湯治の時間
---
初めての湯治場生活は、真司にとって、戸惑いと新鮮さが入り混じる時間だった。
朝は六時過ぎ、館内放送が流れるよりも前に、廊下のどこかで小さな足音や、障子を開け閉めする音が聞こえる。
隣室の老夫婦らしい声が「今日は雪片付けせねばな」と囁き合う。
部屋の空気は夜の冷気を引きずり、布団から出るのが億劫になる。
それでも、窓をうっすら開ければ、静まり返った雪原と、かすかな湯けむりが漂ってくる匂いが鼻をくすぐる。
寒さに肩をすくめながら浴場へ向かう廊下は、足裏に冷たい木の感触がじかに伝わってくる。
廊下の突き当たりで戸を開けると、ふわっと硫黄の匂いが押し寄せ、白い湯けむりが全身を包み込んだ。
目の奥まで温泉の湿気が入り込むような感覚に、一瞬、息を止めてしまう。
「酸ヶ湯の千人風呂」。
その名の通り、木造の高い天井と広々とした湯船が印象的だった。
梁は長い年月の湯気で黒光りし、壁には湯の成分が薄く結晶している。
乳白色の湯は底が見えないほど濃く、湯面から絶え間なく湯けむりが立ち上る。
肩まで沈めると、冷え切った指先や背中のこわばりが、じわじわとほどけていく。
耳を澄ませば、どこかで湯の注ぎ口がごぼごぼと音を立てている。
---
「おや、新顔だねぇ」
背後からかけられた声に振り向くと、小柄で、真っ赤なほっかむりを巻いた年配の女性が肩まで湯に浸かっていた。
頬は雪の寒さでほんのり赤く、湯の蒸気で艶を帯びている。
「……あ、はい。昨日来たばかりで」
「まさえってんだ。この時期は毎年来てんの」
柔らかい津軽弁が、湯けむりの中で揺れる。
「観光じゃなさそうだべ?」
「ちょっと、休養しに来まして」
「んだべな。顔が疲れとるもん」
まさえは豪快に笑い、湯面にさざ波が広がった。
その笑い声には、他人の疲れを軽々と受け止めてしまうような力があった。
真司は、見ず知らずの相手にそんなふうに言われたのは初めてで、苦笑いしか返せなかった。
だが、その何気ない一言が、胸の奥に温かく沈んでいった。
---
朝食の時間になり、食堂へ向かう廊下を歩く。
廊下は一部、外気にさらされたようにひんやりとしており、窓の外には山の斜面に沿って積み重なる雪の層が見える。
角を曲がった先で、青い作務衣姿の若い男性が廊下の雪を払っていた。
竹箒で雪を外へ掃き出す動作は手慣れていて、雪が木枠から離れるたびに、乾いた音が響く。
「おはようございます」
「あ……おはようございます」
目が合った瞬間、相手が軽く笑った。
「中村亮です。お荷物とか、何かあったら声かけてください」
人懐っこい笑みと、作務衣の袖口から覗く手は、薪や雪かきで鍛えられたのか、指が節くれ立ち、色も日に焼けていた。
昼下がり、亮に誘われて外の雪かきや薪ストーブの火入れを手伝うことになった。
外に出ると、足首まで沈む雪の冷たさに息を呑む。
スコップで雪をすくい上げるたび、腰に重みが響く。
作業の合間に、亮が笑いながら言った。
「都会だと、雪は邪魔者扱いですからね」
「そうですね……毎朝ニュースで交通マヒの原因みたいに言ってますし」
「こっちは雪がなきゃ水もねぇし、春の恵みもない。めんどくせぇけど、ありがたいもんですよ」
亮の言葉は、真司の胸にじわりと沁みた。
雪国では、この重たく冷たい白が、人の生活を支えている――その事実を初めて意識した。
---
夕方、大浴場で再びまさえと顔を合わせた。
湯上がりの休憩所に腰を下ろした彼女が、湯気の立つ小さな椀を差し出してきた。
「これ、食ってみ」
中には里芋、人参、ごぼう、刻んだ山菜がたっぷり入った汁物――けの汁だった。
湯気とともに立ちのぼる香りが、冷えた身体を包み込む。
「冬はこれ食べて、体温めんだ。干し餅もあるから持ってけ」
素朴な味わいが、じんわりと胃の底へ落ちていく。
大阪での慌ただしい昼食では決して味わえない、時間をかけて沁みる温かさだった。
---
その夜、部屋の窓から外を眺めていると、雪の中を歩く人影が見えた。
黒いコート、ゆっくりとした足取り。
昼間、廊下ですれ違ったあの女性――笑顔を見せない美沙だった。
雪明かりの中で彼女はしばらく立ち止まり、頭上を仰いでいるようだった。
風も音もなく、ただ雪片だけが淡々と降り続ける世界の中で、その姿は一枚の絵のように動かない。
やがて彼女は、ゆっくりと背を向け、闇に溶けるように去っていった。
理由は聞けなかった。
ただ、その背中には、抗えない孤独が纏わりついているように見えた。
---
布団に潜り込んでも、なかなか眠れなかった。
大阪での日々、終わりのないメール、上司や部下とのやり取り、妻との距離感――
それらを思い返すたび、胸の奥にぽっかりと穴が開き、冷たい風が吹き抜けるようだった。
外では、雪が絶え間なく降り続けている。
音のない降雪は、不思議なほど時間の感覚を溶かしていく。
時計の針が進んでいるはずなのに、世界は止まっているように感じられた。
やがて、湯けむりと雪の静寂に包まれながら、真司はまぶたを閉じた。
ここで過ごす日々が、自分の中の何かを変えてくれるのではないか――
そんな予感が、微かに胸を温めていた。