第1話
サガミたちが龍帝王と血の契約を交わしたのは数日後のことだった。
血の契約とは、龍帝王の血を受けるものである。龍を降ろした身に龍帝王の血を入れることによって、生涯の忠誠を誓うというものだ。形式上そう言われてはいるが、実際にどのような作用があるのかはサガミたちには知らされていない。
式典という名目のそれは、世界にリアルタイムでしらされた。神剣の継承者が久しぶりに揃ったということで、世界中でお祭り騒ぎだ。
継承者が二人、同じ時代に現れることは稀である。それは龍帝王いわくの「龍が人を選ぶから」ということが第一の理由なのだろう。神剣を継承できる立場の者を、必ずしも龍が気に入るというわけでもないから難しいところである。
式典中、龍帝王はそれまでと変わりない様子だった。龍帝王の姿は世界には非公開であるため、顔どころか姿すらも隠されているのだが、サガミの位置からは見えていた。相変わらずの足首に、相変わらずの重たい雰囲気。異質な瞳はどこか冷ややかに思えて、サガミはずっと目を伏せていた。龍帝王の隣にはシキとリランが立っていた。二人はサガミを興味深そうに観察していたが、サガミはそちらにも視線を向けることはなかった。
式典が終わるとパーティーが控えている。サガミとナギが主役である。人が集まるためか龍帝王は欠席で、当然ながらシキとリランの姿もない。サガミはおざなりな挨拶まわりを終えて、ビュッフェに向かったキサラギを待つようにぼんやりと立っていた。
(鼠の国に行って、龍の崇拝者を探して……)
サガミの頭の中はすでに明日以降のことでいっぱいである。カグラがなぜ狙われたのか。どうしてサガミではなかったのか。鼠の国に行けば分かるかもしれないその答えに、サガミの心も落ち着かない。
(どこに行けば会えるんだろう。鼠の国はそんなに広くない。だけど人口は少なくもない。その中から龍の崇拝者を炙り出すには……)
「カグラ様の件、残念だった」
耳元で聞こえたような気がして、サガミは反射的に振り向いた。
そばには誰も居ない。みなそれぞれの会話を楽しんでいる。パーティホールは相変わらず賑やかで、会話の一つ一つまでは聞こえない。
気のせいだろうか。サガミはふっと視線を伏せる。
「継承者が二人揃う年に生きていられるとは運がいい」
「ナギ様はますますご立派になられた」
「龍帝王陛下もご安心なさったことだろう」
「そうだ、今度うちにぜひ来てくれ」
「何を言っているんだ、こんなめでたい日に」
賑やかだと思っていただけの“音”が、“言葉”となってサガミを襲う。誰の言葉かも分からない。けれどすべての言葉を脳が処理するものだから、意味はしっかりと理解できてしまう。
ホール中の声が聞こえる。気分が悪くなり、サガミは慌ててテラスへ出た。
「は、何……なんでいきなり……」
ホールを振り返ると、言葉はまるで細波のようにゆっくりと消えた。
ただの賑やかな声が聞こえる。言葉までは分からない。
(ありえない……こんなこと今まで……)
「サガミ様?」
やや駆け足で、料理を乗せた皿を持ったキサラギが心配そうにやってきた。サガミの異変に気付いたようだ。
「どうされました?」
「……何もないよ」
きっとサガミの勘違いだろう。何かがあったと騒ぎ立てるほどでもない。
サガミはひとまずキサラギから皿を受け取る。ホールに戻る気分でもないためにささっとテラスで食べてしまおう。そんなことを考えていると、勘違いにしようとしたサガミを否定するように、サガミの腕に一気に鱗が浮かび上がる。
「きゃっ!」
「サガミ様!」
サガミは思わず皿を投げた。陶器の割れる音が響く。サガミが驚きにふらついたのを、キサラギがとっさに抱きとめた。
「サガミ、様……?」
「いや! 助けて!」
鱗が侵食する。以前よりも広く、首元にまで迫っている。パキパキと見せつけるように浮かび上がったそれは、夢であったかのように一瞬で消え失せた。
「龍が……」
キサラギがつぶやくのを最後に、二人の間には沈黙が落ちる。
サガミはひとまず呼吸を整えていた。痛みはない。違和感もない。だからこそ気持ちが悪くて、どうにも理解が追いつかない。
これが龍帝王の言っていた“一体化”ということだろうか。
「……明日、朝一番で鼠の国に行こう。早くしないと……」
もしかしたら、サガミの命も危ないのかもしれない。キサラギはそんな言外の焦りに気付いたが、どうすべきなのかも分からず、ただ一つ頷くことしかできなかった。
式典とパーティーさえ終われば帰宅は自由である。そのためサガミは宣言どおり、翌日の朝早くに龍の宮を後にした。
ナギに挨拶はしなかった。なんとなく、言ってはいけないような気がしたからだ。
鼠の国は龍の宮から離れている。移動だけで丸一日。一度狼の国の屋敷に帰る時間もないため、荷物もそのままに向かうことになった。
