親の心、子知らず、な訳である。
「そうだ。悩みがあるなら、私が聞こう。最近は、忙しくてお前と共に過ごす時間をなかなか作れなかったからな」
「お父様、私は今のところ、悩みなんてありませんわ」
「そ、そうなのか?」
「ええ」
「でも…小耳にはさんだのだが…」
そこで、ミトラスは口ごもる。「殺してくれと言っているそうではないか」と聞きたいのだが、「はい、そうです」と言われるのが怖くて、言い出せない。
兵士たちが何人もそう証言し、乳母のイル、ルキの親友であるロディもそう言っているのだから、まず間違いはないのだが、それをわが子の口から聞きたくはなかった。
「何をお聞きになったのですか?」
「いや…、その…」
剛腕のミトラス。
民に慕われ、他国には恐れられる一国の王。
それでも所詮、娘の前では、ただの父親。
「いや、…なんでもない。わざわざ、呼び出して悪かったな。下がって良いぞ」
「え?」
「すまない。私から呼び出しておいて悪いのだが、急用を思い出した」
「急用、ですか?」
「ああ。あと半刻もすれば、コルヴィノ王国の第一皇子、キース殿がやってくるのだよ」
「コルヴィノ王国は、今成長している隣国ですね。…王子が切れ者だという噂が耳に入っております」
「その切れ者が訪ねてくるのだ。正式に次期国王になるとのことだ」
「そうですか」
「ああ。この国は、今は栄えている。だが、油断は禁物だ。それゆえ、隣国とは和平を結んでおきたい。特に、早くから、切れ者と呼ばれているキース殿はとな」
「わかりました。下がります」
「ああ。わざわざ悪かった」
ルキは軽く頭を下げ、扉に手をかけた。
「ちょ、ちょっと待て」
そのルキをミトラスが呼び止める。
「なんですか?お父様」
振り返り、軽く首を傾げた。
「あ、いや…。…もし、悩み事があるようなら、遠慮なく言うのだぞ。私は、お前の父なのだから」
「はい。わかりました。悩み事ができたら真っ先にお父様に相談しますね」
「ああ。そうしてくれ」
「はい。それでは失礼します」
ルキは再び、音を立てずに、扉を開けた。
かすかに入ってくる太陽の光がまぶしい。
ミトラスはもう見えなくなった娘の背をまぶたの裏に浮かべ、小さく言葉を発する。
「私は、いい父ではないな。お前の本音を聞くのが怖いなんて」
周りにいた兵士たちは、静かに首を振った。
しかし、目を閉じていたミトラスが気付くことはなかった。
太陽が強すぎず、弱すぎない光で地上を照らす。その光が木々の葉や花びらに反射し、輝いて見える。
ルキはその輝きの中、城に背を向け、再び歩き出した。
「本当は、何が言いたかったんだろう」というミトラスへの疑問は、解消されはしなかったが、多忙なミトラスと少しでも話せたことへの嬉しさの方が上回った。
そのため、「ま、なんでもいいか」と先ほどまで抱いていたモヤモヤをなかったことにする。
そしてまた、人探しを始めた。
「…あ、お父様に頼めばよかったのかな?」
思わず、そんな独り言が出た。
ミトラスは、ルキを溺愛している。だから、ルキの頼みを断ったことがない。
たとえ初めは反対していても、ルキが譲らなければ、結局は折れてくれるのだ。
「お父様なら、どうしたかしら?…殺してくれたのかな?」
ルキは歩みを止めずに、想像する。自分が、ミトラスに「殺してください」と言っている場面を。
想像の中のミトラスは、困った顔をしていた。友のロディや乳母のイルのように。
実際は、考えるより、困った顔をするのだろうな、と想像の中のミトラスに苦笑しながら、ルキは思った。
「…皆、死ぬなって言うのね。悩みを聞くのね。…悩みがなくちゃ、死んではいけないのかな?生きていたくないってことは、死んでいいってことなんじゃないのかな?…どうして、誰もわかってくれないんだろう」
ルキは、自分の気持ちを整理する時、言葉に出して考える癖があった。だから、今回も、誰もそばにいないにもかかわらず、声を出していた。
「声がしたと思って来てみたら、なんだ、子どもかよ」
不意にそんな声がルキの耳に入る。
ルキは、自分の足元ばかりに注がれていた視線を上に持っていった。
目の前には、一人の青年が立っていた。ルキより頭一つ分背が高い青年。
