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かつて平和だった世界へ。名もなき龍より  作者: 長野智
最終章

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第1話

 サガミたちが鼠の国を抜けたのは、象の軍が来てから半日以上が経ってからのことだった。壁は壊され、計画通りに世界が混乱に陥っている。サガミのおこないはすでに世界中に知らされているのだろう。指名手配すらされている可能性もある。

 けれどもサガミに引く理由はない。もう世界は変わり始めている。龍が一柱解放されたのだ。世界が見惚れたことだろう。空を泳ぐ龍を前に、誰もが言葉を失ったはずだ。

「綺麗ですね。金龍だけはキラキラしてる」

 夜空というのに、金龍の周囲は微かに光り輝いていた。相変わらず気持ちよさげに飛んでいる。降りてくる気配はない。サガミは野営中の林から、龍人族と共に空を見上げていた。

「そうですね、心地良さそうです。……ああ本当に生きていてよかった。今日は素晴らしい日だ。金龍様のあのようなお姿を拝見できるとは……」

 涙ぐむ龍人族は、みな嬉しそうに笑っていた。

「そのうちあれが当たり前になりますよ」

「そうなれば嬉しいです」

 ラルグは深く頭を下げて、他の龍人族に寝るようにと言いに向かう。

 空に金が浮かぶ。サガミは自身の手を見つめて、そこが微かに銀に輝いていることを確認した。

 もうずっとこの調子だ。肌には鱗がびっしりと現れ、肌が発光する。鏡がないからサガミには分からないが、きっと髪も瞳も変化しているのだろう。

 すでに人間とは思えない体だ。戻る様子もなく、龍人族も“龍”という存在には馴染みがあるからなのか、指摘をすることもない。

 もしも戻れなくなったら。そんなことを不安にも思わないのは、サガミの中で何かがおかしくなってしまったからだろうか。

「サガミ様もおやすみください。明日も早くから動くことになります」

「……それ」

 戻ってきたラルグが持っていたのは、一冊の本だった。

「ああ、若いのが寝ることもせず読み耽りそうだったので取り上げたんです。おそらくウィジェから借りたんでしょう」

「そうじゃなくて、その文字」

 既視感がある。間違いなく、龍の宮の書庫で見た、そして龍帝王の足枷に刻まれていた文字である。

「これは龍人族に伝わる古い文字です。人間と龍が共生していた頃にはよく使われたものですが、今ではすっかり廃れました。とはいえ、人には読めないのですが」

「……その文字があった。龍帝王陛下の足についていた枷に」

 妖しく光っていた文字をすぐに思い出す。あれはどんな形だったか。

「……まさか、そんなはずは……天龍様を捕らえるための枷を龍人族が作るなど……」

「『栄華の時代』……その文字で書かれてあるということは、人間と龍の歴史が、龍人族の目線から記されているんですか?」

 サガミの視線はラルグの手元に固定されている。やや分厚い本だ。表紙は茶だが、読み込んでいるのか所々が傷んでいた。

 『栄華の時代。—幸福の百年についての書記—』その文字を追って、サガミの瞳が動く。

「……読めるのですか?」

「不思議なことに……最初に陛下の枷を見たときには分からなかったんですが、今はなぜか分かります」

「それは……」

 思うところはあったが、ラルグはそれ以上何も言わなかった。わざわざ不安を煽る必要はない。ただでさえサガミの姿は“龍”に近くなっている。サガミも気付いているのだろうし、指摘しなくても良いだろう。

「……これは我々がずっと、あの時代を思い、懐かしむために読んでいたものになります。若い者は特にあの時代に憧れているので、サガミ様が動いてくださり、金龍様が自由になった姿を見て、現実になるのではないかと嬉しいのでしょう」

「……妹、を……」

「? サガミ様のですか?」

「違う。たぶん陛下の足についていたあの輪っかには『妹へ分かつ』って書いてあった」

 文字が理解できる今、よくよく思い出してみればそんなことが判明した。ラルグは動きを止め、少しばかり黙り込む。

「陛下には妹が居ると聞きました。あの枷ももしかして……」

 ぱちん、と、一際大きく炎が弾ける。

「……サガミ様。ここからは史実にも載らない話になります。どうか内密にしていただけますか」

「歴史に……?」

「ワケあって消されたのです。……天龍様の妹君、アズミ様の存在です」

「それって、少し前に会った……」

「はい。——アズミ様は天龍様と同じく、龍の中でも最高の位にありました。そんなアズミ様はとある人間の一族を気に入り、加護を付与しました。……龍にとって“加護”とは契約です。契約をした龍はその力の少しを“加護”とし、人間に分けます。そのためアズミ様の力は弱まり、天龍様が人間に囚われるときにも逃げ切ることができました」

 揺れる炎を見つめながら、サガミはぼんやりと耳を傾ける。真実が何かは分からないが、サガミにはすでにどうでも良い。けれどもラルグが重たい荷物を置くように話し出したものだから、途中で止めることもはばかられた。

「……人に加護を与えた龍など、人間と龍の架け橋になるような存在は人間にとっては不都合なものでした。力が弱まっていたということもあり、アズミ様の存在は歴史上から消されました。天龍様のみが取り上げられるようになったのです」