道中には特に会話もない。サガミは落ち着いた様子で車窓から外を眺め、そしてそんなサガミを心配そうにキサラギが見ているだけだった。
途中で休憩も挟み、目的地に着いたのは一日後の朝である。サガミは身分がバレないようにとマントを羽織り、フードを深く被った。キサラギも同様の格好で扉へと向かう。
警備は特に何も思わなかったのだろう。疑うような視線を寄越すこともなく、二人を扉の中に入れた。
鼠の国は思っていたよりも普通の“街”だった。しかし法がないというのは本当なのだろう。建物は荒らされて壊れているし、人影はない。物音もしない街はどこか不気味で、二人は一度立ち止まる。
「……サガミ様、気をつけましょう。鼠の国は、」
「人がいる。こっちを見てる。一人じゃない。七、八……もっとたくさん」
キサラギの目には何も映らない。どこからか視線は感じるがそれだけで、その人数までは把握しきれなかった。
フードの下で、サガミは周囲を伺っていた。すると裏路地から子どもが飛び出して、でっぱったレンガにつまずいて大きく転ぶ。
「う……うわぁ〜ん!」
見ているだけでも痛そうな転び方だ。キサラギは少しばかり心配していたが、こういったときに真っ先に動くのはサガミである。サガミの出方を待ってから……とサガミを見ると、当のサガミは子どもを見ているだけだった。
「サガミ様? 子どもが……」
「うん。罠だと思う」
「罠ですか?」
「あの子が走ってくる直前、裏路地から会話が聞こえた。今も聞こえてる。算段を立ててるみたい。声をかけてほしいんだよ、あの子に」
フードの下でじっと子どもを観察しながら、サガミは淡々と語る。
(……話し声? 何を言ってるんだ?)
キサラギには視線や気配は分かっても、数や位置などはっきりとしたことまでは分からないし、当然ながら話し声も聞こえない。
「……まずは男を拘束、女は身ぐるみ剥いで回せ、質が良ければバラさなくていい、経路はいつもの地区、弾を確認しろ、声をかけたところで足を狙え、配置は……なるほど、あの建物の上までを複数人で固めてるみたい。ただ殺したいだけじゃなくて、商売もしてるんだ。鼠の国の中で完結した商売なのかな。もしも外に商売に行っているなら、この国に抜け道がある」
「サ、サガミ様、先ほどから何を……私には何も聞こえておりません」
キサラギの戸惑いを受け、サガミはようやく振り向いた。
「罠に乗ってみよう。ひとまず誰かに出会わないと目的が果たせない」
「目的とは?」
「龍の崇拝者に会うこと」
サガミはこれまで、鼠の国に向かう目的を一切キサラギに話さなかった。キサラギも容疑者で信用をしていないからだ。龍の崇拝者に会ってどうするのかは、きっとこれからも語られないのだろう。
「……承知いたしました。それでは私が、」
「私が声をかける。……キサラギは援護を」
サガミの頬がぱきりと割れたように見えた。しかし見間違いだったのか、それは瞬きの間に消えた。次には瞳の色が変わる。けれどこれも一瞬で元に戻る。
(……何が起きている……?)
キサラギが考えている間にサガミが踏み出した。子どもに近づき、身をかがめる。キサラギも慌てて続く。周囲に警戒を悟らせないようにと、子どもに集中しているフリに必死だった。
「きみ、大丈夫? 痛かったね」
サガミが声をかけると、子どもは泣きながらも膝を差し出す。擦りむけて血が出ている。サガミがそれに手を伸ばすと、背後の裏路地から武装した男が大勢現れた。
「サガミ様!」
男たちの動きに無駄はない。連携するように二人を囲み、脅すこともなく引き金を引く。サガミは間一髪でそれを避けると、近くに居た男の背後に回る。くるりと軽やかに回り込んだサガミの動きについて来られなかったのか、男は一瞬遅れて振り向いた。
「あなたたちは龍の崇拝者を知っていますか?」
男が手を上げた。こめかみに銃口を押し付けられている。男が隠し持っていた銃だった。回り込んだときにサガミに抜かれたのだろう。
あまりの出来事に、構えていたキサラギも動けなかった。ほかの男たちも動かない。子どももピタリと泣き止んで、今は近くにいた別の男の背後に隠れている。
「答えなければ全員殺します。答えてください」
「……俺は知らない」
銃口を向けられた男は、緩やかに首を振る。サガミの視線が近くの男に映る。その男も首を振る。順繰り視線を巡らせて、全員に知らないという仕草を返された。
「分かりました。ご協力ありがとうございました」
サガミが銃を下ろした。それと同時、銃を向けられていた男がサガミの腕を捻り上げた。
「サガミ様! 貴様、」
「おいおまえら! そっちの男押さえろ!」
「調子に乗りやがって!」
サガミを救おうと動き出したキサラギは、後頭部を重たい何かで思いきり殴られた。大きな岩が男の手にある。それをちらりと見たのを最後に、キサラギの意識は真っ黒に途切れた。