最終話
狼の国の王宮敷地内にある石造りの大ホールで、男は膝をついて座っていた。物音は一つもない。やけにひんやりとした空間には、神剣、草薙剣と天叢雲剣が並んでガラスケースに入れられている。
以前は隠していたものだが、龍が解放されてからはすでにただの剣となった。今では神事に使われるだけのものである。
男は祈るように神剣に向き合う。無表情だった。
「ここに居たの、キサラギ」
入ってきたのはカグラだった。キサラギはすぐに振り返り、礼をとる。
「カグラ様。探させてしまいましたか」
「そろそろ竜の谷に行くのかなって思って」
「はい。……少し、ご挨拶をしておりました」
キサラギの目が神剣に向けられる。カグラはそれを辿り、肩をすくめた。
「それはもうただの剣だよ」
「そうですね。ですが……サガミ様を感じられるものはもう、この草薙剣くらいしかないので」
キサラギの小さな言葉に、カグラは目を伏せる。
「世界は変わったよね。生きやすくなった。……狼の国も獅子の国も肩の荷が降りたよ。グレア王も言っていたんだ、龍を守るのは重すぎたってね」
茶化すように肩をすくめたカグラに、キサラギは「そうですね」と柔らかに笑う。
「カグラ様が無事王となられて、サガミ様も安堵したことでしょう。生きていたことを案外すんなりと受け入れられたことは嬉しい誤算でした」
「あはは、まあみんな驚いてはいたけどね」
「驚きで言うなら、世界中が驚いておりましたよ」
キサラギがやってきたのを認めて、カグラは大ホールから出る。キサラギもそれに続いた。
サガミが起こした争い以来、世界は大きく変わった。狼の国と獅子の国の二強の時代が終わり、平等な平和が訪れたのだ。
獅子の国の王として立ったのは前王のグレアであった。獅子の国にはまだ息子が居るから、時が経てばすぐにでも世代交代になるのかもしれない。狼の国はカグラが王となり、狼の国と獅子の国は和平協定を結んだ。ナギの死の真相は秘められたままである。そしてナギのおこないについても、カグラが責めることはなかった。
鼠の国から逃げ出した悪人たちは、狼の国と獅子の国で雇われて過ごしている。管理区域に居るために国民も安全で、そして本人たちも食い扶持に困らないから充実しているようだ。
そして、龍と龍人族には「竜の谷」という区域が与えられた。
竜の谷は僻地にある。人間が近づくことは許されておらず、唯一人間と龍の情報の橋渡しをできるのは、これまで「龍殺し」と言われ忌み嫌われていた一族のみとされた。
「リランさん。迎えに来てくださったのですか」
王宮を出ると、リランが一人で立っていた。車などはない。どうやら単体でやってきたらしい。
「ええ。人の乗り物より、私が運ぶほうが早いので」
リランの目がカグラに流れる。カグラが軽く会釈をすると、リランも同じように返した。
「キサラギさん、傷はどうですか」
「もうすっかり完治しましたよ。死んだはずだったのですが……不思議な感覚です」
「龍の加護あればこそですね」
キサラギは死んだ。カグラいわく「死んだ瞬間にアザが消えた」とのことだが、それが生き返ったことと何か関係があるのかは分からない。カゾンもレブラスに撃たれ一度は確実に死んだらしいが、こちらも何故か生きている。カゾンに関しては末期の症状にまで「龍殺しの呪い」が進行していたのだが、それが一切失せて今ではすっかり元気になった。
「それでは参りましょう。そうだ、狼の国の王、カグラ様。アズミ様より伝言です。三日後、東の森の湖にて会おうと」
「えっ、三日後!? アズミ、いっつも急なんだよなぁ。……分かりました。時間を空けておきます」
「よろしくお願いいたします。今回もどうか内密に」
「もちろん。……龍と人の協定を破っているのが狼の国の王なんて笑えませんから」
リランはひょいとキサラギを横抱きに抱えると、にこやかにその場から駆け出した。
龍人族の身体能力は異常だ。そして彼らはその余ったエネルギーを定期的に放出したくなるらしく、こうして全力で駆けられるのは最高の機会らしい。
キサラギは到着するまで大人しく目を閉じる。人の乗り物ならば三日はかかるところが、彼に任せれば一日だ。ノンストップで駆け抜けるため、景色を見ていては酔ってしまう。
「そういえばキサラギさん、アズミ様が気にかけておりましたよ。元気な顔を見せて差し上げてください」
「ふふ、そうですか。まったく顔を見せてくれないので、嫌われているのかと」
「素直ではないのですよ。カグラ様とのこともですが……まったく、いつになったら進展するのやら」
「そちらは大丈夫そうですよ。カグラ様はあれで色々と考えているようですから」
二人はまったりと会話をし、休憩を挟みながら一日かけて移動を終えた。
竜の谷の付近には人間の気配は一切ない。人の住む街からうんと離れた国境に位置する、誰も近づかない盆地である。
「キサラギさん、お元気そうですね」
竜の谷に着いてすぐ、リランと共にやってきたキサラギを見つけ、ラルグが一番に声をかけた。龍人族は伸び伸びと生活をしている。以前よりも顔色も表情も明るい。
金龍は悠々と空を泳いでいた。相変わらずの存在感だ。
「アサギ様なら奥の社におりますよ。アズミ様はどちらかに行かれましたが……」
「ありがとうございます。……ラルグさん、その……サガミ様は……」
キサラギの小さな問いかけには、ラルグは悲しげに首を振るだけだった。