赤い髪。
豪華な洋服。
黒いマント。
腰には二振の剣。
見るからに庶民ではなかった。貴族かそれ以上の階級であろう。
この国の城は、他国に比べれば、人の出入りは激しい。政治や外交についての話し合いに来る貴族の姿がよく見られるのだ。
しかし、この国の貴族ならば、ルキの顔を知らないわけはない。したがって、目の前にいる青年のような口を利く筈がないのだ。
もっとも、赤い髪自体、この国には珍しく、この国の者でないことは、一目でわかったが。
つまり、素性がわからなからない青年であった。
しかし、ルキはそのことについて、多少なりとも気にしなかった。
別に、目の前の青年が、誰であろうが関係ない。
それよりも、「子ども」と称されたことの方が、気になった。
青年は、ルキのことを「子ども」と称したが、ルキの目から見て、青年は、ルキと同年代だった。たとえ、ルキよりも年上だとしても、それは一歳か二歳の差だろう。
だから、「子ども」と言われ、加えてため息をつかれるなんて、甚だ心外であった。
「子どもっていうけど、あなたと歳はあまり変わらなく見えるけど?それとも、あなた、すごく若づくりをしているおじさまなのかしら?」
「子どもって言葉に異常に敏感になってるってことはな、自分は子どもです、って言ってるのと同じなんだよ」
青年はからかうように言う。
しかし、ルキは青年の言葉に、妙に納得していた。
「…それも、そうかもしれないわね。でも、むかついたの」
「ストレートに言うんだな、お前」
「ええ。素直なところがいいところだって、ロディが言ってくれたわ」
「ロディってお前の恋人か?」
「いいえ。親友よ」
「へぇ。…それで、素直なお嬢さん。俺は、一応お前に謝ればいいのか?」
ルキはそう言われ、数秒考えた。
「……謝らなくても、いいわ。別に。でも、一つ、お願いがあるの」
「お願い?」
「ええ。…私を殺してくれない?」
「ああ。別にいいよ」
青年は、即答した。「お安い御用だ」とでも後ろに付けそうな調子で。
その初めての反応に、ルキは多少興味を抱いた。
「死」や「生」のことを語るのではなく、悩みごとを聞くのでもない。
「殺してくれる」と彼は言っているのだ。
「死ぬことに、理由なんていらない」と。
「今、殺せばいいのか?」
「ええ。かまわないわ」
「…あのさ、ちょっと待ってくれないか?」
「殺してくれないって意味かしら?」
「いや、そういう意味じゃなくてさ…。俺、今、道に迷ってるんだよ。ここ、広すぎ。何、これ?庭?木とか花とか多すぎだし。一瞬、森に迷い込んだのかと思ったぜ?せっかく、城に入れたんだから、ちょっと見ていこうと思って、門に入ったところで馬車から降ろしてもらっただけなんだけどな。…こうも広いと、今、自分がどこにいるのかさえわからなくなってさ」
「森、は言いすぎね。確かに、木や花は多いけど。でも、自然が近くにあるのって、温かい感じがするでしょう?」
「そりゃ、そうかもしれないけど、他国から来たやつにとっては迷路だよ」
「…他国ってことは、やっぱり、この国の人間ではないのね」
独り言なのか、目の前の青年に言っているのか判断しかねる声の大きさでルキは言葉を発した。
しかし、彼の耳にはしっかり届いていたようだ。
「ああ。でも、やっぱりって?」
「この国に、そんな赤い髪の人いないもの」
「そう言えば、そうかもな」
青年は、自分の短い髪を軽く、触る。
「他国の人間が、よく建物に着く前に馬車から降ろしてもらえたわね。もし何かあったら、国同士の問題に発展するかもしれないのに」
ルキの言葉に青年は困ったような表情を浮かべた。
「何?その顔は?」
「あはは…。そうだな、一歩間違えたら、国同士の問題に発展してかもな。まずかったかな…」
「でも、あなたより、あなたを降ろした人間に問題があるわ」
「いや…。降ろしてもらったっていうよりは…、むしろ勝手に降りたかも。俺の付き人も必死で俺を呼び戻してたし」
ほんの数十分前の光景を思い出し、青年は、「あはは、やべぇな」ともう一度、苦笑した。
「ま、過ぎたことはしょうがないわ」
同情しているわけではなく、無感情にルキが、彼に言う。
