第3話
カグラは恐れることなく歩いていたが、目の前に人影が飛び出して足を止めた。しかし次には突き飛ばされる。一瞬の間に、いったい何が起きたのか。
素早く起き上がったカグラの前では、キサラギが膝をつき、胸元を押さえていた。
「キサラギさん!」
「キサラギ! 血が……!」
「カグラ様は、ご無事で……」
「僕は大丈夫! それよりもキサラギが!」
カグラは自身のポケットからハンカチを取り出すと、キサラギの胸元へと押し付ける。
我慢を切らしたウィジェが飛び出した。レブラスが反応するよりも早く銃を奪う。
「貴様! 何を、」
「こちらのセリフです!」
銃の柄でレブラスのこめかみを打つ。レブラスはふらついたが、倒れることはなかった。
「キサラギさん、大丈夫ですか!」
ウィジェが駆け寄る頃、倒れたキサラギの傷口に、カグラが必死にハンカチを押し付けていた。
「レブラス! おまえ、」
「っ、第二隊! 撃て!」
「いい加減にしろ! 龍を殺してどうなる! 争って何になるんだ! 今はそんな場合じゃないだろ! キサラギの手当てが必要だ!」
「争いを最初に起こしたのはあなたたちだ! 殺される覚悟で殺しているんじゃないのか」
「そうだな。その通りだ」
キサラギの呼吸は浅い。うつろな目で、ふらりと踏み出したアズミを見上げる。キサラギはアズミのことを知らないが、淡々としたイメージを持っていた。何にも興味がなく、いつも飄々と笑っている。とにかく感情などない印象である。それがどうだろう。今はなぜか、少し怒っているようだ。
「銃口を我々に向けたおまえこそ、死ぬ覚悟はあるのか?」
レブラスが隠し持っていた小銃を構える。しかしすぐにレブラスの手の内で暴発した。
「ぐあっ……!」
小銃が落ちた。レブラスはそれを追うこともできず、自身の両手から血が流れるのを茫然と見ている。手のひらが真っ赤だった。
「小僧、黙って聞いていればなかなか偉そうなことを言う。……忘れるなよ。私たち龍は、おまえたちを一瞬で滅ぼすことができる。何を相手にしているのかよく考えることだ」
第二隊が銃を下ろす。誰もがレブラスを見て怯えていた。
金龍は退屈そうだった。人間のことにはまったく興味がないのだろう。アズミが居るからここに残っているだけで、それ以外に理由はない。
『アズミよ。人間は愚かなものだ』
「ああ、分かっている」
「キサラギ! キサラギ、どうしよう、どうしたら血が止まる?」
キサラギの胸からあふれる大量の血を前に、カグラの顔が青ざめていく。
「……落ち着いてください、カグラ様。私は……」
「キサラギ!」
キサラギは肩を大きく揺らし、呼吸を繰り返していた。
「……ああ、本当に……何を言えば良いのか」
視界が霞む。まだまだ死なないつもりではあるのに、どうやら体は弱っているらしい。
息がうまくできない。胸も大きく動いていた。
「本当に……いろいろなことがありすぎて……嬉しいんです。笑いたいのに……今は、なぜでしょう、うまく笑えなくて……」
「もう喋るな。アズミ、キサラギを安全なところへ、」
「アズミさん」
キサラギがアズミを見上げる。アズミはただそれに視線を寄越しただけだった。
「ありがとう。私たちに……加護をくれて」
「……おまえたち一族にとっては呪いだ」
「両親に、伝えます。私たちは、龍に、愛されていたと……ふふ、きっと、喜びますよ」
手の感覚が戻ってきたのか、ふらりと立ち上がったレブラスが、震える手で小銃を持ち上げた。
「……カグラ様。……申し訳、ありませんでした。……私は、ナギ様に命ぜられ、あなたを、殺そうとしました。サガミ様を……泣かせて、しまいました」
「やめろよ、別れの言葉みたいなことを言うな! おまえは生きるんだよ!」
カグラは必死にハンカチを押さえる。血は止まらない。ハンカチに染み込み、もはや意味をなしていない。
「サガミはどうするんだ! おまえが死んだらひとりぼっちになるだろ!」
「……大丈夫、です……サガミ様は今……新しい、仲間と……」
レブラスが再び銃口をカグラに向けた。それと同時、金龍の尾が大きく振りかぶり、レブラスを筆頭に狼の軍すべてを蹴散らす。容赦のない動きだった。
金龍が咆哮をあげる。カグラはとっさに耳を押さえた。
