雪の扉
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大阪の朝は、いつだって灰色の匂いから始まる。
始発電車が滑り込むホームに、鉄のきしむ音と人のざわめき、排気ガスと湿ったアスファルトの匂いが混じる。
まだ太陽は完全に顔を出していない。ビルの谷間の空は、鈍い鉛色に沈み、遠くで貨物列車の汽笛がかすかに響いた。
佐伯真司は、黒いビジネスバッグを肩に、いつもと同じホームに立っていた。
コートの襟を立てても、冬の風が隙間から入り込み、頬を刺す。
電車がホームに入ってくるたび、風圧とともに暖房の匂いが一瞬だけ流れてきて、すぐにまた外気にさらされる。
窓に映った自分の顔を、真司は無意識に眺めた。少しやつれ、頬の肉が削げたように見える。
髪は整える時間もなく無造作に伸び、目の下には薄い影――クマが刻まれていた。
広告代理店の営業部課長。
肩書きだけを聞けば、人からは「順調なキャリア」と言われるだろう。
しかし実態は、終わりの見えない会議と取引先対応の繰り返しだ。
午前中は二件のプレゼン。昼休憩は移動の合間にコンビニの自動ドアをくぐり、棚から適当におにぎりとペットボトル茶を取る。
移動中に片手でかじり、もう片方の手でスマホを操作し、次の資料を確認する。
味わう時間も、味を感じる余裕もない。
午後は上司からの無茶な修正指示がメールで飛び込んでくる。
同時に、部下から持ち込まれるクレーム案件。
「課長、これ、どうします?」
「……俺がやっとく」
その一言を何度口にしたか、もう数える気にもならない。
引き受ければ、自分の首が締まる。それでも、引き受けなければ部下が潰れる。
どちらにしても、疲弊は避けられない。
夜、ようやく自席に戻ったとき、視界がにじんでいるのに気づいた。
パソコンの画面がぼやけ、手元の資料に焦点が合わない。
瞬きを繰り返しても、霞は取れない。
それでも、「今日中に」と赤字で書かれた付箋の束を前に、手を止めるわけにはいかなかった。
背筋はこわばり、肩は鉛のように重い。
けれど、それを「疲れた」と認めたら、全てが崩れそうな気がした。
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二週間後、会社の近くにある診療所の小さな診察室。
医師は淡々とカルテをめくり、抑揚のない声で言った。
「佐伯さん、このままだと心身ともにもちません。休職を考えたほうがいい」
白衣の袖口が、紙をめくるたびに小さく揺れる。
診察室の空気は乾燥し、壁際の加湿器が弱々しく蒸気を吐き出していた。
「……休職、ですか」
真司の声は、自分でも驚くほどかすれていた。
休めば、その間の仕事は誰かに振られる。
その「誰か」もまた疲弊していく。
上司は眉をひそめ、部下は不安そうに自分を見つめるだろう。
そして、自分は職場から少しずつ忘れられていくかもしれない。
考えれば考えるほど、口を開くのが怖くなった。
「少し、考えます」
それしか言葉が出なかった。
医師はそれ以上追及せず、次の患者の名前を呼んだ。
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その夜。
妻がダイニングテーブルに夕食を並べていた。
湯気の立つ煮魚、湯気を含んだ味噌汁、薄い出汁の香りを纏ったほうれん草のお浸し。
どれも真司の好物のはずだった。
「お疲れ」
「……ああ」
それきり、会話は途切れた。
箸が皿に当たる音と、テレビのニュースキャスターの声だけが部屋に響く。
以前は、仕事の愚痴や休日の計画を笑いながら話していた。
「今度の休みに、どこ行こうか」
そんな何気ない会話が、もう何年もない。
自分の家なのに、座る場所を見失ったような感覚。
暖房は効いているはずなのに、指先がじんわりと冷えていく。
食事を終えると、無言のまま食器を片付け、真司は書斎に引きこもった。
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その夜、眠れないまま、ベッドの中でスマホを手に取った。
枕元の時計は午前1時を回っている。
検索窓に打ち込んだのは、「湯治 プラン」「静かに過ごせる宿」。
画面をスクロールする指先が止まるたび、無数の宿の写真が流れていく。
海辺、山間、湖畔――どこも静かそうだが、どこも決め手に欠ける。
ふと、ある文字が目に飛び込んできた。
酸ヶ湯温泉・七日間湯治プラン。
八甲田山のふもと、標高900メートルにある木造の一軒宿。
冬は深雪に覆われ、外界から切り離されたような世界になるという。
画面いっぱいに広がるのは、真っ白な雪原と湯けむり。
硫黄の匂いが漂ってきそうなほど鮮やかな写真。
その光景を見た瞬間、胸の奥で何かがかすかに揺れた。
気づけば、予約フォームに名前と日付を打ち込んでいた。
「送信」ボタンを押した指先が、小さく震えていた。
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二月中旬。
真司は青森空港に降り立った。
タラップを降りた瞬間、空気が一変した。
大阪とは別世界の冷気が頬を刺す。
吐く息は瞬時に白く凍り、空気は澄みきっているのに、肺の奥がびりびりと震える。
空港の外は、見渡す限りの雪景色。
色という色が消え、世界は白と影だけになっていた。
空港から出ると、頬を撫でる風が鋭く、耳の奥まで冷たさが突き刺さる。
バスに乗り込むと、車内の暖房が一瞬だけまぶしいほど心地よく、しかしコートを脱ぐほどではない。
車窓には、雪を抱えた針葉樹の林が続く。
やがて道の両脇は高く積み上げられた雪の壁となり、まるで白い峡谷を進んでいるようだった。
「すごい……」
思わず漏れた声に、運転手がバックミラー越しに笑った。
「ここらじゃ、まだこれくらいは序の口ですよ」
その言葉に、真司は小さく息をのんだ。
この先に待つ景色を、想像するだけで胸が高鳴った。
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やがてバスは、一軒の木造旅館の前で停まった。
屋根から垂れる氷柱が鈍く光り、玄関の奥からは白い湯けむりが流れ出している。
硫黄の匂いが冷気と混ざり、鼻をくすぐった。
木造の建物は、遠目には古びて見えるが、近づくと雪の重みに耐える力強さが感じられる。
靴を脱ぎ、廊下を歩くと、古い木が足元でかすかに軋む。
湯気の温もりと、木の匂いが混じった空気が全身を包み込む。
その奥で、ふと一人の女性とすれ違った。
黒髪のセミロング、無地のダウンコート。
彼女の頬は雪の冷たさでうっすら赤く、瞳は深く澄んでいる。
目が合ったが、彼女は何も言わず、かすかに会釈して通り過ぎた。
笑顔は、一度も見せなかった。
その表情は、どこか遠くの景色を見ているようで、真司の胸に小さな棘のような違和感を残した。