その言葉に、「それもそうだよな。後から謝ればいいんだし」と、彼は先ほどの元気を取り戻した。
「…あのさ、それでなんだけど、道を教えてから死んでくれないか?できれば、近道な。俺が時間までに行けば、大きな問題にはならないだろうし」
青年は、微笑を浮かべ、そう言った。
頬がほんのり赤く染まっていることから、「道に迷ったから、教えてもらう」という事実に多少の照れがあるようだ。
「人を殺す」そんな会話をしているのに、そこに笑みが入るなんて、
「なんて、面白いんだろう」とルキは、思った。
「ええ、いいわ。…城まで案内すればいいのよね?」
「ああ。よろしく頼む」
「ところで、あなたは、城に何の用があるの?」
「ミトラス国王に挨拶に来たんだ。時間があれば、今後の国同士の方向性についても話し合えたらいいと思ってる」
「…あなた、もしかしてキース王子殿下?」
「ああ。なんで、俺の名前知ってるんだ?」
ルキは先ほどのミトラスとの会話を思い出していた。
「隣国の切れ者」それが、彼なのか、と。
そう言えば、「コルヴィノ王国の切れ者は、血の色をした髪を持つ」、という噂があったことを思い出した。
ルキは視線を、赤い髪に移す。
その赤は、ルキには、美しい色に見えた。
「血の赤」などと称されるような毒々しさはなく、温かい印象すら抱く。
「…何だ?なんか、付いてるか?」
「いいえ。なんでもないわ。それより、私は、ルキ。この国の王女よ」
「…だから、そんな傲慢な態度なんだな」
合点がいったとばかりに、キースは言う。
そんなキースに、ルキは、呆れを含んで、言葉を返した。
「あなたには、言われたくないわ」
「王女殿下か…」
そう呟き、キースは考えを巡らす。
顎に手を当てるのは、彼が考える時の癖なのか。
しばらくの間、沈黙が続いた。
「あのさ、…さっきの話なかったことにならないか?」
「さっきの話?」
「お前を殺す話」
「私が王女だとわかると、どうしてそういうことになるのかしら?」
キースはバツが悪そうに、ルキを見た。
その目は、青い。
アルデラ国の人間は、大抵が黒い瞳をしており、見慣れないその瞳の色を、ルキは純粋に美しいと思った。
「いや。別に、人ひとり殺すことに、感傷とか別にないんだけどさ、王女殺したら、さすがに俺の立場悪いだろう。お前が、ミトラス王とかにちゃんと説明してくれるなら、話は別だけどさ」
「自分のため」に素直にそう応えるキース。
ルキはそんなキースを「優しい」と思った。
「自分に嘘をつけない人なんだ」と。
「…説明してもいいけど、きっと、快諾はしてくれないわね。…というか、了承は得られないわね。今までの経験から言って。…誰も、殺してくれないの。死ぬことはだめだよ、って諭して、悩みがあったら相談してね、って言うの。別に悩みなんかないのに」
「悩みがないんなら、何で死ぬんだ?」
「あなたも、皆と同じこと言うつもり?」
ルキの声色にはかすかに怒りが入っている。
キースはそんなルキを見て、片頬を持ち上げた。
「お前が死んでも、別に俺、困らないから、死ぬなとも言わないし、悩みを聞こうなんて気、全くないぜ?」
「じゃあ、なぜ?」
「強いて言うなら、好奇心?なんかさ、一国の王女がなんで、そんなこと思うのかなって気になるわけよ」
ルキは顎に手を当てた。
キースの真似をし、少し考える。
ルキの前に立つキースは、待ったをかけられた犬のように、「早く、早く」とルキの言葉を待っていた。
そんな反応はやはり、初めてだったから、ルキは再び、「面白いな」と思った。
「…理由なんて、本当にないの。ただね、私なんて別にいらないんじゃないかなって思ったのよ」
「いらない?」
「…私、ある程度、剣が使えるわ。でも、ロディには敵わない。政治も経済もわかるけど、お父様には敵わない。お裁縫もできるけど、イルには敵わない。…この国を次に継ぐのは私だけど、…私は女だから、きっと、私の結婚相手がこの国を引っ張っていくのよ」
キースは首を横に傾けて、聞いた。
「だから、何なんだ?」
「私がいなくても、この世界は動くわ。私がいなくても、皆、幸せで暮らせるわ。私がいなくても、誰も、何も困らないわ。…むしろ、私にかかるお金も時間もなくなることは、喜ばしいことかもしれない」
