雪解け
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吹雪が去った翌々日、山の空気は嘘のように和らいでいた。
夜明け前から谷を渡る風が柔らかくなり、薄明の空には、冬の雲の切れ間からわずかに青がのぞく。
外へ出ると、白い息がふっと軽くなったような気がした。
玄関前の道路は、昨日まで人の背丈ほどの雪壁に囲まれていたが、今は除雪車の履帯がつけた黒いアスファルトの帯が一本、まっすぐ伸びている。
雪の壁の上には朝日が斜めに差し込み、無数の氷粒が散りばめられたように光っていた。
その光景は、長く閉ざされた時間がほんの少しだけ動き始めたことを告げているようだった。
「バス、動くみたいだぞ」
帳場の横で、亮が伝票をまとめながら声を上げた。
その声に、館内の空気が小さく波紋のように広がっていく。
客たちはそれぞれ部屋へ散り、荷物をまとめる音が階段や廊下に響き始めた。
キャリーバッグの車輪のごろごろという音が、雪国の静けさを少しずつ破っていく。
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食堂横のソファに、美沙が腰掛けていた。
黒いウールのコートのボタンを留める指先は白く細く、爪には小さく透明な艶がある。
彼女の髪は軽く肩にかかり、毛先には外気の水滴がひとつ、朝の光を受けてきらりと光った。
傍らには、小さなキャリーバッグが立てられている。
その中には、きっと最低限の着替えと、手帳か本が一冊だけ入っているのだろうと真司は想像した。
都会へ戻るための荷物は、それほど多くはない。
真司は、なぜかその場から動けなかった。
自分から何かを言えば、彼女との距離は少し縮まるかもしれない。
だが同時に、それ以上踏み込めば、何かが壊れてしまうような予感もあった。
「……お世話になりました」
美沙は真司に視線を向けた。
その瞳には、冬の終わりの雪解け水のような、ほんの少しの柔らかさが宿っている。
真司は、喉の奥まで出かかった別の言葉を飲み込み、代わりに短く答えた。
「お元気で」
その瞬間、美沙の口元がわずかに緩んだように見えた。
けれど次の瞬間には、彼女は立ち上がり、白い吐息を残して玄関へ向かう。
バスのドアが閉まり、タイヤがゆっくりと雪道を転がり出す。
窓越しに見えた彼女の横顔は、やがて雪景色の中へ溶けていった。
亮が背後でぽつりとつぶやいた。
「……あの人、また来る気がしますよ」
真司は振り返った。
「そう思うのか」
「ええ。ああいう顔する人は、帰るんじゃなくて、ちょっと寄り道してるだけです」
その言葉が、心の奥に小さな火を灯した。
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真司も同じ日、帰る支度を整えた。
宿帳に署名をし、料金を支払うと、まさえが奥から出てきて、笑いながら大きな手のひらで背中を軽く叩いた。
「次は家族とおいで。湯も雪も、待ってるすけ」
「……はい」
短い返事の奥に、言葉では表せない感情が渦巻いていた。
東京でも大阪でも感じたことのない、厚みのあるぬくもりが、背中から胸の奥にじんわりと広がっていく。
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大阪に戻った夜、真司は荷物を置くと、ためらいながらリビングに入った。
テーブルの向こうに妻が座り、湯気の立つマグカップを両手で包んでいる。
その穏やかな仕草に、一瞬、言葉を失った。
「……正直なこと、話してもいいか」
声が震えるのを、自分でも抑えられなかった。
仕事の行き詰まり、家でも感じていた孤独、
酸ヶ湯で出会った人たち――まさえの大きな手、亮の真っすぐな目、美沙の雪の中の横顔。
妻は黙って聞いていた。
何度か視線を伏せ、唇を噛みしめていたが、最後まで遮らなかった。
「……じゃあ、急いで戻らなくてもいいんじゃない?
新しいやり方、探せば」
その一言は、意外なほど静かだった。
だが、その静けさの奥に確かな承認とわずかな安堵が混じっていた。
真司は深く息をつき、肩の力が抜けるのを感じた。
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春――。
山にも町にも柔らかな匂いが満ちるころ、真司は再び酸ヶ湯へ向かった。
バスの終点に降り立つと、冬とはまるで違う景色が広がっていた。
雪はほとんど溶け、谷間には若葉が芽吹き、沢の水音が遠くから響いてくる。
道端にはフキノトウが顔を出し、残雪が日に透けて青白く輝いていた。
玄関前でまさえが手を振っている。
その隣には亮も立ち、春の陽射しを受けて目を細めていた。
「おかえりなさい」
まさえの声は、雪解け水のように澄んでいた。
荷物を降ろすと、亮がポケットから封筒を取り出した。
「これ、この前届いたんですよ」
白い封筒には、大阪の消印。差出人は美沙。
真司は受け取った。
封を切ると、紙からほのかにインクの匂いが立ち上る。
――酸ヶ湯を離れて、大阪に戻りました。
でも、あの雪と湯けむりが忘れられません。
また行きます。そのときは、きっと少し笑って話せると思います。
短い手紙だった。
けれど、その行間には、あの日バスの窓越しに見えた彼女の微笑みが、確かに息づいていた。
真司は封筒を折りたたみ、ポケットにしまった。
硫黄の匂いが、春の空気の中でやわらかく漂っている。
それは、長い冬の記憶が雪の下から顔を出すような、静かな温もりだった。
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