『——アズミ、大丈夫だ。その人間は死なない』
「いいや、人間は脆い。すぐに死ぬ。弱いくせに、どうしてこうも自己犠牲に走るのか」
「……アズミ?」
『仕方がない。アサギのところに向かうつもりだったが、おれもここで待機していよう。……銀龍もいることだしな』
アズミが固く拳を握りしめる。その手の内からは、微かに血が流れていた。
*
パキン、と、龍帝王の足首の枷が外れた。歪な割れ方だ。窓の外を眺めていた龍帝王は、すぐさま自身の足を見る。
「……アズミ……?」
「陛下、いかがされましたか」
龍帝王のもとにやってきたシキとリランは、龍帝王の足元を見て眉を寄せる。
「……枷が外れた。アズミに、何か不測が起きたのかもしれぬ」
金龍の咆哮も遠くで聞こえた。あれは間違いなく威嚇の声である。
「……アズミ様の身に危険があったわけではないのでしょうから、まさか契約者に何か……」
「現在一族の生き残りは一人だったか?」
「どうでしょう、確認しているのは狼の国の王の側近だけですが……もしかしたらほかにも居る可能性はあります」
「……契約者が全員死に絶えれば、強制的に契約が終わる。この枷も必要がない。……そうか。アズミは、大切なものを失ったのか」
自身の鱗で作った首飾りをアズミに送ったのは、アサギが囚われて間もない頃だった。アズミは長く契約者に加護を与え続けてすっかり弱り、鼠の国に身を隠していた。心配をかけまいと龍人族を頼っていないだろうとは龍帝王も分かっていたから、首飾りはシキに秘密裏に届けさせたものである。
一度は不要だと突き返されたようだが、シキの説得もあり、最終的には渋々ながらにつけてくれたと龍帝王には報告があった。
アズミは義理堅い龍だ。だからこそ、自身の意思で首飾りを壊すことはしない。
壊れるとすれば、契約が終わり、龍力の供給が不要になった時だろう。
「……これであなたは自由です」
シキが固い声でつぶやく。その声はどこか信じられないという感情を含んでいる。
「あなたはアズミ様へ龍力を与えるため、ご自身では龍力を使わないようにとこの場に留まりました。人間の薬品の効果など、我々には長くて数年の効果しかありません。龍力が完全に戻った今、あなたはここから出ることが出来ます」
言葉には、シキの個人的な願いもあるのかもしれない。リランも口を挟むことなく静かに見守っている。
「逃げるなら、世界が混乱している今が好機です。あなたなら逃げ切れます」
重たい沈黙が落ちた。しかし少しのあと、龍帝王が緩やかに頭を振る。
「私はことの顛末をここで見守ると決めている。あの娘がここにたどり着くのか、この世界がこれからどう変わるのか、あの娘に余は賭けたのだ」
「しかし、」
「シキ。……陛下が決められたことだ。私たちはそれに従うだけだよ」
シキは納得のいかない様子だったが、渋い表情で頷いた。
龍帝王は困った笑みを浮かべ、窓から遠く外を見る。
外で何が起きているのか。たびたび龍の宮の使用人が部屋に訪れてはリランやシキが対応しているが、龍帝王にはすべては分からない。しばしぼんやりと考えていたのだが、龍帝王は何かに気付いたように、突然バルコニーへと続く広い窓に歩み寄る。
「陛下?」
側にいた二人も異変に気がついた。龍帝王に続き、バルコニーへと小走りに向かう。
龍帝王の部屋はバルコニーが広く、国を一望できるようになっている。高い場所だ。龍帝王よりも早く、リランがバルコニーを開き、龍帝王を思うままに外に導いた。
「見つけた!」
三人の目が空に向いた。
白銀の少女が舞い降りる。追いついた龍人族たちが龍の宮に控えていた狼・獅子の軍と争い、バルコニーの外側は戦場となっていた。
龍の宮は要塞だ。まだ龍帝王の暮らしている場所にまでは到達していないが、もう間もなくたどり着くだろう。
サガミがバルコニーに着地をすると、下からバルコニーへ向けて砲弾が放たれる。軍は龍帝王が出てきたことに気付いていないようだ。バルコニーは瓦礫と化す。龍帝王はリランに横抱きにされ、無事にその場から離れた。
「邪魔ばかりを!」
「サガミ王! ここまでだ! 龍帝王陛下に危害を加えるなど、世界への反逆だぞ!」
「アサギ様!」
サガミが舌打ちをするのと、ラルグが龍帝王を見つけるのは同時だった。