「ま、そりゃ、一理あるかもな」
「私、…ないの」
ルキは、小さな声で呟いた。
キースに聞こえなくても、いいかなと思ったから。
けれど、キースの耳には、ルキの声が届いていた。
だから、キースは首を傾げる。
「何がないんだ?胸か?」
キースの視線が、少しだけ下がった。
「…確かに胸は、ないわね」
ルキも、キースと同じように自分の胸元を見る。
まともに返答してきたルキにキースは微苦笑を浮かべ、再び尋ねた。
「で、何がないんだ?」
「希望」
ルキの表情には、笑みも悲哀の色も見えない。
ただ、無感情にそう言った。
「どういうことだ?」
「そのままの意味だけど?」
「いや、俺が言ってるのは、希望ってなんだってことだよ」
「…やりたいことがないの。だって、どんなに頑張っても、お父様たちには勝てないもの。だからね、頑張る気がしないの。でね、ただ、流されてみたの、少しだけ。自分の意志を持たずに、周りが言うことを適当にやってみたの。そしたらね、何の問題もなく過ぎていったの。それって、私がいなくても同じってことなんじゃないかって思ったの。…そう思わない?」
「ま、そうかもしれないけど。…お前でも、そんなこと考えるんだな」
「ええ」
「俺にはわからない考え方だ」
「…あなたはどう考えるの?」
「俺か?」
「ええ。あなた、とても面白いの。だから、あなたの考えが聞きたいわ」
キースは、顎に手を当てた。
静かに吹いている風が、キースの赤い髪を揺らす。
「…俺なら、敵わない相手がいるなら、そいつに勝つまで勝負から降りないし、自分が国を継ぐんなら、後から来たやつになんか任せないで、自分で国を大きくする。…そりゃ、俺がいなけりゃ、その分の金とか食糧と浮くかもしれねぇけど、でも、そうだな…俺なら、俺がいなくなって浮くと考えるより、俺がいなくなって困るって他の奴らに思わせるような人間になるな」
ルキは黙って、頷いた。
「というかな、俺は、自分がいらないなんて思わない。父上は俺がいなくなったら、困るだろうし、兵士たちの剣の指導もしなくちゃいけねぇ。ミトラス国王ともこれから貿易のこととか国の発展のこととか、ともに考えなくちゃいけねぇことが山ほどあるからな。死んでる暇なんてねぇよ」
「そうね。あなたは、そうかもしれない」
「それに、お前、自分の限界わかる歳じゃねぇよな。子どもなんだし。…自分で限界作るなんてばかばかしくないか?」
キースがあまりに真剣な顔なので、ルキは思わず、笑みを浮かべた。
ルキの目の前にいるのは、「残忍な人」。
けれど、その残忍な人が、「優しい言葉」を発している。
それが、ルキには面白かった。
「やっぱりこの人は面白いわ」と心の中で呟いた。
「何、笑ってるんだよ」
「いいえ。なんでもないわ。…そうね。ばかばかしいのかもしれないわね」
ルキは笑いを押し殺して、応じる。
「でも」
何かを言いかけて、キースの口が動きを止める。視線が少しだけ、下降した。
「でも、何?」
「でも、それは俺の意見だから、それを押し付けるつもりはない。だからさ、それでも…お前が本当に生きていたくないって思うなら、いいよ。…殺しても」
殺す、今まで多用されてきた、その言葉を使うのに、この時キースは初めて躊躇った。
しかし、ルキはそのことに気が付かない。
なぜなら、キースの別の言葉に意識が集中してしまっていたから。
「…ねぇ、どうして?」
「は?お前が殺せって言ったんだろう?」
「そこじゃないわ」
「何のことだよ?」
キースは眉を上げ、ルキに視線を向ける。
「どうして、あなたは、『死にたい』ではなく、『生きていたくない』と言ってくれるの?」
「は?」
「皆、『死にたいなんて言ってはいけない』っていうの。あなたが初めてよ。『生きていたくない』って言葉を使ったのは」
「だって、お前、剣が使えるんだよな」
「ええ」
「それに、アルデラ国の王女なんだよな」
「ええ。でも、それがどうしたの?」
「アルデラ国の王女は、華奢な女なのに、ものすごく強いって、専らの噂だぜ?美しく、可憐なのに、王国の兵士が誰も敵わないほど、強いってさ」
