閑話・1
鼠の国の国境には、唯一壁がある。壁と併設して警備棟が設置されており、数名が常駐して二十四時間体制で厳重な監視がおこなわれていた。鼠の国には法などあってないようなものだ。厄介者のすべてが押し込められているために下手に解放することも出来ず、長年放置され年々悪化の一途をたどっている。
そんな鼠の国の壁の前に、一人の男がやってきた。男はフードを深くかぶっている。微かに見える口元はまだ若いようにも思えるが、警備は特に興味もないのか何かを聞くこともない。鼠の国は入国は自由だ。ただし簡単には出られない。
警備が壁にある扉を開くと、男は躊躇いもなく内側へと入る。言葉はなかった。扉が重々しく閉まる。二度と開かれない扉である。しかし男は怯えも戸惑いもなく、ただキョロりと鼠の国を見渡した。
内側は案外普通だった。入ってすぐに街並みが広がっている。建物や煉瓦の道は割れているが、暮らせないほどではないだろう。空気はどこか異様に感じる。荒廃した街を眺めながら、男はゆっくりと踏み出した。
視線を感じる。どこからかは分からない。複数あるからだろう。四六時中気を抜けない国とはなんともおかしなものだなと、男はつい笑ってしまいそうになった。
「ぅわあ〜! ままぁ〜!」
突然の声に驚き、男はマントの中に隠し持ったナイフに触れた。
年頃はまだ五つといったところだろうか。周囲には大人の気配がないから、親とはぐれたのだろう。空を向いて涙を流すその姿は、どこか痛々しいものがある。
男は思わず踏み出した。しかし背後から腕を掴まれ、二歩目は許されなかった。
「罠だ」
タンクトップにショートパンツというラフな格好に、真っ黒なマントを羽織った女が立っていた。銀の髪は腰ほどまである。色付きのサングラスがやけに似合う、端正な顔立ちをしていた。
「罠?」
「よく見ろ。裏路地の側に立っているだろう。仲間の男が出てくる算段だろうよ」
「……僕を狙って?」
「ああ。洗礼だな。入ってきたやつはみな狙われる。特におまえは身なりが良い」
「身なり……」
男は自身を見下ろすが、それが良いのか悪いのかはいまいちよく分からない。なにせこのマントは彼にとって最安価なものだ。
「ちなみにおまえは今、複数のグループから狙われている。あの子どものグループ。その隣の建物の二階の窓から覗いているグループ。あとは私たちの二つ隣にある雑居ビルで武装しているグループ。最後に私たちの真後ろの建物で真上から狙ってるグループだ」
「え! そんなにっ……!」
「逃げるにはすぐ後ろの裏路地に駆け込むしかないんだが……体力はあるか?」
「結構あると思う」
「オーケー。私はアズミ。おまえに協力してほしいことがある。頷くならこの状況から救ってやるが、どうする」
鼠の国に疎い男が一人で逃げ切れるわけもない。複数から狙われていることにも気付けなかったのだ。逃げ切れたとしても、そこから生きられる可能性は低いだろう。
一つの答えしか用意されていないような問いかけに、男は思わず苦笑を漏らす。男も一人でどうしようかと思っていたところである。渡りに船だと頷いて、アズミに手を差し出した。
「僕はカグラ。アズミに協力するよ。僕の頼みも聞いてくれると嬉しいんだけど」