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雪解けの湯  作者:
4/5

湯けむりの向こう側

---


吹雪は三日目に入っても衰えを見せなかった。

外の世界は、まるで白い渦の中に閉じ込められているようだ。

風が宿の壁を叩き、軋む音がときおり廊下まで響く。

窓の外には何も見えない。ただ白い幕がゆらぎ、時折、黒い枝の影が一瞬だけ現れてはすぐに消える。


朝食を終えると、亮が帳場の奥から姿を現した。

作務衣の上に厚手のダウンを羽織り、耳まで覆う毛糸の帽子をかぶっている。

「真司さん、雪かき手伝ってもらえませんか? ついでに食料の運搬も」

その声は明るいが、目の奥には少しの緊張が見えた。

この吹雪の中での作業が、そう簡単なものではないことを示していた。



---


玄関の引き戸を開けると、冷気が一気に頬を刺した。

吐いた息は白く、風に巻かれてすぐに消える。

足を踏み出すと、玄関前の雪は昨夜からさらに積もり、腰の高さにまで達していた。

亮がスコップを手渡し、雪を崩すように動き始める。


「都会じゃ、こんなことしないですよね」

亮が息を吐きながら笑う。

「まあ、雪はニュースの画面でしか見ないですからね」

真司もスコップを差し込み、重く湿った雪を持ち上げる。腕にずしりと重さがかかり、腰に響く。


「……俺も、都会で働いてたときはそう思ってました」

亮は雪を放りながら続けた。

「大学出て東京に行ったんです。最初は刺激的で……でも、何年かすると、何をしてるのか分からなくなってきて」

雪の粒が亮の睫毛にくっつき、瞬きのたびに落ちていく。

「戻ってきて後悔はしてない。でも……時々、迷うんです」

その横顔は、吹雪の白さに溶け込むようで、どこか遠くを見つめていた。


真司は返す言葉を見つけられなかった。

自分もまた、日々の忙しさの中で、自分の居場所を見失っていたのだ。



---


昼下がり、廊下で美沙とすれ違った。

いつもなら軽く会釈して通り過ぎるだけだが、その日は彼女が立ち止まり、ためらうように口を開いた。


「……ちょっと、お話してもいいですか」


二人で人目のない休憩所に腰を下ろすと、窓の外の吹雪が小さな音を立ててガラスを叩いていた。

湯飲みから立ちのぼる湯気が、彼女の横顔を柔らかく包む。


「……夫を、去年亡くしました。一周忌が近くて……どうしても、気持ちの整理がつかなくて」

その声はかすかに震えていた。

「大阪の家にいると、思い出ばかりが押し寄せて……ここなら、少しは静かに過ごせるかと思って」


真司は言葉を探したが、簡単な慰めが彼女の悲しみを軽くできるとは思えなかった。

ただ、自分もまた、逃げるようにここへ来たことを思い知らされた。

仕事にも、家庭にも、本気で向き合えていなかったことを。


やがて彼女は湯飲みを置き、微かに笑った。

「……変な話をしてしまいましたね」

「いえ……」

それだけを返すのが精一杯だった。



---


夕方、大浴場の脱衣所でまさえに会った。

湯気に包まれた空間で、彼女は真司の肩を軽く叩いた。


「雪は必ず溶ける。溶けるまで焦らんでええ」


それだけを言い残し、タオルを肩にかけて湯の中へ消えていった。

その言葉は、温泉の湯よりも深く、真司の心に沁みこんだ。



---


夜、食堂では急遽「鍋の会」が開かれた。

長いテーブルの中央には、大鍋がぐつぐつと煮え立っている。

鱈の切り身、白菜、舞茸、豆腐――湯気と共に漂う香りが、空腹をやさしく刺激した。


まさえが豪快に鱈をよそい、亮が酒を注ぐ。

「ほら、真司さんも飲みなさい」

誰かが笑い、また別の誰かが大声で冗談を飛ばす。

笑い声と湯気が混ざり合い、外の吹雪の音をすっかり忘れさせた。


真司も、気づけば声をあげて笑っていた。

こんなふうに心から笑うのは、いったい何年ぶりだろう。

湯治に来たはずが、いつの間にか人との距離を少しずつ取り戻している――そのことが、不思議に嬉しかった。


---


鍋の会がお開きになったのは、もう夜の九時を回っていた。

食堂の片隅では、まだ何人かが湯呑を手に話し込んでいる。

真司は食器を片付ける手伝いをしてから、外の空気を吸いたくなり、玄関を出た。


吹雪は弱まり、空には雲間からわずかに月が覗いていた。

雪はあらゆる音を吸い込み、世界はしんと静まり返っている。

足を踏み出すたび、きゅっきゅっと雪が鳴り、その音だけが自分の存在を確かめさせた。


宿の脇を流れる小川は、ところどころ氷で覆われ、月明かりを反射して淡く光っている。

その光景は、昼間の白い嵐とはまるで別の世界のようだった。

真司は手袋を外し、冷気を素手で感じた。

痛いほどの冷たさが、逆に頭の中をすっきりとさせていく。


その時、背後から足音が近づいた。

「こんな時間に散歩ですか」

振り返ると、亮が肩に毛布をかけて立っていた。

「眠れなくて」

「分かります。雪の夜は、静かすぎて逆に目が冴えるんですよ」


二人は並んでしばらく黙って川面を眺めた。

遠くで、かすかな雪崩のような音が山肌を伝って響く。

亮が小さく息を吐いた。

「……雪も人も、放っておけばそのうち流れていくんでしょうけど、やっぱりどこかで踏ん張らないと」

その言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。



---


翌朝、真司は早くに目を覚ました。

窓の外は一面の青空。昨夜までの吹雪が嘘のように、空気は澄みきっていた。

朝の光が積雪を照らし、白が金色に近い輝きを放っている。

雪面を歩く鳥の足跡が、庭の端から林の奥へと続いていた。


朝食後、亮がスノーシューを手に現れた。

「せっかく晴れたんです。ちょっと裏山まで行きませんか」

真司は首をすくめた。

「運動不足解消ですね」

「まあ、それもありますけど……吹雪の後の景色は特別なんです」


二人は宿の裏手から林に入った。

雪は深く、スノーシューを履いていても膝近くまで沈む。

枝から落ちる雪の粒が陽光を受けてきらきら光り、まるで無数の小さな星が降ってくるようだった。


小高い丘に登ると、遠くの山並みが一望できた。

真司は思わず息を呑んだ。

真っ白な稜線の上に、青空がどこまでも広がっている。

山と空の境目はあまりに鮮やかで、現実感が薄れるほどだった。


亮が指差した。

「あれが岩木山です。晴れた日は、こっちからでもよく見えるんですよ」

真司はその名を心の中で繰り返しながら、静かに頷いた。

言葉はいらなかった。

ただ、この瞬間を胸に刻みたかった。


帰り道、林の影から一羽のカケスが飛び立った。

羽の一部が鮮やかな青色に輝き、その色が真司の記憶に焼き付いた。

雪の中で見たその青は、都会のどんなネオンよりも強く、そして優しかった。

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