「美しく、可憐」はどこまで正しいかわからないがな、とキースは片頬を持ち上げ、付け足した。
「その噂は少し誇張してあるわ。だって、私、ロディには負けるもの。闘いの経験が豊富なベテランの兵士にも全く歯が立たないわ」
「美しく、可憐のところも誇張してあるよな?」
「斬られたいの?」
ルキは、冷笑を浮かべ、半歩前に出た。
キースは苦笑いをし、一歩後ろに下がる。剣を持っていないルキには斬れないことはわかっているが、その威圧感からか、自然に手が、剣に触れていた。
「そんな怖い顔してると、美しくて、可憐な顔が台無しだよ、お姫様」
「しつこい男は嫌われるわよ。…ところで、さっきの答えはなんなのかしら?」
「さっき…?ああ、何で、『生きていたくない』って言葉を使ったのか?ってことだよな」
「ええ」
「だって、お前強いだろ?この国で一番じゃないにしても、大抵の若い兵士たちよりは」
「まあ、そうね。真剣勝負ではわからないけれど、手合わせした時に、ロディ以外で負けたことはないわ」
「だからだよ」
そう言われ、ルキは顎に手を置いた。知らぬ間に、キースの癖がうつってしまっている。
少しの間、自分なりの答えを見つけようとしたが、結局、わからない。
「…どういう意味かしら?」
「だって、お前、『死にたい』なら、自分で死ぬだろう?」
「…」
ルキは肯定も否定もしなかった。
しかし、キースは言葉を続ける。
「初めはさ、自分で死ねないから、『殺して』なんて言ってきたのかと思ったんだよ。けど、お前は剣を使えるし、強い。腕力がなくても、お前なら、死ねる。そうだろ?」
「…そうね」
「けど、お前は他人に頼んだ」
「ええ」
「だから、『死にたい』じゃない。でも、頼んでいるってことは、『生きていなくてもいいかな』ではない。だから、『生きていたくない』ってことになる。そういうこと…だろう?」
キースは少しだけ、腰を曲げた。視線をルキに合わせる。
綺麗な黒い瞳がただ、真っ直ぐ前を見ていた。
泣いているのかと思ったが、ルキの瞳は乾いている。
なんとなくそれが、ルキらしいのかもしれない、とキースは思った。
だから、少しだけ乱暴に髪を撫で、腰を伸ばす。
再び、頭一つ分の身長差が生まれた。
「ねぇ」
不意に、ルキがキースに呼び掛ける。
「なんだ?」
「さっきの止めてもいい?」
「さっきの?」
「殺して、ってやつ」
「どうしてだ?」
「あなたのことが気に入ったから」
顔を赤らめることなく、自然に言った。
瞬間、キースが固まる。
「は?」
我に返ったキースが、かろうじてそう一言、声に出した。
「だから、あなたが気に入ったの」
「いや、だから、なんで、そう思ったのかを聞きたいんだけど…」
「だって、あなた、面白いじゃない。だから、もっと見ていたいの」
「…」
「それにね、嬉しかったの」
「何が?」
「『死にたい』じゃなくて、『生きていたくない』って言ってくれて。私のこと、ちゃんとわかってくれて。初めてよ。私の話を聞いてくれたのも、考えを押し付けず、私に選択の自由をくれたのも。それがね、とても嬉しかったの」
「…」
「そんな、優しいあなたのことが気に入ったの。そんなあなたの傍にもう少しいたいの。そう思ったら、生きていたくなっちゃった」
そのストレートな言葉に、キースは頬を赤く染めた。
静かに、「そうか」とだけ、呟く。
「それにね」
「まだあんのかよ…」
新たな言葉を繋ごうとしているルキを見て、キースは、小さく、ため息をついた。
ルキは、笑いながら、「もちろんよ」と応える。
「あなたには、私が必要よ?」
「なんだよ、それ?お前、さっき、『私がいなくても、誰も、何も困らないわ』とか言ってなかったか?」
ルキの声色を真似して、キースが言う。
「ええ。言ったわ。だけど、さっきは、さっき。今は、今よ。…それに、あなたはもう私を殺せないでしょう?」
「なんでそう思う?」
「あなたも、私を気に入ったから」
さも「当たり前でしょ」と言いたげな表情を浮かべ、ルキが言った。
そんなルキをキースは、面白そうに見た。
その表情が、「それで?」と、先を促している。
「あなたは、知らない人を理由なく殺せる、残忍な人。けれど、気に入った人を殺せるほど、残酷な人ではないわ」