龍人族が一瞬龍帝王へと意識を向ける。龍帝王は驚いた顔をしたが、まいったと言わんばかりに眉を下げて微笑んだ。
「全員、アサギ様の安全を確保しろ! 人間には危害を加えるな!」
ラルグの号令に、龍人族の動きが変わる。血は一滴も流れていない。龍人族には負傷者もいるが、人間側には瓦礫に潰されたりしていない限りには死傷者はいなかった。
「狼の軍、引いてください! 私は陛下に危害を加えない!」
「あなたはもう我々の知るサガミ様ではない! どうしてこのようなことを……! カグラ様も嘆いていらっしゃいます!」
「カグラは関係ない!」
サガミは落ちていたライフルを片手に、空へと数弾発砲した。避難をしていた使用人が悲鳴を上げる。刃を交えていた軍人たちも、その音に驚いて振り向いた。
「私は龍の解放を望む! それ以外はいらない! 争う意思もない! 全軍撤退せよ!」
その言葉は不思議なことに、遠く離れたところにいた軍人にも届いた。
戦場が静まり返る。龍帝王もシキもリランも言葉を失った。
「人々は龍を恐れなくて良い! 龍は人を恨まない! だから人はもう龍に干渉をするな! 私の望みはそれだけだ!」
サガミの言葉が終わると、遠くで咆哮が轟く。喉が裂けそうな程の強烈な音だ。一番に反応を示したのは龍帝王だった。
「アズミ……?」
ピンクゴールドの龍が上る。強烈なその威圧感に、離れたところに居た軍人も、龍帝王や龍人族も言葉を失った。
「……アズミ様の龍体……」
金龍だけではなく、アズミまでもが龍体に戻るとは。
アズミが龍体をとったのはもう随分昔が最後だ。なにせ彼女は人間と契約をしていた。龍体に戻れるほどの龍力が残っていなかった。
「——人の娘、サガミといったか」
リランに合図を出し、龍帝王は崩れた瓦礫に降りた。サガミは睨むようにそちらを見上げる。周囲の緊張感を含む目も、一気に龍帝王に集まった。
「余は、貴様が人間と争うことも本意ではない」
「……私だって争いたくない。だけど龍を解放するには……」
「余はそれを望んでいない」
サガミの顔が渋く変わる。
「誰に何を吹き込まれたのかは知らんが、あまり大事にするものではない。撤退するのは貴様らだ。もう誰も傷つけるな」
「アサギ様……」
呟いたのは龍人族の誰だったのか。少し落ち込んだ声だった。
「人の子らよ」
龍帝王は今度、狼の軍と獅子の軍へと語りかける。
「龍は貴様らの敵にはならぬ。しかし反旗を翻す者が居る以上、今後の共生はできぬということなのだろう」
「……そのようです、陛下」
その男が前に出ると、軍人が一斉に膝をつく。
金の髪に金色の瞳。落ち着いた重たい雰囲気を纏う初老の男は、周囲を黙らせるには充分な存在感である。しかしシキとリランは固い表情で、龍帝王を庇うように前に出た。
「獅子の国、前王グレア様。ナギ王の行動についてはすでに耳に入っております。あなたが今更、陛下に何用でしょう」
「……愚息の愚行は私も存じております。申し開きもない。狼の国の王、サガミ王にも深く謝罪を」
グレアはサガミに向けて頭を下げた。サガミはグレアを鋭く見ている。
「我々人間は龍に対し、永く無礼を働いてまいりました。狼の国の前王であるルグランとも、生前よく話し合っていたことです。我々は龍を解放すべきではないかと」
「お父様が……?」
「サガミ。お前はやり方が少々乱暴すぎたな。時が経てば我々がうまく終わらせていたことだったんだが……カグラが亡くなったことから、すべての計画は崩れてしまっていたのだろう」
グレアはサガミに悲しげな笑みを向けたが、すぐに龍帝王へと向き直る。
「龍帝王陛下……いえ。竜王天龍、アサギ様。あなたを天にお返しいたします。永らく付き従っていた龍人族のシキ、リラン。そして鼠の国でひそやかに暮らしていた龍人族たちにも生活の場を用意しています。我々の監視下に置かれることにはなりますが、それでもよろしければ」
「その話は信じていいの?」
「信じなければ、この戦争は終わらない。おまえは無闇に人間を殺すのか?」
サガミはぐっと押し黙る。
「全軍撤退だ。これ以上龍人族と敵対するな」
「しかしグレア様!」
「命令だ」
遠くで龍が咆える。金龍とピンクゴールドの龍の存在感だけが、空を埋め尽くしていた。




