【禍津怪異譚】序・ロフト付きの部屋
彼に近付いてはならない。
彼は、さまざまに呼ばれてきた。
『占い師』『探偵』『浮浪者』『傍観者』『観察者』『干渉者』『触媒』──
『霊能力者』『拝み屋』『呪術師』『祈祷師』『霊媒師』、そして『ペテン師』。
誰が何と呼ぼうと、彼はいつも笑っていた。
ある者は彼に救いを見た。
ある者は彼に地獄を見た。
そして皆、最終的にはこう言う。
「あの男に関わったのが、すべての始まりだった」
彼に近付いてはならない。
だが──それでも出会ってしまったなら。
そのとき、あなたにはもう、彼の力が必要になっている。
……良くも、悪くも。
最初に死んだのは、予約で即日埋まった部屋の最初の住人だった。
女性。若かった。ベンチャー企業の事務職。
希望に胸を膨らませていたはずの彼女は、新しい生活の始まりに、ロフト付きの部屋を選んだ。
半年後、歪んでしまったロフトの梯子は交換された。
次に入ったのは、事故物件専門の男だった。
家具もほとんど置かず、無音のまま生活していたという。
十か月後、姿を消した。
三人目は、もっと静かだった。
睡眠薬を並べて、布団の中で息を引き取っていた。
誰にも見つからず、二週間。
遺書もない。
理由もない。
私は営業として、この部屋を売る気になれなかった。
だが、会社は言った。
「専門家に相談して」
だから、私はあの男に連絡した。
“不吉な男”に。
*
「こんにちは。お久しぶりですね」
第一声で、背中を撫でられるような感覚が走った。
言葉は丁寧で、声も柔らかい。
けれど、その声音に触れるたび、体の奥が冷えていく。
黒いニット帽。黒のパーカー。黒い革手袋。
この季節にしてはやけに重たく見える服装は、彼の笑顔とまるで釣り合わなかった。
それでも私は、ホットコーヒーを差し出す。
彼は「ありがとうございます」と微笑み、あたたかい飲み物を口に運ぶ。
私の喉は乾いていた。話す前から、緊張していたのだと気づく。
「で、今回も前回と同じような件で?」
彼はそう言って、私の目を見た。
にこやかに、親しげに。
だけど、その視線には底がなかった。
「はい……私共の扱っている物件に……」
「事故物件、ですね」
彼が先に言った。
私は苦笑いで頷くしかなかった。
「主な症状は?」
「……三件連続で、入居者が亡くなっています」
言葉にするたび、喉の奥が焼けたように痛んだ。
「最初はいつからですか?」
私は説明した。最初の入居者は二年前。全室予約で埋まった新築。立地もよく、売り出し当初は“成功”だと思っていた。
だが、静かな異変はすぐに起こった。
奇妙な音の苦情。気配。鳴き声のようなもの。
それが、あの一室から始まった。
「その部屋だけ、ですね?」
「ええ。他は何も」
私は声を潜めた。
「三人目は、つい最近……。さすがに、このままではまずいと思いまして」
彼は一度だけ目を伏せた。
祈っているようにも見えた。
そして顔を上げて、また微笑む。
「現場を見せていただけますか?」
*
部屋の前で、彼は一歩引いて立ち止まった。
鍵を渡すと、手袋越しにそれを受け取り、ゆっくりと鍵穴に差し込んだ。
扉を開けると、空気が変わった。
風はないはずなのに、髪が逆立った。
温度もないのに、背筋が冷えた。
足を踏み入れた瞬間、私は息を止めていた。
部屋の奥──ロフトの梯子の上、目に見えない膜が張られているような、異様な圧があった。
「ここ、霊道になってますね」
彼が言った。
「霊道……。なら、建物を迂回する形で──」
「無理です」
きっぱりとした口調だった。今までの穏やかさとは少し違った。
「ここは霊道の起点です。単なる通り道ではありません」
私は心臓を打たれたように感じた。
「……起点?」
「この部屋の真下に穴が開いています。そこから流れが始まっている」
彼は穏やかな口調のまま、淡々と告げた。
なのに、その言葉がまるで呪いのように重く、脳に残る。
「自然にできたものではありません。作為を感じます」
「じゃあ……誰かが?」
「あくまでも予想、ですよ。確定事項ではありません」
男の発言で逆に信憑性が上がってしまう。
競合他社の作為。
この部屋に、穴が開けられた。
「塞ぐことは……」
「できません。下手をすればこの建物全てが無間地獄になりますよ」
「じゃあ、どうすれば……」
そのときだった。
隣の部屋から、“パシッ”という音が聞こえた。
誰もいないはずなのに。いや、それを確かめに行く勇気はなかった。
空間がざわつく。耳鳴りのようなものがする。
私は一歩、彼の背中に近づいた。
「オフレコですが、手段はあります」
その背中から、静かに言葉がこぼれた。
「この起点を枯らす方法はあります。穴は残りますがね」
「枯らす?」
「はい。流れを逸らすんです。別に大きな起点を作ってやるんです」
「そんなことが……可能なんですか?」
「私には、可能です」
その言葉が、ゆっくりと、私の心を締め付けた。
自分が被害者から加害者に変わろうとしている。
「どこに、ですか?」
彼は地図を出して、指を滑らせた。
「このあたりはどうでしょう。位置的にもここより街の霊道にも近いですし、二年くらいで怪現象はなくなると思います」
その住所を見た瞬間、私は理解した。
そこは、競合他社が最近リノベーションを済ませたばかりの物件だった。
やられたのなら──やり返す。
その発想が、口をついて出る前に私の中に根を下ろしていた。
「……そこにしましょう」
彼は、やんわりと笑った。
「なかなか、強いお考えですね」
「やられたままでいるよりは、いいでしょう」
「では、明日には手を打ちましょう。領収書は御社宛でよろしいですか?」
「ええ。謝礼も、準備します」
そのとき、彼のニット帽の奥で目が細くなった。
優しい笑顔だった。
──なのに、私は無性に、その視線から目を逸らしたくなった。
「ありがとうございます。では、今日はこの辺りで」
彼は深々と頭を下げた。まるで“いいことをした”という風に。
そして静かに背を向け、部屋を後にする。
私は、ドアが閉まる音を、しばらく動けずに聞いていた。
*
始まりは、忌み地だった。
害獣の死骸が捨てられ、誰にも顧みられなかった山奥の片隅。
そこに、針の穴ほどの霊道の起点が生まれた。
時が経ち、人が増え、マナーが消えた。
軽い霊障が増えたことで、そこは本物として噂されるようになった。
管理者は困り果て、ある日、その穴は移動された。
移動させた先を、わざと集合住宅地にすることで──
管理している不動産会社が、頭を悩ませる。
それを繰り返した結果、今はこの場所に来たのだ。
そして、また移動させられる。
もちろん、ズラしているのは私である。
霊道の起点を動かすなど、本来はできることではない。
私にそれが可能なのは、ひとえにこの憑き神のおかげだ。
誰かが困っていればいい。
誰かが、代わりを背負えばいい。
依頼は回り回って私に届くようになっている。
私だって──食っていくかなくてはならない。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
『ロフト付きの部屋』は、【禍津怪異譚】の“起点”として書いた物語です。
深沢という男が何者なのか──その全貌は、まだ描かれていませんが、
今後も一話完結形式で、現代に潜む怪異と、そこに関わる“不吉な男”の物語を描いていきます。
次話『軍隊橋』も、よろしくお願いいたします。