アサギは社の中でゆったりと腰掛けていた。キサラギを認めてもリラックスしている。龍の宮に居た頃よりも、アサギの雰囲気はうんと晴れやかだった。
「久しいな、同士よ」
「ご無沙汰しております」
キサラギがアサギの前に腰掛ける。畳の一室はそれほど広くはない。目の前にアサギが居るのだが、キサラギは不思議と緊張していなかった。
「人の世は変わらずか」
「はい。……カグラ様が王となり、世界から批判を受けていた狼の国が活気を取り戻しつつあります。獅子は変わらず。そのほかの国々も、アサギ様という存在を失っても不安定になることなく、争いなどなかったかのように日常を取り戻しております」
「……そうか」
アサギは嬉しげに笑う。
「嬉しいことだ。余の存在などなくとも人は生きられる。それが証明された」
「そう言ってくださると報われます」
晴れやかなアサギとは裏腹に、キサラギの表情はどこか陰っている。しかしキサラギは自身の表情に気付いていないのか、そのまま報告を続けた。
黙って聞いていたアサギが口を開いたのは、それからほんの数分後だった。
「気になることがあるのではないか?」
アサギは答えを与えない。だからキサラギは聞かなかった。
「……ですが、あなたは教えてはくれないでしょう」
「分からぬぞ、聞いてみよ」
二人の間に間が落ちた。外からは楽しげな声が聞こえてくる。天気も良い。気候も穏やかだ。しかしこの社だけは、どこか気温が低い。
「サガミ様は今、どちらにいらっしゃるのでしょうか」
キサラギの声は鋭かった。
「……銀龍の宿主の娘か」
「争いの終わったあの日、サガミ様は姿を消しました。目撃証言もなく、足跡も終えません。……アサギ様なら、銀龍の気配を終えるのではありませんか」
アサギは考えるように息を吐く。
「ああ、余は銀龍の居場所を把握している」
「今どちらに、」
「連れ戻そうとも無駄だ。あれは戻らぬ。人でもない、龍でもない。龍人とも違い、龍の血が通っているわけでもない。だから一人を選んだ。あれは異分子だ」
「……それはサガミ様の意思ではありません」
「あの娘は銀龍と一体化した。銀龍が食い破らぬ限り、あの娘は銀龍であり、銀龍はあの娘だ。意思は溶けている。銀龍の意思もあの娘の意思も同じだ」
キサラギは一瞬言葉をのみ込んだ。
「それでも! 私はサガミ様が何者であれ、これからも共に歩みたいのです……!」
声は震えていた。その思いがどれほどのものかを語っているようだった。
しかしアサギは折れなかった。「そうか」と簡素に言葉を返し、それだけである。居場所は語られない。やがてキサラギは諦めたように報告を続けた。
*
——狼の国のかつての王、サガミは、狼の国から忽然と姿を消した。国民の間では「件の戦争で殺された」「自身の罪に怯え逃亡した」と囁かれており、戦争の引き金を引いた人物として世界中から非難されている。しかし、狼の国の者も獅子の国の者も彼女を追うことはない。サガミは犯罪者として追われながら、同時に放置をされる不思議な存在となっていた。
『あなた人気者なのね。また誰かにつけられているわ』
銀龍の声が頭に響く。深くフードをかぶったサガミは、ちらりと微かに振り向いた。
「記者だね。以前、狼の国にも来たことがある人たちだ」
『まあ、そうなの。どうする?』
「どうもしないよ。どうせそのうち諦める」
これまでにも数名の記者に張り付かれた。好奇心の強い者や正義感を抱く者も居た。けれど結局サガミには着いてこられず、すべてが途中で諦めた。
『……あら。ついさっき、天龍のところに加護を受けた彼がきたみたいよ。もう定期報告の時期なのね』
「キサラギは元気そう?」
『ええ。アズミの治癒で随分調子は良いみたい』
銀龍は時々アサギと連絡を取り合い、あちらの近況をサガミに知らせる。その手段は分からない。龍には人間には測り得ない力があるようだ。
『あなたの居場所を聞かれたんですって』
「言ってないんでしょ」
『もちろん。だけど彼は、あなたを探す旅に出るかもしれないわね』
気がつけば、背後の記者はもう居なかった。
『これからどうするの?』
「どうもしないよ。私は何も食べなくていいし、眠らなくてもいい。人の世には馴染めない異常者になった」
『食い破ってあげたほうがあなたは楽になれるのかしら?』
「そんなことするつもりないくせに」
『ふふ、そうね。あなたのことを気に入っているもの。あなたを選んで良かったわ』
銀龍が穏やかに笑う。サガミは銀龍の感情を感じ取り、まったく食い破られる気配もないことに呆れた。
どうせサガミが何をしようとしているのかも分かっているのだろう。それでも銀龍は止めないし、指摘することもない。
それからも二人はポツポツと会話をしながら進む。向かうのは猿の国の山奥。狼の国の神剣継承の儀式にいつも訪れていた、魂移しの儀式をおこなえる者が住む秘境だ。
『諦めの悪さは一級品ね。私が魂移しなんかで動かないことは分かっているくせに』
「分かってる。だけど銀龍も自由になったほうがいいと思う。だから少しでもヒントが欲しい」
『そう? 私は今すごく楽しんでいるんだけど……そうだ。それなら少し遊ばない? この先にクプラと赤鉄の採れる場所があるの。そこを破壊するとかどうかしら』
サガミはピタリと足を止めた。クプラと赤鉄が採れる限り、人間は龍を脅かすことができる。少し悩んだ末、サガミは「いいよ、のった」と行き先を変えた。
『だから私はあなたが好きよ。これからもずっと一緒に居ましょうね』