「へぇ。…それで?どうするつもりなんだ?」
「結婚しましょう?」
「…は?」
「どうせ、いつか政略として使われるんですもの。あなたも、私も。なら、今あなたと結婚してもいい筈でしょう?」
「ま、それはそうかもしれねぇけどさ…」
「…それに、あなたは国を大きくできるでしょう?」
「なんで、そう思う?」
「賢くて、残忍で、そして、優しいから」
真っ直ぐに目を見てそう言うルキにキースは、再び頬を赤く染めた。
照れ隠しのように、視線を逸らし、短い髪をくしゃくしゃにしている。
そんなキースを見て、ルキは両頬を持ち上げた。
「あ~あ。いつか、綺麗なお姫様に、俺から結婚を申し込むのが夢だったのにな」
しばらくの沈黙の後、体温が元の温度まで戻ったキースが、拗ねたように、そして、どこかからかうように、そう告げた。
けれど、結局は、ルキの方が、数枚上手。
「あら?それなら、いいわよ。申し込んでも。受けてあげる」
そして、「どうぞ」と手を差し出した。
掌への口づけは、懇願の証。
キースは、苦笑を浮かべつつ、その綺麗な手を取る。
剣を握るその手は、細く、華奢な割に、少しだけ硬かった。
それでも、美しいと思ってしまうのだから、ルキの言うとおり、「気に入っている」のかもしれないと思ってしまう。
キースは、目の前のルキを見た。
長い金色の髪が、風に吹かれ、揺れている。「よく似合う」と素直に思った。
金色の髪も、黒い瞳も、華奢な割に強いところも、全てが、「ルキらしい」と思えてしまうから困る。
「お前、さっき自分で言っただろ?プロポーズって、一回きりのもんじゃないのか?」
「いいじゃない。何回しても。そんなの私たちの勝手でしょ?」
「まあ…そうかもしれないけど」
まだ何か言いたげなキースにルキはからかうように笑みを浮かべる。
「ほら、早く。可愛いお姫様が目の前にいるのよ?」
「…というかさ、お前、こんなにすぐに俺って決めていいのか?お父上の意見とかあるだろう?」
キースは、思い出していた。「ミトラス国王は、一人娘を溺愛している。一人娘に害を与えるような輩は、三度地獄を見るだろう」という、諸国に伝わる、信憑性の高い噂を。
「あなたが成功さえすれば、問題ないわ」
「お前、…さらっと、プレッシャーを」
キースはもう一方の手で頭を抱えた。
そんな反応をするキースを余所に、ルキは満面の笑みを浮かべている。
「それに、私があなたを愛したから。あなた以外を選ぶつもりはないわ。たとえ、お父様が反対してもね」
「……さっき会ったばかりだろ?愛したなんて言えるのか?」
試すような、そんな声。ここで、頬を赤く染めていなければ、完璧なのだが。
ルキは、それに笑みを浮かべたまま、応えた。
「バカね。愛なんて、そんなものでしょう?」
「お前、何歳だよ?」
悪態をつきながらも、キースの顔は、ますます赤く染まっていく。
「それに、あなたも、私を愛したでしょう?さっき会ったばかりなのに」
「お前さ、その自信どこから出てくるんだ?」
「自信なんてないわ。でも、そう思うの」
「肝が据わっているな」
「そういうところがいいんでしょう?」
「…今、そう言おうと思ってたのに。あくまで格好付けさせないつもりかよ」
キースは、小さくため息をついた。
しかし、ルキはそんなキースの態度を全く気にしていないようだ。
「ところで、結婚の申し込みはしないの?」
「…」
「しないなら、別にいいわ。さっき私がしたしね。プロポーズは、一回言えば十分なのよね?」
そう言って、ルキは、手を離し、キースに背を向け歩き出した。
「そう言えば、この人を、城へ案内するんだった」と当初の約束を思い出しながら。
ミトラスが約束の時間まで、あと半刻だと言っていたことを思い出し、急ぐ必要があるな、と思ったのである。
けれど、当の本人が、付いてくる気配がしない。ルキは、「早く行きましょう、約束の時間に遅れるわ」と言いながら、振り返ろうとした。
しかし、それは叶わなかった。
キースが、後ろから、ルキを抱きしめている。
身内、友人以外から抱きしめられるなんて、初めてだった。好きな人に触れるということは、こんなにも温かいものなのだ、とルキはその時、初めて知ったのである。
