湯けむりの向こう側
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吹雪は三日目に入っても衰えを見せなかった。
外の世界は、まるで白い渦の中に閉じ込められているようだ。
風が宿の壁を叩き、軋む音がときおり廊下まで響く。
窓の外には何も見えない。ただ白い幕がゆらぎ、時折、黒い枝の影が一瞬だけ現れてはすぐに消える。
朝食を終えると、亮が帳場の奥から姿を現した。
作務衣の上に厚手のダウンを羽織り、耳まで覆う毛糸の帽子をかぶっている。
「真司さん、雪かき手伝ってもらえませんか? ついでに食料の運搬も」
その声は明るいが、目の奥には少しの緊張が見えた。
この吹雪の中での作業が、そう簡単なものではないことを示していた。
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玄関の引き戸を開けると、冷気が一気に頬を刺した。
吐いた息は白く、風に巻かれてすぐに消える。
足を踏み出すと、玄関前の雪は昨夜からさらに積もり、腰の高さにまで達していた。
亮がスコップを手渡し、雪を崩すように動き始める。
「都会じゃ、こんなことしないですよね」
亮が息を吐きながら笑う。
「まあ、雪はニュースの画面でしか見ないですからね」
真司もスコップを差し込み、重く湿った雪を持ち上げる。腕にずしりと重さがかかり、腰に響く。
「……俺も、都会で働いてたときはそう思ってました」
亮は雪を放りながら続けた。
「大学出て東京に行ったんです。最初は刺激的で……でも、何年かすると、何をしてるのか分からなくなってきて」
雪の粒が亮の睫毛にくっつき、瞬きのたびに落ちていく。
「戻ってきて後悔はしてない。でも……時々、迷うんです」
その横顔は、吹雪の白さに溶け込むようで、どこか遠くを見つめていた。
真司は返す言葉を見つけられなかった。
自分もまた、日々の忙しさの中で、自分の居場所を見失っていたのだ。
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昼下がり、廊下で美沙とすれ違った。
いつもなら軽く会釈して通り過ぎるだけだが、その日は彼女が立ち止まり、ためらうように口を開いた。
「……ちょっと、お話してもいいですか」
二人で人目のない休憩所に腰を下ろすと、窓の外の吹雪が小さな音を立ててガラスを叩いていた。
湯飲みから立ちのぼる湯気が、彼女の横顔を柔らかく包む。
「……夫を、去年亡くしました。一周忌が近くて……どうしても、気持ちの整理がつかなくて」
その声はかすかに震えていた。
「大阪の家にいると、思い出ばかりが押し寄せて……ここなら、少しは静かに過ごせるかと思って」
真司は言葉を探したが、簡単な慰めが彼女の悲しみを軽くできるとは思えなかった。
ただ、自分もまた、逃げるようにここへ来たことを思い知らされた。
仕事にも、家庭にも、本気で向き合えていなかったことを。
やがて彼女は湯飲みを置き、微かに笑った。
「……変な話をしてしまいましたね」
「いえ……」
それだけを返すのが精一杯だった。
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夕方、大浴場の脱衣所でまさえに会った。
湯気に包まれた空間で、彼女は真司の肩を軽く叩いた。
「雪は必ず溶ける。溶けるまで焦らんでええ」
それだけを言い残し、タオルを肩にかけて湯の中へ消えていった。
その言葉は、温泉の湯よりも深く、真司の心に沁みこんだ。
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夜、食堂では急遽「鍋の会」が開かれた。
長いテーブルの中央には、大鍋がぐつぐつと煮え立っている。
鱈の切り身、白菜、舞茸、豆腐――湯気と共に漂う香りが、空腹をやさしく刺激した。
まさえが豪快に鱈をよそい、亮が酒を注ぐ。
「ほら、真司さんも飲みなさい」
誰かが笑い、また別の誰かが大声で冗談を飛ばす。
笑い声と湯気が混ざり合い、外の吹雪の音をすっかり忘れさせた。
真司も、気づけば声をあげて笑っていた。
こんなふうに心から笑うのは、いったい何年ぶりだろう。
湯治に来たはずが、いつの間にか人との距離を少しずつ取り戻している――そのことが、不思議に嬉しかった。
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鍋の会がお開きになったのは、もう夜の九時を回っていた。
食堂の片隅では、まだ何人かが湯呑を手に話し込んでいる。
真司は食器を片付ける手伝いをしてから、外の空気を吸いたくなり、玄関を出た。
吹雪は弱まり、空には雲間からわずかに月が覗いていた。
雪はあらゆる音を吸い込み、世界はしんと静まり返っている。
足を踏み出すたび、きゅっきゅっと雪が鳴り、その音だけが自分の存在を確かめさせた。
宿の脇を流れる小川は、ところどころ氷で覆われ、月明かりを反射して淡く光っている。
その光景は、昼間の白い嵐とはまるで別の世界のようだった。
真司は手袋を外し、冷気を素手で感じた。
痛いほどの冷たさが、逆に頭の中をすっきりとさせていく。
その時、背後から足音が近づいた。
「こんな時間に散歩ですか」
振り返ると、亮が肩に毛布をかけて立っていた。
「眠れなくて」
「分かります。雪の夜は、静かすぎて逆に目が冴えるんですよ」
二人は並んでしばらく黙って川面を眺めた。
遠くで、かすかな雪崩のような音が山肌を伝って響く。
亮が小さく息を吐いた。
「……雪も人も、放っておけばそのうち流れていくんでしょうけど、やっぱりどこかで踏ん張らないと」
その言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
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翌朝、真司は早くに目を覚ました。
窓の外は一面の青空。昨夜までの吹雪が嘘のように、空気は澄みきっていた。
朝の光が積雪を照らし、白が金色に近い輝きを放っている。
雪面を歩く鳥の足跡が、庭の端から林の奥へと続いていた。
朝食後、亮がスノーシューを手に現れた。
「せっかく晴れたんです。ちょっと裏山まで行きませんか」
真司は首をすくめた。
「運動不足解消ですね」
「まあ、それもありますけど……吹雪の後の景色は特別なんです」
二人は宿の裏手から林に入った。
雪は深く、スノーシューを履いていても膝近くまで沈む。
枝から落ちる雪の粒が陽光を受けてきらきら光り、まるで無数の小さな星が降ってくるようだった。
小高い丘に登ると、遠くの山並みが一望できた。
真司は思わず息を呑んだ。
真っ白な稜線の上に、青空がどこまでも広がっている。
山と空の境目はあまりに鮮やかで、現実感が薄れるほどだった。
亮が指差した。
「あれが岩木山です。晴れた日は、こっちからでもよく見えるんですよ」
真司はその名を心の中で繰り返しながら、静かに頷いた。
言葉はいらなかった。
ただ、この瞬間を胸に刻みたかった。
帰り道、林の影から一羽のカケスが飛び立った。
羽の一部が鮮やかな青色に輝き、その色が真司の記憶に焼き付いた。
雪の中で見たその青は、都会のどんなネオンよりも強く、そして優しかった。