 少し考えながら、サガミは納得したようにうなずく。

「……妹へ分かつ、ということは、龍帝王陛下の龍力を妹に分けているということですか?」

「古いまじないに、そのようなものがあったような気がします。一方は枷をつけ、もう一方には、龍力を送る者の体の一部……おおよそ鱗が使用されるのですが、それを身に着けます。しかしリスクはかなり高いですね。龍力を送る側も力が弱まってしまいますから」

「なるほど……だから陛下はあそこから動かないんですね」

 人間を愛している、など嘘だと思っていたが、思った通りである。

 龍帝王は今弱っている。枷も壊さないだろう。妹の安全が確保出来ない限りは現状維持を望むはずだ。

「龍殺しの一族の加護を無くすにはどうすればいい?」

「すみません、私にもそこまでは……ただ、龍の契約は末代まで続くとは聞いたことがあります。そのため気軽に契約などするものではないと。……もしかしたら、天龍様なら何か知っているかもれません」

 結局はそこに行きつくらしい。

「……サガミ様ももうおやすみください。余計な話をいたしました」

 ラルグが眉を下げて笑う。最初に見た笑顔よりも、幾分晴れやかだ。

「……おやすみなさい、ラルグさん」

 ラルグが安堵したように横になったのを見届けて、サガミも一応目を閉じた。


 龍は眠らない。眠る必要がない。ただ龍は何ものにもなれるから、睡眠を取る必要はないが睡眠の真似事はできる。目を閉じているだけに過ぎないが、体の状態は睡眠をとってでもいるかのように、人間のように機能が切り替わるのだ。けれども起きてもいるから、周囲への警戒が疎かになるわけでもない。


 サガミは夢の中にいた。見たこともない広い草原の真ん中だった。今よりも質素な服装の男女が、みな明るい顔をして行き来をしている。少し先に集落のようなものが見える。この草原も集落の一部なのかもしれない。


 空には龍が飛んでいた。多くはないが、金銀だけではない、青や赤の龍もいた。サガミはそれをまぶしげに見上げ、周囲を確認するように見渡す。

 とある場所では、子どもの龍に人間たちが果実をやっている。それを空の龍が微笑ましく見守っていた。

「お帰りなさい。待っていたよ」

 龍が降り立つ。それを迎え入れた人間の男が、龍の頭にキスをした。

「……ここはどこ……?」

 サガミは集落へと向かう。重たい足取りだ。途中、走っていた子どもとぶつかりそうになったが、子どもはサガミの体をすり抜けた。

「ご飯食べるわよー! 戻ってきなさい!」

「はーい」

「あら、銀龍様」

 もう少しで集落にたどり着くという頃、女が空を見上げてつぶやく。戻ってきた子どもも母親と手を繋ぎ、同じところを見ていた。

 サガミも視線を追う。真っ青な空を背景に、銀の龍が舞い降りた。

『金龍を知らない? 今朝から見ていないの。気配が多過ぎて追えなくて』

「こちらには来ておりませんよ。ふふ、また天龍様のところではないですか? 金龍様はいつも天龍様と共におりますから」

『そうねえ、金龍はあの人のことが大好きだものね』

「何かあったんですか?」

『ええ、少しね。……確認をしたいことがあったの』

 突風を起こし、銀龍は空に飛び立った。

 みなが銀龍を見上げ、清々しく微笑む。龍と人間が共生する世界。ここはかつて栄えた、龍人族が憧れた桃源郷のような現実だ。

 サガミの体が突然浮かんだかと思えば、空を飛ぶ銀龍と並んでいた。やがて二人の体が溶け合う。視点は銀龍に変わり、銀龍の少し焦った気持ちも伝わった。

 何を焦っているのだろう。先ほど女と話していたときには微塵も感じさせなかったそれに、少しばかり不安になった。

 銀龍がやってきたのは天龍の棲む深い洞窟だった。

『天龍、金龍が来ていない?』

『……ああ、銀龍か』

 洞窟の奥からやってきたのは、人型であるのに龍の尾を引きずり、足と手は龍型で鋭い爪が伸びている、全身に鱗を浮かべた天龍だった。銀龍が心配そうに頭を寄せる。天龍は控えめに笑った。

「金龍は来ておらぬ。あやつはアズミのことを探しに出た」

『アズミを……?』

「人間におかしな動きが見られたと言っておったか。アズミは特別人間と関わっておらぬからな、心配にでもなったのだろうよ」

『……実は私もそのことでここに来たのよ。天龍も隠れていたほうがいいわ。今は不安定な状態だもの』

「ああ、どちらにせよ余は動けぬ」

 天龍は弱々しく微笑む。

『人間が動き出したタイミングと、あなたがその状態になったタイミングが偶然同じだなんて思えないわ。それについても絶対に調べてみせるから』

「……もしもこのまま余が動けなくなったときには、アズミのことを頼む」

 その言葉に銀龍からの返事はなく、銀龍はただ頷くだけだった。

 サガミの意識が銀龍に溶ける。銀龍の心と感情がリンクし、思考までもが読み取れる。銀龍は終始疑っていた。人を愛する気持ちを持ちながら、その中に疑念を抱いていた。複雑な思考だ。銀龍自身もどうすれば良いのか分からないらしい。

 やがて銀龍が飛び立つ。天龍は目を細めて見送った。


 ——もう手遅れだったのよ。金龍はすでに魂を抜かれていた。人間は着々と龍を侵略していたの。


 瞬きの間に、サガミは再び草原に立っていた。集落も何もない。青い空と草原が続く。サガミの正面に、白銀となったサガミが居た。自身の手を見れば色が戻っている。


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