一方、キースは、「失敗した」と思っていた。
視線に入る、金色の髪は、美しい。甘いにおいが、鼻孔をくすぐる。けれど、この状態では、ルキの顔が見えなかった。
だから、キースは、一瞬ぴったりとくっついていた体を離す。
回り込み、前から再びルキを抱きしめた。結局、顔は見えなくなるが、一瞬目に入ったルキの顔が、面白いくらいに赤く染まっていたので、「まあ、いいか」と少しだけ優越感に浸る。
ルキは一瞬のことに驚いたが、すぐにキースの背中に腕を回した。
厚い胸板に顔を付ける。
キースの心臓の鼓動が耳に響いた。
鼓動のリズムは速い。
「ねぇ、私、頑張るね」
顔を胸に埋めたまま、ルキが言う。
「何を?」
「全部」
「たとえば?」
「もっと、強くなるわ。ロディなんか、負かしちゃうくらい」
「お前がこれ以上強くなったら、この国の兵士は大変だな」
笑いを含みながら、応えた。
「あと、もっと政治や経済も勉強するわ。お父様に負けてられないもの」
「ま、それは、俺としても助かるかも。俺、そういうの苦手。交渉とかする前に、殴っちゃいそうになるからな」
「じゃあ、外交は私の担当ね」
楽しそうに笑うルキ。
キースは、金色の髪を数回、撫で、「ああ。頼むな」と告げた。
「あとね」
「まだあんのかよ?」
「お裁縫も頑張るわ。イルより上手く刺繍ができるようになる」
「…というか、王女で裁縫ができること自体が稀なんだよ」
「そうなの?」
「そうなの」
「でも、いいじゃない。全部できる人になったら、私、『いなくなったら困る人』になれるわね」
「…というか、お前は今のままでも、『いなくなったら困る人』だろう?ロディとかいう親友にとっても、イルとかいう…これ誰だ?」
「私の乳母」
「…その、イルとかいう、お前の乳母にとっても、ミトラス国王にとっても、それから…」
「あなたにとっても?」
ルキは、片頬を持ち上げ、キースの言葉を遮った。
軽く頭を小突かれる。
「だから、格好付けさせろよ」
「だって、今から、格好付けるんでしょ?いいじゃない」
からかうように言うルキを腕の中に感じながら、「これから一生、尻に敷かれるんだろうな」と、キースは半ばあきらめのようにそう思った。
けれど、自分の腕の中に閉じ込めたいと思う人間は、目の前のルキだけなのだから、しょうがない。
「護りたい」とキースは思う。
護らなくてもいいほど強いのかもしれないけれど、それでも、強くて、脆いこの少女を、自分の手で護りたい、と思うのだ。
キースは、抱きしめる腕に力を込めた。
ルキにかろうじて聞こえるくらい、小さな声で伝える。
とても、甘い声だった。
「結婚しよう」
「…ええ」
「愛している。…お前しか、見えなくなりそうだ」
その言葉に、ルキも腕に力を込め、抱き返した。
「そうなって、私を必要として。…そしたら、もう殺して、なんて言わないから」
二人は、どちらともなく、互いの間に小さな隙間を作った。
二人の視線が、重なり合う。
ルキは、ゆっくりと、瞳を閉じた。キースの顔が、かすかに傾き、近づいてくる。
二人の唇が、静かに触れた。
「ともに、生きていく」証が刻まれる。
静かな風が吹いた。赤い短髪と金の長髪が風になびく。
温かな太陽の光が、二人を照らしていた。
希望を失くしたルキ姫は、キース王子と結婚し、妃となった。
アルデラ国とコルヴィノ国は、併合し、国はより広大になり、民はより幸せを享受した。
ルキは、多くの民に、大切にされ、夫に愛された。
彼女の口から、もう二度と、「殺して?」いう言葉は出てこなかったという。
ただ、娘を溺愛するミトラス国王と、ルキの親友兼兄であるロディが、「結婚はまだ早い」と反対し、二人の結婚が、二年延びたのは、また別の御話。
ちょっと、「ほのぼの」は違ったかもしれませんが、
どうでしたでしょうか?
もし、気に入っていただけたのであれば何かレスポンスをください。
励みになります。
また、春樹亮はそのほかの作品も書いております。
お時間がある方は、そちらもどうぞ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。